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6-8


 草原を渡る風は、強く夏の香りがした。

 桜嘉は皇帝の車である龍駕に揺られている。玉兎と香雪がその後ろを別の車駕で続く。香雪は変装し、玉兎とともに桜嘉の侍女として従うことになっていた。


 地平線まで望洋と続く草原の只中に、濃紺や緋の毛氈が広げられている。海原の小舟のようなそこに、どしりと構える男がいる。


 ――あれが、達阿打可汗か。


 桜嘉は龍駕の中からその姿を覗き見た。

 堂々たる風格の男だった。巨体に、狡蒙の王族が好んで着る純白の衣を纏っている。その絹の光沢は、頬から顎を覆う黒々とした髭を際立たせていた。遊牧の民特有の先の尖った帽子を戴き、その下に覗く瞳は猛禽類のように鋭い。


「大眞国皇帝陛下、よくぞいらっしゃいました。さぁ、こちらへ」


 狡蒙の男が三人、桜嘉の龍駕に近づき礼をした。流暢な眞語を話したのはそのうちの一人で、この男が会談の通訳だろう。


 ――さぁ、やってやろうじゃないか。


 武者震いを一つして、桜嘉は草原へと踏み出す。

 衆目の前に現れた桜嘉帝の姿に、通訳の男が目を丸くし、達阿打可汗は鼻で笑った。


 彼女は、鮮烈な真紅の襦裙に身を包んでいた。

 豊かな黒髪は高く結い上げられ、簪と歩揺で飾られている。あでやかな化粧、額には桜の花を模した朱の花鈿。腕に絡めた絹の披帛が風になびく。


「これは驚きました」 


 通訳が大仰な身振りで言う。


「まさか大眞国の皇帝陛下が女性であらせられるとは!」


 男は慇懃な態度を崩さないが、明らかに桜嘉を軽んじている。桜嘉はあくまで通訳を一瞥するに留め、その問いに応じる役は玉兎に任せる。


 この会談で桜嘉が成し遂げたいこと、可汗と対峙する上での不安。桜嘉はその全てを玉兎に打ち明けていた。玉兎は桜嘉の意図を汲んで、きっとうまくやってくれる。


「我が天子の出立ちに何かご不満がおありだろうか。いささかの礼も欠いていないつもりだが」


 玉兎は毅然と問い返した。皇弟・沐伸と結託した狡蒙は、女である桜嘉の即位は不当であるとしてこの侵攻を正当化したのだ。通訳の問いはすじが通らない。こちらが動揺する必要はないのだ。


「これは失礼いたしました」


 存外にすんなりと引いて、通訳は頭を下げる。


「それでは、会談の場にご案内いたします」


 狡蒙の男たちに先導され、桜嘉は歩を進めた。龍賀に従っていた蒼将軍がすぐ後ろをついてくる。


 草いきれが、ここは敵地であると強烈に告げている。

 数名の麾下を伴って天幕で構えて待つ可汗。その背後の遥かには、遊牧の民たちが馬を伴い居並んでいる。その軍勢と桜嘉の間に距離はあるが、彼らが馬で駆ければすぐに間合いを詰められてしまうのは明らかだ。


 自らの足で可汗のもとへと進んでいく桜嘉の内心は、死に向かうのと大差ない。


 ――だが、恐れるわけにはいかない。


 桜嘉は体の隅々までに意識を張り巡らせ、気負いや緊張、怯懦をいっさい表に漏らさなかった。


 ――余裕を見せろ。


 大らかに、かつ堂々と歩く。笑みは見せない。臆せず、真正面から静かに可汗の視線を受け止める。


 ――私こそが大眞国の、女帝だ。


「初めまして、緑覇の王」


 桜嘉は可汗の真正面に腰を下ろした。毛氈に直に座るのではなく、玉兎に用意させた床几を使う。

 桜嘉がこの場に従えたのは三人。玉兎と香雪、そして蒼将軍だ。自ら志願してこの会談に臨んだ香雪は、目深な紗の覆布で顔を隠している。


 通訳を介し、可汗が答える。


『よく来た、丹栄公主よ。お前は姉には似ていないのだな』


 第一声から可汗は桜嘉を公主と呼ばわった。皇帝として遇するつもりはないということだ。可汗の妻となった彼女の姉を引き合いに出したのも、桜嘉を己の妻と同格に見做そうという侮りの表れ。

 だが桜嘉は、それを易々諾々と受け入れない。


「達阿打可汗よ、公主とはどこにいるのだ? そなたは一介の公主と会うためにこんなところまでのこのことやってきたのか?」


 呆れたように言ってやる。背後の玉兎がくすりと笑った。可汗を挑発するよう命じていたのだが、それをうまくやってのけている。


「それに、恥ずかしげもなく平国公主の名をそなたが口にするとは信じがたい」


 ぴくり、と可汗の太い眉が動く。公主を攫われた分際で、と言外に込めたのが伝わったのだろう。可汗は副官と思しき男に視線をやる。副官が何事かを主に説明していた。


 桜嘉の衣を整えるふりをして近づいた香雪が、耳打ちした。


「可汗はこちらがわたくしを攫われた事実を掴んでいるのか気になっている。翻弄されているわ」


 その公主自身が目の前にいるというのに、可汗ら狡蒙側はそれに気づく様子がない。

 会談前に香雪は「簡単な扮装を施せば、可汗はわたくしに気づくはずはないわ。あいつ、陽の下でほとんどわたくしの顔を見ていないもの」と言い放っていたが、まさしくその通りらしい。


(こちらが一筋縄ではいかない相手だと示すのには成功した――ここからが本当の勝負だ)


「さて」


 桜嘉は、気負わぬ調子で切り出した。


「それでは和議の締結にうつろう。先日の嚴山関の戦いで、そなたらは卑しくも我々に奇襲を仕掛けた。にもかかわらず……」

『おい、大眞国の女』


 可汗は低い声で凄む。


『いつ和議を結ぶという話になった? お前が俺とどうしても話がしたい懇願したから、慈悲深い草原の可汗として、お前に顔を見せてやっているだけだが』


 桜嘉は心底驚いた風に目を見開いてみせた。


「おっと、これは失礼した。あれほどの大敗を喫したのだから、もちろん和議を結ぶつもりだろうと見込んでいたが」

『はっはっはっ! 眞の女は知らないだろうが、草原の男というのは戦況を読むのに長けているもの。あの退却を敗北と捉えるとは、幼稚すぎるわ』


 可汗は豪快に笑う。


『我らは和議など求めていない。我が最強の騎馬軍団は、今ここでお前たちを一捻りにしてしまえるのだから! そもそもお前は偽帝だ、交渉相手になどなるはずもないだろう。なぁお前たち!?』


 可汗が振り返ると、背後の狡蒙軍が雄叫びを上げた。大地が震えて、桜嘉の足もとまで振動が届く。

 桜嘉は両足を踏ん張って、その威圧に耐えた。

 そしてため息をついてみせる。


「はぁ、『戦況を読むのに長けている』という草原の可汗がこの程度の男だとは。少々期待はずれだな」

『あ? 何を言っている?』

「私がこの草原に何のために自ら足を運んだと思う? そして、どうしてそなたとの会談を望んだと?」


 その質問に可汗は答えない。だが、興味深そうな眼差しを向けてくる。


「可汗よ、そなたらが我が弟・沐伸と結託し、この私を玉座から引き摺り下ろそうとしているのは理解している」

『ならば話は早い。女よ、お前はさっさと偽りの帝冠を下ろせ』

「事を急くな」


 桜嘉はそう言って、すらりとその場に立ち上がった。そして大きく両腕を広げてみせる。


「我が弟の沐伸と、この桜嘉――どちらが天子にふさわしい?」


 風が吹き、桜嘉の歩揺をしゃらりと鳴らした。


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