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7-3


「どうしてお戻りになったのです?」


 後宮の西に静かに佇む白虎殿。その客庁で、蒼貴妃雨柳が邸の主を問いただしていた。

 彼が睨みつける相手は、石賢妃俐安。後宮を密かに出奔した彼も、親征軍とともに戻ってきたのだ。


 雨柳は彼が再び白虎殿に入ったことを耳にし、強い憤りを覚えた。その勢いのままここにやってきたので、通訳を連れてくるのも忘れていた。眞の言葉で怒りをぶつけたところで、胡族である石賢妃には通じない。だが、言ってやりたいことはいくらでもある。


「貴殿には故郷に愛する者がいるのでしょう? それなのに、なぜこの異国の後宮に戻ってきたのです?」


 石賢妃が桜嘉の密命を得て故郷に戻り、兵を連れ帰ったことを雨柳は知っている。そしてそのおかげで親征軍が勝利したことも。「なぜ戻ってきたのか?」と問うのは意味がない。そんなことだって分かっている。


 石賢妃は形のいい眉の端を下げて困った顔をしている。派手な顔立ちの男だ。そんな表情でさえ絵になってしまう。


 桜嘉は雨柳に「石賢妃のことには興味がない」のだと言った。だが実際には彼に対狡蒙戦争の肝となる役目を命じていた。

 目の前のこの男は、ただ桜嘉の寵愛を独占しているだけではない――誰よりも彼女の信頼を勝ち得ているのだ。


「モウすこし、ユックリはなして、くだサイ」


 片言ではあるが石賢妃が返事をしたので、雨柳はギョッとした。なんだ多少は言葉が通じるのかと思うと、余計に苛立ちが募る。そのたどたどしい言葉で、彼は桜嘉とどんなやりとりをしたのだろう?


「では、ゆっくり言いましょう」


 雨柳は不躾に人差し指を彼に突きつけた。


「皇后になるのは、私だ。お前は、故郷に帰れ」


 おぉ、と大袈裟に石賢妃は目を丸くした。そして、屈託なく笑む。


「ワタシ、陛下のキサキ。デモ、寵ハ、モトメテない」


 だから自分のことは気にしないでくれ、とでも言いたいのだろう。彼は敵意のない笑みを浮かべている。


「石賢妃……お前、嫌なやつだな」


 雨柳の眉が吊り上がる。

 石賢妃は、彼が欲しくてたまらないものを手にしているくせに、そんなものは求めてないと言い切る。その恬淡とした様子が、忌々しい。


「朝廷に後ろ盾のない胡族に、大眞国の後宮政治は難しいだろう。気の毒ではあるが、我が蒼家はここでおくれをとるつもりはないし、私自身も陛下の寵を諦めはしない。覚悟しろ」


 雨柳は早口でそう言い捨てた。どうせ石賢妃には通じていないだろうが、直接言ってやったことに意味がある、と雨柳は思う。


 これまでは桜嘉の治世が長くあれと望むことは、雨柳の父の意向に反していた。だが、今は違う。蒼将軍は桜嘉帝を仕えるに足る主君だと見定め、彼女を支える決意をしたのだ。


 ――ならば私も、本気で寵を競わせてもらう。


 去り際に振り返ると、恋敵はとぼけた顔で頭をかいていた。


          ***


 親征軍が嚴山関から帰路についたその日。

 西の空に紫紺が滲む黄昏のころ、俐安は丘を登った。


 首都・永明から離れた辺地の丘だ。普段は牧草地として使われているらしい。頂上からは東に大きな街を見渡すことができる。大眞国の貴族が治める街で、親征軍は今宵そこに逗留することになっている。


「物騒だな。なぜあなたが一人でいるんです?」


 丘の上で待つ人物に、俐安は眉をひそめた。

 青々とした緑の中に立つのは、兵卒姿に身をやつした桜嘉だ。彼を呼び出した張本人なのだから、桜嘉がいること自体に驚きはしないが、一人でいるのは感心しない。


「この間誘拐されたばかりでしょう?」

「別に一人じゃない。そのへんに玉兎と承陽が隠れているさ」


 さらりと言った桜嘉は、俐安に「ついてこい」と命じて歩き出す。


 初夏の爽やかな風が二人の間を渡っていく。波立つ草原は落陽の淡い色に染まって、さらさらと静かな音を奏でていた。


 俐安は桜嘉の背を追って歩く。

 いくら扮装上手の桜嘉とはいえ兵卒には無理がある。肩も腕も薄く頼りなく、剣を振るうことなどできそうにない。


 ――それでも、なよなよしく見えないのが不思議だ。


 俐安は少し前まで桜嘉を侮っていた。我欲を満たすためだけに玉座を求める幼稚な娘として。


 しばらくして彼女は立ち止まった。振り返って、俐安を見上げる。

 桜嘉は言う。


「石賢妃俐安、よくぞあの短い期間に故郷に戻り、眞軍及び西石軍を連れて戻った。北芽との同盟締結の道を切り拓いたのもそなたの功績だ」


 思いのほか形式ばった桜嘉の言葉に、俐安は調子を乱された。


「まことに恐縮でございます」


 彼はその場で片膝をつき、敬礼する。


「西石、北芽両勢力との同盟なくば、狡蒙との和議も成らなかっただろう。今回の親征成功の最大の功績者はそなただ、石賢妃」


 俐安が桜嘉を見上げている。


 彼女は身丈が低いから、膝をついた彼との視線は近い。


 なんて美しい碧だろう――と桜嘉は見入った。


 彼と初めて相対した時もすいこまれそうな瞳だと見惚れたけれど、今この瞬間に胸を衝くのはそんな生やさしい感傷ではない。


 潔く、彼女は告げる。


「大眞国皇帝として、余はそなたに褒賞を与える――そなたに故国・西石への帰国を許す」


 俐安の反応を待たずに桜嘉は続ける。普段通りの笑みを刷きながら。


「よいか、『愛する女のために自ら身を引く』などというつまらぬ男をそばに置くつもりはない――俐安、あらゆる条理をぶち壊して、その者を迎えに行け」


 桜嘉は顎を上げる。


「身分の違いがなんだ。すでに夫がいるからといって、それがなんだ。そんなもの貴殿の愛とやらがあればどうにだってできるだろう」


 その娘への愛のために桜嘉の後宮に入ったと言うのなら、むしろその熱で愛する者を奪いにいけばいい。今でも忘れられぬ女のためなら、俐安はきっとなんだって成し遂げるはずだ。


「俐安の目がなくとも、西石との同盟関係を疎かにせぬと誓おう。だから俐安は、故郷に帰れ」


 ――それが、お互いに行くべき最善の道だ。 


 桜嘉は瞼を伏せた。


『幸せになってね』


 香雪はそう願ってくれたけれど、桜嘉にとっての幸せとは何だろう。


 那壊の愛にくるまれて、香雪は心から満たされている。

 晩年の暉蘭は、愛する男に何もかも捧げた――彼女の最大の所有物である帝冠まで与えてしまって、それで彼女は幸せだったのだろうか。


 今、手を伸ばせば届くところに俐安がいる。

 暉蘭も今の桜嘉と同じように飢えて渇いていたのだろうか。だから何もかも手放して、たった一つのものを求めてしまったのか。


 ――でもそんな私になってしまったら、私は、絶対に私を許せない。


 幼い頃に抱いた、暉蘭への怒り。

 登極が目的ではない。まだ何も果たしていない。

 桜嘉はこのまま男の皇帝として扱われたままではいられない。死して皇帝の位を奪われ、炎龍と呼ばれるわけにはいかない。


 桜嘉帝は、未来永劫女帝として語られなければならないのだ。女も善政を敷くことができるのだと、己の力で史書に刻まねばならない。

 阿明に告げたように、女だってなんにでもなれるのだと証明するのだ。


 ――だから、俐安のそばにはいられない。


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