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5-4


 嚴山関は、首都・永明の北方に位置する関所だ。


 急峻な山並みの間隙を塞ぐようにれんがの関所が築かれ、北面は三重の城壁に守られている。南側には崖に挟まれた回廊のような地形が続き、そこを抜けてしまえば農耕地帯。眞の民の集落がいくつも点在する土地だ。


 嚴山関は大眞国の入り口。ここを落とされるわけにはいかなかった。 


 親征軍を率いてこの地に足を踏み入れた桜嘉は、その嚴山関を見下ろす山腹に密かに幕営を築いていた。

 関所を拠点にという声が多かったが、蒼将軍の判断で幕営はさらに後方に置かれた。万が一関所が破られても、桜嘉だけは逃げられるようにと考えてのことだ。


 その日は永明を出立して十日目の朝だった。


「陛下、もう少し後ろへ。いくら高所とはいえ、矢が飛んでこないとも限りません」


 焦れて崖の縁ににじり寄る桜嘉を承固が下がらせようとする。承陽も「もちろん俺たちが守りますけど」と言いながら、桜嘉の前に出た。


「えぇ、分かっているわ」


 そう答えながらも、桜嘉の足は二人の言に従わなかった。


 関所の外に広がる平原を凝視したまま、馬の嘶きや銅鑼の音、兵士のあげる怒号や悲鳴を聞いている。

 嚴山関を抜けてすぐ、大眞国軍は狡蒙の襲撃を受けた。布陣する間もなく急襲を受けた三十万の将兵たちは、狡蒙の軽騎兵に押されている。


 胸鎧に守られた身の内側で、桜嘉の臓腑がきりきりと痛む。


「陛下、そのような顔をしてはいけません」


 いつの間にか蒼将軍が桜嘉の隣にいた。彼女と一緒に戦場を俯瞰している。


「戦とは人が死ぬもの。天子はそれを受け止めねばなりません」

「……分かっているわ」


 俐安にも同じようなことを忠告された。人が傷ついたことことくらいで動揺するな、覚悟を持て、と。

 だがどうしても、これまで抑え込んできた迷いが影を落とす。


 ――そこまでして?


 姉を狡蒙に降嫁させ、弟を南に追いやった。条理を踏み躙り、多くの兵の命を失って。


 ――私は、そこまでして、皇帝にならねばならなかっただろうか。


「このままでは右翼が突破されます!」

かく将軍、戦死! 戦死です!」


 幕営に持ち込まれる報が、次第に切迫感を増していく。

 桜嘉は天を見上げた。


(まずいな)


 初夏の蒼穹は澄んで、清廉な美しさで地を覆っている。あまりにも他人事という感じがして、ひどく心細い。


 不意にその天穹を、一条の白が乱した。


「あれ、狼煙か?」


 承陽が目を眇め、天を登っていく白い煙を指差した。西の山中に、一本、二本と白い煙が上っていく。そして三本目だけが黒い。


(あれは……!)


 桜嘉はばっと背後を振り返った。


「蒼将軍! 関所を開けなさい! 今すぐ兵を退却させるのです!」


 幕営に動揺が走った。真っ先に承固が桜嘉のそばに跪く。


「へ、陛下。さすがにそれはできません。ここを突破されたら我が国は終わりです!」


 嚴山関の南は大眞国の本土。首都・永明まで、狡蒙が馬を走らせれば三日とかからない。

 蒼将軍も桜嘉を嗜める。


「兵卒の犠牲を厭うて、民を危険に晒すわけにいきません」

「そんなことは分かっています。とにかく関所を開けるのです!」


 常ならぬ桜嘉の強引な様子に蒼将軍は戸惑うものの、彼女に従う気はないようだった。

 だが、躊躇している暇はない。桜嘉はなりふり構わず怒声を発した。


「虎大、私の命がきけぬのか!? 私は天啓を受けてお前に命じているのだぞ!」


 唐突にあざなで呼び付けられ、将軍は唖然とした。

 桜嘉は畳んだ扇子で虎大の厚い甲冑を突く。


「いいから何も考えずに私に従え!」


 承陽、承固は主の変貌に驚き、固まって動けない。


「……天の、命令なのですか?」


 虎大はちらりと西の方角を見た。そこにはまだ狼煙がたなびいている。

 桜嘉は不敵に見えるよう、笑みを刷いた。


「そう。これは『天命』だ」


          ***


 桜嘉の命を受け、嚴山関の分厚い門扉が開けられた。劣勢に苦しんでいた兵卒たちは、それに気づくと我先にと城門の中へと逃げ込む。

 三重になった城壁の全てが開け放たれ、南の回廊地帯まで眞兵が雪崩れ込んだ。それを狡蒙の軽騎兵が追っている。


「あぁ、このままじゃ……」


 承陽が呻いた。蛇のように南へと逃れる眞軍の最後尾が、まもなく狡蒙に捕まろうとしている。


「さ、最悪だ」


 そう吐き捨てたのは承固だ。

 背を見せて逃れる兵はほとんどが歩兵で、馬で疾駆する狡蒙から逃げきれるはずがない。

蒼将軍の表情もひどく硬い。


 その隣で、桜嘉は拳をきつく握っていた。


「大丈夫だ……大丈夫」


 譫言みたいに繰り返す。


『あなたはただ、私に命じればいいのです』


 桜嘉は、そう軽口を叩いた男の碧い瞳を思い出す。

 愚かで、腹が黒くて、無礼な男だ。


 だが。


 ――俐安は、絶対に誓約を守る!


 彼女の内心に応えたように、鬨の声が上がった。


「なんだ!?」


 鄭兄弟が声の上がった方を探る。

 眼下の戦場から湧いた声ではなかった。桜嘉たちが幕営を構える崖の、回廊を挟んだその対岸。深く木々に覆われたあたり一帯から、唐突に無数の矢が放たれた。


 承陽が反射的に桜嘉を庇う。だが、狙われたのは桜嘉ではない。


 千を越える矢が降る先は、崖下――大眞国軍を追う、狡蒙兵だった。


「ぐぁっ!!」

「ぎゃあああ」


 悲鳴とともに多数の狡蒙兵が馬上から転がり落ちる。馬も無事ではなかった。鏃を受けて悶絶し、己の主を蹴散らしていく。


「ふ、伏兵?」


 その場の誰もが虚を突かれていた。だが、桜嘉だけは歓声を上げた。


「来てくれたか!」


 幕営中の視線が桜嘉に集まる。それに構わず桜嘉は蒼将軍に命じた。


「さぁ反撃だ! 逃げた兵を反転させろ!」


 将軍は状況の変化を呑みきれていなかった。

 突然現れた一軍――それはなぜか大眞国の軍旗を掲げている。


「い、いったいどこから兵を?」


 親征軍は三十万かき集めるのが精一杯だった。狡蒙の軍勢に急襲され、伏兵を潜ませる余裕などなかった。


「はやくしろ、大勝利を逃す気か!?」


 桜嘉の拳が虎大の腹を叩く。我に返った虎大の耳に、伝令が飛び込んできた。


「蒼将軍、北西からさらなる新手です! 奇妙な軍旗を掲げています!」

「新手だと?」


 虎大が聞き返し、桜嘉が目を剥いた。

 彼女は呻く。


「……そんな。西石に送った一軍が間に合ったというのに狡蒙も伏兵を潜ませていたのか」


 虎大ははっとした。崖上から矢を降らせた兵の正体。それは、かつて桜嘉が西石の国境警備に回した一軍だ。それを密かに呼び戻し、奇襲を命じたのか。先ほどの狼煙は、その帰還を告げた合図だったのだ。


「陛下……まさかこの時のために西石に軍を向かわせたのですか? いつの間にそれを呼び寄せて?」


 虎大の問いに桜嘉は応えなかった。

 彼女は瞠目して西北を――城壁の遥か向こうから激しく砂塵を巻き起こす新たな軍勢を凝視している。


 新手は、騎兵の一団だった。長城に沿って西北から関所の方へと向かってくる。その数は万に届くかというほど。馬上には鈍銀の甲冑。革の長靴で鎧を踏み、長い槍を構えている。見慣れぬその軍装は、明らかに大眞国のものではない。


「やはり狡蒙の伏兵か……っ」


 桜嘉は絶望した。俐安のおかげで奇襲には成功した。だが、さらなる一万を跳ね返す余力はない。


(関所を開いたのは間違いだったか)


 砂塵を裂くように、見慣れぬ軍旗が翻る。

 桜嘉は目を眇めた。その朱の旗には――双頭の獅子が咆哮を上げる独特な紋章が刻まれている。


「あれは」


 桜嘉の全身から一気に力が抜けた。その場にへたり込みそうになるのを、両足を踏ん張ってこらえる。


「俐安め……」


 桜嘉は笑った。裏をかかれたようで悔しくて、笑うしかない。


 彼は約束通り西石の大眞国軍を連れ戻した。彼女が指示した計画と、寸分違わぬ形で。


 しかも、それだけではない。


 ――双頭の獅子は、西石国の紋章だ。


 俐安は、故国の軍勢をも動かしてくれたのだ。


(本当に、私の思い通りにならぬ男だ) 


 桜嘉は再び雄たけびをあげた。


「西北からの新手は、こちらの援軍だ! さぁ、狡蒙を壊滅させろ!」


 その命令に応じた虎大によって、銅鑼が打ち鳴らされる。


 崖下の大眞国軍が躍動した。

 天から恵みのように振った矢の雨と、それを無防備に受けて倒れた狡蒙兵。その逆転劇を間近で目撃した最後尾の者から勢いを取り戻し、反撃に出る。


 崖上の弓兵、南へと逃げたはずの大眞国本軍、そしてさらなる伏兵・西石国軍。三方からの攻撃を受け、狡蒙軍は遁走した。


 ――嚴山関の戦いは、桜嘉帝率いる大眞国軍の歴史的勝利で幕を下ろした。


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