5-3
「陛下……っ!」
桜嘉が久方ぶりに青龍殿に渡ると、輿から降りるよりもはやく雨柳が駆け寄ってきた。泣きそうな表情の彼に導かれ、桜嘉は客庁に招かれる。
長椅子に腰掛けた桜嘉の足もとに跪いて、雨柳は彼女の顔を見上げた。
「陛下、本当に戦場に向かわれるのですか?」
それで雨柳は取り乱しているのか、と桜嘉は微笑んだ。
「心配しないでちょうだい。もちろん戦場は危険ですけれど、あなたのお父上がわたくしを守ってくださるし、恐ろしいことなんて何もないわ」
だが、雨柳は余計に表情を曇らせる。
「なぜ陛下はそのように気丈にしておられるのですか? 私の前ではご無理をなさらなくてもいいのに」
「あら、いやね。だって本当になんの不安もないのだもの」
「強がらないでください。これから戦場に向かわれるというのに……それに、石賢妃が後宮を逃げ出したのでしょう――?」
ええ、と桜嘉は頷いた。
俐安が後宮から姿を消したのは半月ほど前。汀緒だけを連れ、身一つで出奔した。朝廷では「しょせん胡族。危機が迫ればすぐに逃げ出す」と彼を罵倒する声が聞こえてくる。
「陛下、私の口からこんなことを申すのは気が引けますが……陛下は石賢妃に寵を与えていらっしゃった。その彼に裏切られ、本当はおつらいのではありませんか?」
「まぁ、ひどいわ。雨柳までそんなことを言うの?」
桜嘉はいじけてみせた。
「わたくしがたびたび白虎殿に顔を見せていたのは、異国の太子である石賢妃を疎かにすることができなかっただけ。彼を寵愛していたわけではないのに……皆がそのようにわたくしを憐れむのよ、嫌になっちゃう」
俐安を批判する声とともに耳に入るのが、胡族の男に寵を与えた挙句に捨てられた皇帝を嘲る言葉だった。
「まさか雨柳までそんなことを言うなんて」
大事にしているのはあなただけなのに、と言外に含ませて桜嘉は目もとを潤ませる。
だが、彼は納得しない。
「ですが、私にはいっこうに夜伽を命じてはくださらないのに、石賢妃にはお許しになったのでしょう?」
「それは……」
桜嘉は返答に窮した。たしかに桜嘉は一度だけ石賢妃を閨に侍らせた――ことになっている。実際には俐安を油断させるための方便で、閨房で行われたのは睦事ではなく謀だが。
弁明を探すうちに、雨柳はそっと桜嘉の手をとった。
「今はまだ私が一の寵を得られなくても構いません。ですが、石賢妃のことはお忘れになってくださいませ。しょせん異国の男です」
「石賢妃のことは誤解よ、雨柳」
微笑みでやり過ごそうとした桜嘉に、雨柳は言った。
「石賢妃は故郷の恋人が忘れられないのでしょう? その女に会いたくて、大眞国を逃げ出した」
カツン、と床が何かを弾く音がした。
桜嘉が扇子を落としたのだ。
「恋人……?」
雨柳は桜嘉に憐憫の眼差しを向ける。
「おかわいそうな陛下。やはりご存じなかったのですね。石賢妃があなたに囁いたのは偽りの愛。彼は故郷に想い人を残しているのですから」
――恋人? 想い人?
「いやね……愛を囁くなんて。わたくしと賢妃は、そんな懇ろな仲ではなかったわ」
言葉が喉につかえた。
「石賢妃に恋人や愛人がいたって、驚くことないのよ」
俐安は齢二十二。見目麗しく人当たりが良い男だ、恋の相手に困ることはなかっただろう。太子だったのだから、婚約者だっていたかもしれない。
ただ、桜嘉はそれを考えたことがなかった。
「愛人だなんて生半可なお相手ではなかったようですよ」
「それは……知らなかったわ。そう、石賢妃のことにさほど興味がなかったものだから」
桜嘉は落とした扇子を拾って広げ、澄まして言った。
不意に雨柳が桜嘉に迫った。桜嘉の腕を掴み、挑むように額を寄せる。
「ならば、私にも龍床に侍る栄誉を授けてくださいませ」
扇子越しに唇と唇が触れ合いそうだった。
「愛しております、桜嘉様。異国の男のことなど忘れて、私だけを見てください」
***
桜嘉は褥に突っ伏した。
(あれはさすがにまずかった)
衣装を改める余裕もなく、玉兎さえ遠ざけて、己の寝台に顔をうずめている。
(一回くらい寝てやってもよかったのに)
雨柳を将来の皇后と目しているから、同衾は遠からず行われることだ。彼が真に桜嘉を愛し求めているなら、これほど都合の良いことはない。
なのに、桜嘉は彼を拒んでしまった。
雨柳は悲哀と不信のこもった眼差しで桜嘉を見て、淡々と語り出した。
『石賢妃の恋人だった方は、奴婢の出身だそうで』
雨柳の語る過去の俐安は、桜嘉の知らぬ男のようだった。
『彼は西石国王の三人目の息子。兄が二人いるおかげか、かなり奔放な生活を送っていたようですね。自ら隊商を率いて商いに従事し、随分な利を上げていた』
蒼家の調査はさすがに正確だった。
『放浪するように商いをする中で奴婢の娘を拾い、やがて恋仲になった。卑しい身分ながら美しく賢い娘で、睦まじい恋人同士だったという話です』
奴婢と太子の恋が許されるわけがない。それに西石は一夫一婦の国だから、その娘を側室に迎えることもできない。成就するはずのない関係だったのだ。
そんなことは分かっていただろうに、愚かにも二人は恋に堕ちた。
『奴婢の娘――えるふりいでという名前だそうです――は王子であった石賢妃から身を引く代わりに自由身分を手に入れ、小貴族の妻君の地位に収まったのだとか』
えるふりいで、とはまたなんとも呼びにくい名だ。
『後宮に入られた今も、賢妃はその女性と信書のやり取りをしている――忘れられないのでしょうね』
悪戯心で白虎殿に侵入した晩、俐安は読みかけの信書を慌てて桜嘉から隠した。あれがきっと、えるふりいでとやらの信書だったのだろう。
「くだらない」
俐安が二十を過ぎて独り身だった理由がよく分かった。彼は行き場のない恋に溺れて、まともな結婚ができなかったのだ。だから事情を知らない異国の公主との政略結婚の駒として使われることになった。
(本当に、愛や情などというものは道を誤らせる毒だ)
くだらない恋情に足を取られなければ、俐安は異国の後宮などに押し込まれることなく故郷で自由に暮らしていただろうに。いや、さすがに狡蒙の侵略で商売どころではなかったかもしれないが。
(あぁ、だからか)
俐安は故郷の安寧を願って、桜嘉に取り引きを持ち掛けてきた。
どんな危険を犯しても守りたい女がいるから、だから故郷を守りたかったのか。そのために桜嘉を傀儡にしようとして、それに失敗したから桜嘉に共謀を持ちかけた。
「ばかばかしい」
桜嘉は敷布を握りしめた。
「私だったら絶対に、そんな愚行は犯さない」
最も適した時期に、最も利のある相手と子を為す。それが帝室に生まれた者の定めだ。そこに己の感情の入る余地はない。
雨柳は言った。
『陛下、どうか私と本当の夫婦になってくださいませ。何があっても私だけはあなたのお側におります。石賢妃は故郷の女のもとに逃げたのです。二度と戻られることはありません』
俐安は後宮から逃げ出したわけではない。桜嘉が後宮の外に出したのだ。
――だが、愛は毒だ。
今頃、彼は故郷に向かっている。そこでえるふりいでという女と再会してしまったら?
――俐安は、ここには戻らないかもしれない。
戻らないのは困る。俐安には大役があるのだから。狡蒙の南下という窮地を切り抜けるためには、彼の働きが必要だ。
それなのに、戻ってこいと願うのが、ひどく怖かった。




