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6-6


 桜嘉はユリアンの胸を拳で殴った。


「なんだ、いつも悟りきったことばかり言って! 二度と戻ってこなければよかった! その女と愛し合っていたんだろう!?」


 もう一度拳を打ちつけると、その手を止められた。俐安は桜嘉の手首を掴んだまま言う。


「――そうですよ。だから私はエルフリーデの幸せのために身を引いたんです」


 胸が苦しくて、痛くて、触れた彼の手のひらが温かくて、その全てがただ怖い。


「だから俐安は嫌なんだ」

「……桜嘉様?」


 桜嘉は涙を拭った。


「なぁ俐安、暉后が皇帝として即位しながら炎龍として葬られたことを覚えているか?」


 脈絡もなく始まった歴史語りに面くらう彼を置き去りに、桜嘉は滔々と語った。


 二百五十年ほど前、皇后・暉蘭は、夫である哀帝の死後玉座を奪い、女帝として即位した。


「にもかかわらず、彼女は史上最悪の悪女だとされ、正史に皇帝として刻まれなかった。挙げ句の果てに、この世を焼き尽くす炎龍だと罵られて」

「はい……なんとも、悔しいことですね」


 そうだ、と桜嘉は俐安の言葉を遮る。


「だが、それは暉蘭自身のせいでもある」


 桜嘉は唇を噛んだ。

 暉蘭は善政を敷いたと言っていい。けれど。


「晩年、彼女は若い男に溺れた。そして死の間際、己が愛したその男に帝位を譲ってしまったのだ」


 それを、桜嘉はどうしても許せなかった。


「次帝として即位したその男は、凡庸だった。暉蘭の死後、そいつはすぐに誅殺され、哀帝の孫が即位した。そして彼女の為した政策も、彼女の即位自体も歴史から抹消されてしまった」


 桜嘉は強く拳を握った。


「信じられるか? 暉蘭の治世には女も科挙を受けることができた――女でも官僚になれたんだ」


 その時代は一瞬で、完全に失われてしまった。

 暉蘭の愛人のせいで。

 暉蘭が愛に溺れ、その男に帝冠を与えたせいで。


「私は、別に皇帝になりたかったわけじゃない」


 ぽつりと桜嘉が漏らした本音に、俐安が目を見開く。


「私がこの国の頂点に立つべきだなどと、自信があったわけじゃない。自分の不自由な身の上が気に食わなかっただけだ。けれど真実の歴史を知ってしまったから……」


 桜嘉は決意したのだ。誰かがもう一度女帝になるしかない。暉蘭の時代をやり直さねば、永遠に女は「禍」のままだ。


「私は暉蘭を許せない。あの女が、この世で一番憎い――それなのに、私は今、暉蘭の気持ちが少し分かる」


 桜嘉は俐安の碧い瞳を見つめた。


「香雪姉様を蛮族に嫁がせ、承固も失った。彼だけじゃない、この戦で死んだ将兵はたくさんいる。その屍の上に築いた道を歩いているんだ――私は、炎龍になるわけにはいかない」


 だから、と呟き、桜嘉はその先を続けようとした。だが、それがどうしてもできなかった。


 朝陽が射し込む小屋に、痛々しい沈黙が流れた。

 俐安の表情に、ほんの少しのさざ波が立っている。


 桜嘉に言葉の先を求めるべきか、迷っているのかもしれなかった。


『ユリアン様!』


 結局、その沈黙は第三者によって破られた。

 扉の向こうから呼びかける声に、俐安が振り返る。西石の兵が小屋の中を窺っていた。


『お取り込み中のところ申し訳ありません。ですが、例の方がご到着されています』


 俐安はそれに応じると、桜嘉に向き直った。


「話の腰を折って申し訳ございませんが、実は取り急ぎ桜嘉様に会わせたい方がいらっしゃるのです」


 そう言って、俐安は桜嘉を小屋の外に連れ出そうとした。桜嘉はそれを拒む。


「承固をちゃんと故郷に帰してやりたいんだ。ここには置いていけない」

「もちろんです。承陽殿も、兄君と対面したいでしょう」


 俐安に命じられて小屋に入った西石兵が、承固の体を丁重に屋外へと運び出していく。

 その様子に安堵して、桜嘉も朝陽の中に出た。


          ***


 小屋の外は深い森の中だった。幾層にも重なる枝葉の間から朝陽がこぼれて、光がふわふわと揺れていた。


 桜嘉を捕えた男たちはすでに西石兵によって捕縛されていた。生きている者も、そうでない者もいる。


「桜嘉様、あちらを」


 俐安が指し示した方、森の奥から堂々とした体格の馬が近づいてくる。草原の民の軍馬だ。馬の鼻面を覆う独特の馬具と、騎乗した若い男の軽やかな軍装から、そう察せられる。


 なぜここに狡蒙が、と一瞬身構えたが、俐安にも他の西石兵にも緊張した様子はない。


 馬上から人が飛び降りた。手綱を握っていた男ではなく、その背後から。

 女だ。草原の民にしては覚束ない下馬だった。色鮮やかな衣が、ふわりと風に膨らむ。


「桜嘉っ!」


 女は叫び、桜嘉のもとへと走り寄る。彼女が纏っているのは見慣れぬ衣、髪飾り。でも、その黒く大きな瞳を、桜嘉は知っていた――ずっと探していた。


「こ……香雪姉様っ!」


 拘束されていたせいで思い通りに動かない足を叱咤して、桜嘉も走り出した。朝露でぬかるんだ地面に足を取られながら、まろぶように互いを求めて駆けていく。


 姉妹は、しっかりと抱き合った。


「香雪姉様っ! よくぞご無事で……!」

「桜嘉こそ! あぁ桜嘉……会いたかった!」


 涙でぐちゃぐちゃになった互いの顔を確認すると、また涙が溢れてきた。


 桜嘉に寄り添うように、俐安が隣に立つ。


「西石への帰国途上、攫われた平国公主の行方を知ることができました。軍の指揮を汀緒に委ね、私は香雪様をお探ししていたのです」

「……俐安っ」


 本当にこの男は、桜嘉の想定を超えた働きをする。桜嘉は涙を拭った。


「姉様、いったいどちらにいらっしゃたのです? ずっと心配していたのに」


 香雪は鳩に信書を託すだけで、所在や安否などを一切明かしてくれなかった。


「ごめんなさい、桜嘉」


 俐安に招かれて、香雪とともに騎乗していた男が近づいてきた。年の頃は三十程度だろうか。よく焼けた肌に、太く束ねた荒々しい黒髪。身丈はさほど高くないが、厚い胸と広い肩の堂々たる男ぶりの人物だった。


 彼は桜嘉に向き合うと、帽子を整えて手を差し出してきた。北方の民の挨拶だ。応じて握手を交わすと、香雪は彼を紹介する。


「この人は那壊なかい。狡蒙と決別した草原の部族を束ねる首領で――わたくしの新しい夫です」

「ハジメマシテ」


 男はたどたどしく言った。低い声だが、響きは穏やかだ。


「この人、眞の言葉を少し学んでいるの。本当に少しだけど」 


 那壊を見つめる香雪の眼差しは柔らかかった。


「桜嘉様、話すべきことはたくさんあるでしょう。西に彼らの軍営がある。そちらをお借りしましょう」


 俐安の提案通り、桜嘉たちは西へと移動した。  


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