6-4
だが、感傷に浸っている時間が桜嘉にはない。
苦戦しながらも、桜嘉はなんとか口だけで刃物を襟から取り出した。何度も唇が切れ、口もとが血にまみれる。血濡れた歯で必死に刃を咥え、まずは手を縛る縄を少しずつ切っていく。
(はやく、はやく……!)
漏れ入る陽射しがどんどん力強くなっていく。このままでは出立の準備が整ってしまう。その前にこの拘束を解かないと。
こんな小さな刃物では縄は思うように切れない。血でぬかるんで、何度も刃物を落としそうになる。
「やった」
手の縄が切れた。これで手が自由に動く。よし、次は足だ――。
「あの」
その時、前触れもなく扉が開いた。
桜嘉が悲鳴を堪えられたのは奇跡だった。心臓が跳ね上がって、体が縮こまる。
「あなたの様子を見て来い、と」
桜嘉にかけられた声は少女のものだった。彼女はおそるおそる桜嘉に近づいてくる。
幸い、桜嘉は体を大きく曲げて丸まっていたので、手の拘束が解かれたことは見られずに済んだ。
(あとは足だけなのに……なんとか時間稼ぎをしなければ)
桜嘉はもう一度、わざと激しく咳込んだ。
「ごほごほごほっ!」
流行り病を恐れ、少女がここから立ち去ればいい。そう意図したのだが、少女は一瞬だけ躊躇した後、桜嘉の方に足を踏み出した。
少女は、丸めた桜嘉の背を優しくさすってくれる。
「つらいんだよね、苦しいんだよね」
そう言いながら、ほんの小さな手が桜嘉をいたわる。
「父ちゃん、すごい辛そうだったのに……あたし、怖くて、最期は看病できなくて」
少女が鼻をすする。
「だから、あなたのことは、見捨てないから」
その言葉が桜嘉の胸を強く衝いた。
――あぁ。
視界が滲んで揺れていくのを、止めることができない。
――何をやっているんだ、私は。
こんな心根の優しい少女を騙し、利用して、一人だけここから逃れようとしている。
――私は、そんなことのために玉座を求めたわけではない。
ゆっくりと桜嘉は身を起こした。そしてしっかりとした声音で言う。
「ありがとう阿明、私はもう大丈夫だ」
病に臥せっていたはずの桜嘉が凛然と言い放ち、しかもその手の拘束が解かれていることに気づいて、少女は息が止まるほど驚いていた。
「私はここから逃れねばならない。そのために病んだふりをしていた――騙してすまなかった」
頭を下げると、少女の困惑がさらに深くなる。けれど彼女はすぐに「病気じゃないなら、よかった」と言ってくれた。
桜嘉は手を差し伸べた。
「阿明、ここからともに逃げよう」
承固を利用し、価値なしと見るやすぐに斬り捨てた男どもが、少女を最後までまともに扱うとは思えない。それに、阿明は捕らえられた桜嘉を見てしまったのだ、彼女もきっと口封じに消されてしまうだろう。
だが、阿明はぶんぶんと首を振った。
「そ、そんなの無理だよ。外にはたくさん男の人がいる。逃げられるわけないよ」
「男は何人いるんだ?」
「数えてないけど、多分、十くらい……」
桜嘉は黙考した。
「……そうだな、二人で今ここから飛び出すのは無理だ。だが、移送の途中に隙をつければ」
桜嘉はそう言いながら、再び足の縄に取り掛かった。もうすぐこの最後の拘束も解くことができる。
だが、少女は怯んでいた。
「でも、あの男たち、武器を持ってるし。それにあたし、あなたのことを見張ってろって言われてて」
阿明は、一歩後ずさる。
「別に逃げたって、行くところないし。あの男たち、食べ物、くれたし」
もう一歩、少女は後ろに逃げた。
「待て、阿明」
桜嘉は少女を制止した。
「はやまるな。私と逃げるのが、阿明が助かる唯一の道だ」
「そ、そんな……というか、そもそもあなたは誰? なんで捕まってるの?」
阿明はちらりと外を見た。
「あの男たちから逃げられたとしても、戦があるんだよ。狡蒙に捕まったら、もっとひどい目にあうかもしれない」
その時、桜嘉の足を縛っていた縄がついに切れた。
大きく息を吐きだし、桜嘉はゆっくりと立ち上がる。
口の周りは血まみれで、拘束が解かれたばかりの足はふらつく。結ってあったはずの髪は乱れて、ひどく情けないありさまだ。
だが、桜嘉は威厳を持って言い放った。
「私は――この国の皇帝だ」
ぽかん、と少女は口を開けた。言われたことを呑み下せず、喉を詰まらせている。
「狡蒙と手を結んで皇帝である私を捕らえ、内戦を起こそうとする勢力がいる。それがあの黒装束の男たちだ。私は彼らから逃れ、まずは狡蒙を打たねばならない」
それを聞き、しばらく頭を整理した後、阿明は怒りだした。
「そんな嘘、信じるわけない。だいたい、あなたは女でしょう? 女が皇帝なんて、ありえない」
その強い否定に、桜嘉は一歩踏み出した。そして、少女の小さな手をとる。
「違う、それこそ嘘だ。女だって皇帝になれるんだ。女は、なんにでもなれる――」
見開いた阿明の瞳に、桜嘉の強い眼差しが映っていた。
――そうだ、私はそのために……。
その時、小屋の外が湧きたつように騒然とした。
馬の嘶きに、男たちの怒号が混じる。
「な、なにっ!?」
怯えて頭を抱えた少女を、桜嘉はとっさに背後に庇った。
(何が起こっている……?)
桜嘉は頼りない刃物一つを構え、扉を睨みつけた。背中にしがみつく少女の小さな手を感じる。
(この娘だけでも、助けねば)
――私は、こんな少女のために玉座に登ったのだから。
扉が、ぎぃと軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。朝陽が刺すように眩い。
はやく目を慣らして、新たな状況に対処せねばならない。
桜嘉は光の向こうに目を眇める。
視線の先には、長身の男がいた。陽光を遮って扉の前に立っている。
黒装束ではない。外套を纏った、見慣れぬ甲冑の軍装だ。
逆光を背負ったその身体は、肩で激しく息をしていた。それを整えて、男が言う。
「桜嘉様、こんなところでなにをなさっているのですか」
どくん、と桜嘉の胸が音をたてて跳ねた。
――なんでだ?
その声は、ひどく懐かしかった。
――二度と戻ってこないと思っていたのに。
歩み寄る彼の髪が、陽を映して黄金に煌く。
――俐安……っ!




