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6-7


 那壊の軍営には、数千の天幕が張られていた。その中央の最も大きな天幕に招かれ、桜嘉は茶を供された。黄油バターが加えられた独特な風味の茶で、芯から冷え切った体を温めてくれた。慣れた手つきで茶を淹れたのは香雪だ。


「那壊は達阿打可汗の従弟なの」


 香雪が可汗に嫁いだのはもう二年近く前のことだ。


「可汗は強い指導者だけど横暴で、部族内に反対派は少なくなかった。その筆頭が那壊よ」


 香雪に間諜の疑いがかかると、拷問のような監禁が行われた。そこから救い出してくれたのが那壊だという。


 自分が紹介されたことを察して、彼は何事か口を挟んだ。もちろん桜嘉には理解できなかったが、香雪は那壊を見つめて微笑んだ。彼女の頬はほのかに朱に染まっている。


 俐安が香雪の説明を補足した。


「那壊殿はもともと達阿打可汗のもとに降嫁した香雪様に一目惚れしたそうで。可汗の妻になるのだから仕方ないと諦めていたところ、可汗による監禁が始まった。もともと可汗のやり方に賛同できないことが多かった那壊殿は、反旗を翻すとともに香雪様を救い出したそうです」


 情熱的な事の次第に目を丸くした桜嘉に、香雪は咳払いをする。


「だいたいそういうことよ。那壊率いるこの部族は、狡蒙に追われている。もちろんわたくし自身も。だから所在をあなたに知らせることができなかった……桜嘉、本当にごめんなさい」


 桜嘉は首を振った。


「姉様がご無事ならいいんです。恐ろしい目に遭っているのではと心配していたけど、今はすごく幸せそうだし」


 那壊は香雪のそばから離れず、香雪自身も彼の隣を心地よく感じているようだ。

 だがここに至るまでの香雪には、桜嘉の想像を絶する苦しみがあったはずだ。鎮星宮にいた時よりも彼女はずいぶん痩せた。達阿打可汗の拷問に耐え、今も草原の首領の妻になるために努力を重ねているのだろう。


 香雪は切なく微笑んだ。


「そうよ、わたくしは大丈夫。そんなことより桜嘉、あなたひどくやつれているわ? あなたに大役を押し付けて草原に向かったことが、ずっと後ろめたかったの」

「いいえ。香雪姉様と離れて心細かったけど、一人ではなかったから。この俐安も協力者だし、玉兎もいる。それに承陽や……承固だって」


 自分で口にしたその名に、どうしようもなく胸が痛い。


「強がらなくてもいいのに。あぁ、それにしてもすごいわ、桜嘉。本当に登極してしまうなんて」

「なにをおっしゃいます。即位など第一歩に過ぎないと、確認し合ったではないですか」

「その通りよ。その通りだけど……」


 感極まった香雪に、桜嘉はちらりと舌を出す。


「でも正直言うと、私も玉座に座った時には信じられない思いでした。まさか本当に皇帝になってしまうとは、なんて」


 二人は顔を合わせて苦笑する。


「わたくしたち、離れていても同じ気持ちでいたのね」

「だって姉妹ですから――それに私たちは、一つの野望を叶えるための、表と裏だから」


 二人が暉后の真実を知ったのは、まだ桜嘉が十歳にも満たない頃だった。


 母親の芙蓉とともに過ごしていた東宮の白鷺殿で、二人はその本を見つけた。古書を納めたくらの中だ。一番低い棚の本を抜き出した奥に、小さな扉が隠されていた。


 気づいたのは桜嘉だった。姉を呼び、二人で扉に手をかけた。恐る恐る、好奇心に突き動かされながら。


 その奥に、女帝・暉蘭の時代を記した古書が隠されていた。

 二人でそれを貪り読んだ日のことを、今でも忘れられない。


 ――女でも、官吏になれる時代があったんだ!


 その時桜嘉の胸に去来したのは、驚きであり、希望であり、途方もない怒りだった。


 ――そんな素晴らしい時代を葬り去ってしまうなんて!


 香雪が言う。


「あの日からわたくしたち、しばらく怒ってばかりだったわね」 

「ええ。己の不自由さの全てが、暉后のせいだと思えて」


 だがそのうち、過去の女に文句ばかり言っている自分達が愚かに思えてきた。

 だから、二人で暉蘭の時代のやり直しをしようと決めたのだ。


 再び女帝を誕生させる。過去に一度即位した女がいたのだからできるはずだ。幸い桜嘉も香雪も皇帝の娘。普通の女よりも多少は玉座に近い。


 桜嘉は姉が登極し、自分は彼女を支えるべきだと考えていた。狡蒙への公主降嫁が決まった時、桜嘉は自分がその役目を果たすと主張した。


『長子が帝位を継ぐのが条理。玉座に座るべきは、私でも沐伸でもない。香雪お姉様です』

『いいえ桜花。これから新しい時代を築くというのに、条理にとらわれてはだめよ』


 香雪は頑なに首を振った。


『長幼の序なんて関係ないわ。あなたの方が天子としての資質に恵まれている。わたくしは、そんなあなたを支える方が向いていると思うの』


 そう説得されて、やがて桜花は決意をかためた。


 ――私が必ず帝冠を手にします。女帝になってこの大眞国を、未来の娘たちが怒り嘆かずに済むような国に変えてみせる。


 途方もない野望で、思い返すと幼稚ですらある。

 けれど実際に、桜嘉は玉座についた。


 ただそれは、二人の目的を叶えるものではなかったが。


 ――そうだ、まだ終わるわけにはいかない。


 桜嘉は「女帝」ではない。このままでは彼女は正史に男の皇帝と同じように並べられてしまうだろう。


 ――そんなこと、許せない。


「俐安、そして香雪姉様。私はこの窮地を脱して野望を叶えたい。そのために、今一度力を貸してくれませんか?」


 香雪は頷く。


「あなたの悲願はわたくしのものでもある。助力を惜しむわけがないわ」


 俐安は肩を竦める。


「また言わせるのですか? あなたはただ、私に命じればいいのです。力を貸せ、と」

「そうだったな」


 桜嘉は苦笑した。そうだ、俐安は桜嘉の妃であり、共犯者だ。

 彼女は立ち上がった。


「では行くぞ、俐安。私に従え」

「はい、我が皇帝陛下」


 俐安は満足げに笑う。

 その笑みがやはり気に入らない。

 何もかも桜嘉のことを見透かしているようで。そして、それが心地よくすらあって。


           ***


 那壊の陣営を後にし、桜嘉は嚴山関に戻った。


 すでに俐安が彼女の無事を伝えていたから、虎大は平然と迎えてくれたが、玉兎は桜嘉の顔を見るなり泣き出した。桜嘉が玉兎の涙を見たのは初めてだった。


「玉兎、心配かけてごめんなさい。あと――いつも本当にありがとう」


 率直にそう言うと、彼女は不思議そうな顔をする。


「突然どうなさったのですか? むしろ叱責していただきたいくらいなのに……」

「大事なひとに、ちゃんと感謝を伝えるべきだと思って」


 そして玉兎のそばには阿明がいた。桜嘉を救った優しい少女は玉兎に預けられ、ぶかぶかだが清潔な衣にくるまれていた。桜嘉は阿明に改めて謝辞を述べるとともに、はぐれてしまった母親を探す約束をした。


 承陽も、兄と再会した。

 承固の亡骸を前に自失する彼に、桜嘉は嘘をついた。


「すまない、承陽。承固は拉致された私に連れ添い最後まで私を守ってくれた……私の代わりに、斬られてしまったのだ」


 真実を承陽に伝える気はなかった。承固が皇帝誘拐の実行犯であったことが明るみになれば、弟の承陽やその係累まで処刑せねばならなくなる。


 しばらく自失したのち、承陽はかろうじて声を発した。


「兄は……立派な武人でした。陛下を守って死んだのなら、これ以上の誉れはありません」


 彼らしからぬ固苦しい物言いが痛々しかった。


 そして三日後、桜嘉は嚴山関を出た。一軍を率いて、北へ向かう。

 狡蒙の王、達阿打可汗との停戦交渉のために。



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