6-5
西石の軍装に身を包んだ俐安は、小屋の中を見渡した。桜嘉の背後の娘に目を留め、そして承固の無残な姿に目を見開く。
息をついて、彼はまず問うた。
「その娘はいったい?」
「……戦に巻き込まれた我が国の民だ」
表情も、声音も、いつもの俐安の凪いだ調子だったから、桜嘉もただ静かに応えた。
頷いた俐安は背後を振り返ると、西石の言葉で何事か声を上げた。すると、彼の部下と思われる兵士たちが二人ばかり小屋に入ってくる。
「こちらで保護いたしましょう。このような場所に小さな子どもを留めるわけにはいきません」
「この少女には大恩がある、くれぐれも丁重に扱え」
「承知いたしました」
俐安の部下たちが阿明の手を引いていく。見慣れぬ容姿の男たちに阿明は戸惑ったが、桜嘉が心配しなくていいと言い含めると、素直に従った。
少女がいなくなり、小屋の中にぽつんと静寂が残る。
俐安は、桜嘉の顔を見て尋ねた。
「その血は?」
あぁ、と桜嘉は袖で顔を拭った。承固の血を吸ったし、彼女自身の血も流れている。
「大事ない。だいたいは拘束を解く時に己で作った小さな切り傷だ」
「そうですか。ならば手当ては少々お待ち下さい」
彼はそう言うと、桜嘉の横を通り過ぎ、承固のもとへと歩み寄った。彼を戒める拘束を剣で断ち切ると、俐安は外套を脱ぎ、虚空を睨んで硬直した承固の体を覆う。外套には大きく西石の紋章が刺繍されていて、その双頭の獅子は承固の尊厳を守ってくれるように桜嘉には思えた。
「……ありがとう」
桜嘉は瞼を伏せた。
もう二度と動くことのない承固を前にして、後悔と悲哀ばかりが積もった。
承固と承陽とのやり取りに何度も笑わされた。彼らと過ごす時間は親密で賑やかで――血の繋がった親や弟からは与えられなかった温かみを感じさせてくれた。
それなのに、承固は桜嘉を玉座から引き剥がそうとしたのだ。
何が彼をそうさせたのだろう。
不意に、かつて玉兎が桜嘉に進言した言葉が胸の内に蘇った。
――承固たちを騙し続けるのも、いつか限界がきます。彼らを信じ、打ち明けてしまっては?
そうか、と桜嘉は唇を噛んだ。
――私が、承固を信じられなかったから……。
涙が頬を伝い、唇からあふれる血と混じって、落ちていく。
それを、俐安の手が拭った。
「傷の手当てをいたしましょう」
彼はただそれだけを言う。間近で見上げた彼の瞳の色はあまりに深い碧で、どうにも現実味がわかない。
桜嘉は問うた。
「……なんで、ここに来た?」
俐安の片眉が跳ねる。
「西石から兵を連れて嚴山関に戻れと命じたのは桜嘉様でしょう? 別動体を率いていたゆえ少々遅くなりましたが、たどり着いたらあなたが関所から消えていた。それでお探ししていたのです」
懐から取り出した布切れで桜嘉の唇を止血しながら、彼は淡々と説明する。だが、桜嘉が知りたい「なんで」というのは、そういうことではない。
「ならばもう少しはやく助けに来ればいいものを」
「怒らないでくださいよ。お探しするのが遅くなったのはお詫びしますが、こんな山中であなたを見つけ出したんだ、謝意や称揚の言葉で迎えていただいてもいいと思いますが」
俐安はわざとらしい軽口を叩く。桜嘉もなんとかそれに応じた。
「感謝などするものか。俐安は私の玉座を守るためにどんな危険でも冒すと誓ったのだから。こんなものは契約のうちだ」
「はは、それもそうですね」
俐安は笑った。
「それで桜嘉様、いったい何があったのです?」
己の身に起きたことを説明すると、俐安は険しい顔をする。
「承固殿が誘拐の実行犯だったのですね」
「……易々と攫われた私が悪いのだ」
「まぁ、迂闊で間抜けだとは思いますね」
俐安はさらりと桜嘉を罵倒する。桜嘉はそれに素直に頷いた。
――そうだ、私は本当に間抜けだ。
いくら迎えに来たのが承固だったとしても、わざわざ深夜に、しかも玉兎がいない隙を見計らって城外へ誘い出そうとするなんて異常な事態に違いない。警戒して然るべきだった。
『俐安殿がこの近くまでいらっしゃっております。陛下に密かにお会いしたいと』
そんなくだらない嘘に、誘い出されてしまうなんて。
――愛や情など、君子を惑わせる毒だ。
かつて己が放った言葉が桜嘉自身の胸を刺す。
俐安の顔を見上げた。その碧い眼差しは、こんな状況ですらひどく凪いでいて、石俐安という男の大きさと遠さを思わせた。
「戻ってくるなんて、俐安は馬鹿だな」
なんとかいつもの調子を取り戻したくて、罵倒された仕返しをする。
「で、どうして戻ってきた? せっかく故郷の恋人のもとへと逃げ帰る絶好機を与えてやったのに」
俐安がほんの微かに唇を震わせたのを、桜嘉は見逃さなかった。
「……恋人など、おりませんが」
「元恋人だったか。すでに他人の妻になったのだっけ?」
あぁ、と彼は静かに答える。
「エルフリーデのことですか。なぜ桜嘉様がご存じなのです? ……まぁでも、調べれば分かることか」
えるふりいで、と呼ぶ俐安の声の響きが、いやに清くやわらかく聞こえる。
「そうだ、そんなことくらい知っている」
ちゃんと分かっているのだ。
「俐安なんて、戻ってこなければよかったのに」
「桜嘉様……?」
俐安は困惑している。助けに来るのは当然だと言い放っておきながら、今度は戻ってこなければ良かったと言う。桜嘉自身も、おかしなことを口にしているという自覚があった。
だが、止まらない。
「俐安がもっと早く来ていれば! いや、そもそも、俐安が後宮になど残らなければ――私が、皇帝になりたいなどと望まなければ……!」
言葉も、涙も止まらなかった。
「承固は、死ななくて済んだのにっ!」
悲鳴のような桜嘉の叫びを前にしても、俐安は冷静だった。
「桜嘉様、鄭承固は皇帝を拉致し、誅殺を助けようとしたのです。彼が死んだのは桜嘉様のせいではありません――むしろ捕まって裁かれていたら係累にまで罰が及んでいた。ここで斬られて、良かったかもしれません……」
彼の言葉は正しくて、無性に腹が立つ。俐安は桜嘉の前ではいつでも理性的だ。
――条理を踏み外して、決して手に入らぬ一人の女を求めたくせに……!




