7-1
和議締結の重積を成し遂げた桜嘉は、諸々の対応に追われて多忙を窮めたが、都に戻る前日にほんの数刻だけ休暇を得た。
その貴重な時間を、桜嘉は姉の香雪と二人きりで過ごした。
北芽の天幕で、桜嘉は眞から持参した茶を振る舞う。
「あぁ、懐かしい香り。まるで永明に帰ったような心地だわ」
「この茶葉は姉様に差し上げます。他にも足りないものがあればおっしゃってください、すぐに姉様の元に届けさせますから」
故郷に戻ることのない姉を気遣って桜嘉はそう言ったが、香雪ははっきりと首を振る。
「大丈夫よ、桜嘉。草原での暮らしにもう慣れているから。たまに街に出ることもあるし、足りないものなんて一つもないわ」
「姉様……」
姉のきっぱりとした物言いが寂しい。彼女はもう草原の妻で、桜嘉の知っている公主ではない。故郷への未練はないのだ。
そんな桜嘉の想いに気づいてか、彼女は茶目っ気たっぷりに言う。
「でも、この茶葉はいただいていくわね。那壊にも飲ませてあげたいし」
「もちろんですとも。新しい夫君と仲睦まじいようで、何よりです」
そうね、と香雪は照れくさそうに言う。
「心穏やかに過ごしているわ。狡蒙のところで荒んだ心が、少しずつ癒されていくよう」
「草原の民の中にも、那壊殿のように情や義にあつい方がいらっしゃるのですね」
香雪は頷く。
「そうね。野蛮な者も、そうでない者もいるわ。それは平原も草原も変わらないみたい」
姉の言う通りだ、と桜嘉は深く首肯した。大眞国にも野蛮で卑怯な者がいる。
「姉様にはあまりにもご苦労をおかけしました。けれどそのおかげで狡蒙と和議を締結できた。感謝申し上げます」
いやね、と香雪は笑う。
「それは桜嘉の力でしょう。それに、これからまだ大変よ」
「えぇ、まだ気を張って参ります」
和議は、狡蒙が国境を侵さぬ代償に、大眞国が毎年大量の絹と銀を贈ることを約したもの。つまり桜嘉は「金品で国境の安全を買う」決断をしたのだ。大眞国の朝廷にはこの和議に反発する者も少なからず出てくるだろう。
それに和議の力がいつまで続くとも分からない。隙を見せれば再び狡蒙は攻め込んでくるはずだ。
「草原からずっとあなたを支えるわ。これからは鳩だけでなく公式の使節も送れるようになるし」
「ありがとうございます。姉様も困ったことがあったらなんでもおっしゃってください」
香雪と桜嘉は手を握り合った。
「元気でね、桜嘉」
――これが今生の別れだ。
二人の手に、縋るような力がこもる。
本来、草原の民は戦に妻を伴わない。今回香雪がそれを認められ、さらに狡蒙との会談にも同席することができたのは、彼女が夫の那壊を脅したからだ。
『今回だけは、わたくしの我儘を認めてちょうだい! でなければわたくしは、桜嘉のもとに帰ります!』
那壊は、彼女の頬にそっと触れた。
『お前の願いなら、俺はなんでも叶えてあげたい。だが、お前自身を危険に晒すことと、お前が俺から離れることだけは認められない』
だから、と彼は条件をつけた。
『戦場に連れて行くのは、今回限りの例外だ』
このやり取りを聞いて、那壊は必ず香雪を大切にしてくれるだろうと桜嘉は信じることができた。彼は香雪の命を守ってくれるだけでなく、心も労わってくれる。香雪が過てば叱責し、道を正してくれるだろう。
何も心配はない。
けれど。
「姉様……お元気で……草原で、お幸せになってください」
明るく伝えて姉を安心させたいのに、どうしても声が掠れる。
「桜嘉、あなたもよ。あなたも幸せになって」
姉妹は抱き合った。香雪が背中を優しく叩いてくれる。幼い頃、眠れぬ夜にしてくれたように。
香雪は桜嘉の耳もとで囁いた。
「あの碧い瞳の殿方――あの方を桜嘉は愛しく思っているのでしょう? そして彼も……」
「ふふ」
心からおかしくて桜嘉は笑った。
攫われた桜嘉を、俐安はひどく心配し血眼で探していたのだと香雪は言う。その様子を見て、香雪は二人を懇ろな仲だと思い込んでいる。
桜嘉は自信満々に請け負った。
「大丈夫、幸せになりますよ」
いっそう強く香雪を抱きしめる。
そのぬくもりを愛おしく想いながら、桜嘉は姉との断絶の深さを思っていた。
***
草原を去る大眞国軍を、那壊率いる北芽軍が見送る。
両軍見守る中で、桜嘉と那壊は手を握り合った。
『念のため言っておくが』
那壊は遠慮なく桜嘉の瞳を覗き込んだ。彼の隣に立った香雪がその言葉を訳す。
『我々はお前を完全に認めたわけではない』
大眞国と北芽は盟約を結んだ。両勢力で狡蒙を挟み、その動きを牽制する。
『女の皇帝に大国がまとめられるのか、草原から見物させてもらう。力なき者と我々は手を結ぶつもりはないからな』
狡蒙を退けたものの、大眞国南部ではいまだに沐伸が皇帝を自称し、桜嘉から玉座を奪い返そうとしている。国は二分されたままだ。
桜嘉は顎を上げて鼻を鳴らす。
「は、それはこちらも同じこと。北芽のごとき新興の部族が我々と対等な顔をしていられるのは今だけよ」
北芽は、狡蒙から離脱した一部の者たちで形成されている新勢力だ。彼らが草原の有力部族になり得るかは、今後の那壊の手腕にかかっていると言っていい。
「私が国をまとめあげるまでに、そちらも狡蒙から可汗の称号を奪い取ることだな。でなければ、この盟約はすぐに崩れ去るだろう」
『言ってくれる』
那壊はにやりと笑った。
『まぁ、お前は俺の義妹でもあるからな。兄の威厳をみせてやるよ』
那壊は桜嘉の挑発を率直に面白がっている。訳していた香雪が、ひっそりと胸を撫で下ろした。
「姉様を頼んだ」
『任せろ』
その後、那壊は何か長々と述べていたが、香雪は頬を染めて俯き、それを訳すことはしなかった。きっと彼女自身が口に出すのは憚られるような、熱烈な愛の言葉を並べていたのだろう。微笑ましく思い、桜嘉は自陣へと戻る。
そこでは、虎大や玉兎とともに、俐安が彼女を待っていた。
不思議だ、と思う。
かつて桜嘉は、俐安の髪を眩い黄金のようだと感じていた。
だが見慣れてみれば、彼の長い髪の色は金というほどには輝いていない。歳月に明るさを磨き取られたような、燻してくすんだような、そういう老成した色を帯びている。
けれど、それでも彼は陽光そのものに見える。
その光を拒んで、桜嘉は瞼を伏せた。




