6-3
体の内側が全て凍りついている。
床に転がされた桜嘉の頬に、赤黒いものが届く。承固の血だ。
承固は、もう動かない。目を見開き虚空を見つめたままの彼があまりにも憐れだった。
(どうして、どうして)
そればかりが桜嘉の頭を巡っている。
(どうして承固は私を攫った?)
彼は、誰よりも忠義ある桜嘉の護衛だったのに。
(私は、承固にとってどんな主だった?)
承固と承陽と玉兎。三人が側にいてくれたから、なんとかここまでやってこれたのに。
(どうして彼に見限られてしまったのだろう)
永遠のような冷たい時間。それがどれほど続いた後のことだろうか。
小屋の外に人が動く気配を感じた。隙間から漏れる光が、先程より力強い。
桜嘉を移送する準備を整えているのだろうか。
彼女はこの後、沐伸のもとに差し出される。待っているのは謀叛人としてのむごたらしい死だ。
桜嘉にはそれこそが己にふさわしい最期に思えた。だって、承固は彼女のせいで死んだのだ。
だが、ひとすじの陽光が、転がる桜嘉の目の前に届く。
――でも。
その光を、彼女は必死につかみ取ろうとした。
――承固が最期に託してくれたものを、無下にすることはできない。
桜嘉は首を持ち上げた。小屋に一つだけの扉を睨みつける。
考えろ、と彼女は己を叱咤した。
桜嘉は両手両足を縛られ、猿轡をされている。動くことも、話すこともできない。体は小さく非力で、無力だ。助けを求めることすらできない。
――私に今できることは、小賢しいと評されたこの頭を駆使することだけだ……!
桜嘉は身を振り絞り、承固が作った血だまりの中に顔を突っ込んだ。凝固し始めている血を、猿轡の隙間から必死に吸い込んで口の中に蓄える。
そして、力の限り呻いた。
「んん、ん……!」
喉の奥で必死に上げたその呻きは、無事に外に届いたようだ。軋んだ音を立てて、扉が開いた。
「おい何やってるんだ」
逆光に視界を乱されて相手の姿は見えないが、その声から先ほど承固を斬った男だと判別できた。
「ぐはっ!」
桜嘉は頬の内側に蓄えた血を派手に吐き出した。体を曲げ、全身で苦しみを訴える。
「なんだ!?」
案の定男は桜嘉に駆けよってきた。
先ほどこの男は、桜嘉は沐伸の前で処刑されるのだと言っていた。ということは、まだ彼女には生きていてもらわねば困るはず。
「喀血? おいおいまさか病でも持ってるんじゃないだろうな」
男が慌てる間も、桜嘉は激しく咳を繰り返した。
「くそっ」
男は舌打ちを残して小屋を出て行ってしまった。
(だ、ダメだったか?)
閉ざされた扉を、桜嘉は絶望的な気分で眺めた。なんとか状況を変えようとしたのだが、桜嘉は男を逃してしまった。
だが、扉は再び開かれた。
「おい、あの女の面倒を見ておけ」
男の言葉とともに小屋に入ってきたのは襤褸布一枚をまとった小さな影だった。年の頃は十に満たなそうな、稚く小柄な少女だ。その少女がびくびくと桜嘉に近づいていくのを確認して、男は扉を閉めた。
小屋の中に残された少女は、承固の遺体に気づいて小さく悲鳴を上げた。
「ひっ」
肝が据わっていない普通の少女だ。戦に巻き込まれた、どこかの農村の子どもだろうか。
(いいぞ、あの男よりは利用しやすい)
「んんん」
橘花は少女に顔を突き出した。涙目で、苦しいのだと切実に訴える。
「あの、でも、手足を自由にしてはいけない、と言われてて」
少女は怯えたようにそう言った。桜嘉はうんうんと頷いて、もう一度己の顔を――その口に縛り付けられた猿轡を示した。
「それだけなら、いいかな」
少女は桜嘉の背後に回り、頭の後ろの結び目に取り掛かった。小さな手で必死に縄をほどこうとしてくれる。
「固い……」
少女は諦めて尻をついてしまった。
だが、ここでこの子に投げ出されるわけにはいかない。
桜嘉はぽろぽろと涙をこぼし、少女の同情を引いた。どうあってもこの少女を頑張らせねばならない。
「そうか、つらいんだね……」
少女は奮起してくれた。再び縄に挑戦しながら、ぽつりとこぼす。
「あたしの父ちゃんも、死ぬ前にたくさん咳してた」
彼女は小作の子どものようだった。
縄を解こうと奮闘しながら、ぽつぽつと自分の身の上を語ってくれる。
ただでさえ貧しい暮らしの中、父親が亡くなって困窮し、さらに狡蒙急襲の報を受け粗末な家さえ放棄せざるを得なかった。命からがら逃げる最中に母親とはぐれ、途方に暮れた矢先にこの小屋を見つけたらしい。それであの黒装束の男たちに雑用として使われているという。
「できた!」
可愛らしい声が上がった。それと同時に、桜嘉の口をきつく押さえつけていた猿轡が外れる。
「はっあ……はっ」
桜嘉は大きく息を吐いた。
口が自由になった、これは大きな前進だ。
桜嘉は少女に尋ねた。
「……あなた、本当にありがとう。名前は?」
「阿明、だよ」
「ああ、阿明――ごほっごほっ!」
桜嘉はなるべく派手に咳込んだ。頬の内側を噛み、唇からさらなる血を溢れさせるのも忘れない。
「ごめんなさい、わたくしから離れてちょうだい。わたくし、流行り病を……ごほっ!」
少女は怯えて扉の方に後ずさった。
(そう、それでいいんだ)
桜嘉は声を掠れさせる。
「あの男たちにも、わたくしの病のことを……ごほっ、つ、伝えて……誰も、わたくしに近づかないで」
少女は青い顔で頷くと、素直に小屋の外に駆け出た。
(よし)
桜嘉は身を振り絞り、再び承固の遺体に近づく。
「ごめんね」
小さく謝ってから、承固の襟を咥え、はだけさせる。
桜嘉は、公主だった時から己の護衛たちに命じていた。武器を奪われた時のために、衣に刃物を仕込んでおくように。襟の内側、口でまさぐれば手に入るところに隠しておきなさい、と。
「あっ……」
果たして、袋状になった襟の内側に、固いものが隠されているのを桜嘉は見つけた。
鼻の奥がつんと痛む。冷たくなった承固の胸に、桜嘉は顔をうずめた。
(やっぱり承固は、私の……臣下だ)




