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5-2


 桜嘉帝親征の噂はすぐに後宮に届いた。

 おおかた傷の癒えたユリアンは、体が鈍らぬようにと庭で剣に見立てた棒を振るっていた。庭を飾る植栽の青は力強く、蝉の鳴き声が一つ二つ聞こえてくる。


 砂利を踏む音にユリアンが振り返ると、玉兎を従えた桜嘉が近づいてくるところだった。


「俐安は剣の扱いにも慣れているのだな」


 ユリアンは棒を置いて桜嘉に向き合った。


「隊商を率いていると荒事に巻き込まれることはままありますからね。何より故郷では貴族とはすなわち騎士ですから。桜嘉様は剣を握られたことは?」

「あるわけないだろう」


 呆れたように言う桜嘉は、欅の根もとに置かれた床几に腰掛けた。呆れているのはユリアンも同じだ。


「剣を握ったこともないのに、桜嘉様自身が戦場に赴かれるのですか」

「さすがに私自身が剣を振る機会はないはずだが」


 渋面を作るユリアンに対し、桜嘉は涼しげな顔だ。


「狡蒙と手を組むとは、沐伸は民のことを何も考えていない。これでは侵略のみならず、内戦まで始まってしまう。あれは、本当に皇帝の器ではない」

「桜嘉様の登極は正しかった。それが証明されましたね」

「そういうことだ」


「それにしても、ずいぶん落ち着いていらっしゃいますね」

「私は皇帝だぞ。そう簡単に取り乱すわけがないだろう」


 これまでのユリアンだったらその言葉を鵜呑みにしていたかもしれない。けれど偽りの夜伽を命じられた晩、桜嘉が幼子のように地団駄を踏んだことを彼は知っている。桜嘉帝は決して超人ではない。


「桜嘉様、あなたはこの事態が起こることをご存じだったのですか?」


 即位直後に狡蒙との休戦協定締結に乗り出した時も彼女には迷いがなかった。狡蒙内部の分裂を見透かして、必ず休戦が成ると確信していた。


「以前も申し上げましたが、もう少し手の内を明かしていただけませんか?」

「ふむ……そうだな」


 桜嘉は一片の紙をユリアンに突きつけた。その紙片には、小さく折り畳まれた跡がついている。


「私はこの国の文字は読めません」


 そう言いながらも彼は紙面に視線を落とす。内容は分からないが、流れるように繊細な文字が、几帳面に書き付けられている。


「読めずともこの文字が美しいことくらいは分かるだろう?」


 桜嘉は鼻が高そうだ。


「書は繊細流麗。文は簡潔明瞭にして巧――これは我が姉、平国公主・香雪の手跡だ。香雪姉様は古今の詩歌に精通し、書を能くされる」


 話の意図が読めず、ユリアンは先を待った。


「男に生まれていたら官僚になりたかったと常々おっしゃっていた。特に書籍の管理を司る昭文館に勤めてみたかったと。姉様なら可能だったろう。才女の誉れ高き方だから」


 桜嘉はユリアンから姉の書を受け取ると、その筆跡をそっとなぞった。


「その書状はいったい? そこには何が書かれているのですか?」


 問われた桜嘉はさらりと答える。


「『狡蒙、進軍準備す』と」

「……は?」


「姉様は草原から何度も信書を送ってくださった。『可汗と従弟、対立』『草原、冷夏に苦しむ』など。よく訓練された鳩がいてな。きっちり私のもとに信書を届けてくれるんだ」


 ユリアンはしばらくあっけにとられた後、はぁ、と大きく息をついた。


「要するに、香雪様は本当にスパイ――間諜として動いていらっしゃったのですね」

「そうだ。だがそれは朝廷の誰も預かり知らぬこと。姉様は私がいずれ即位した折に対狡蒙政策を有利に進められるようにと、可汗に降嫁してくださったのだ」

「では、全てあなた方姉妹の思惑通りに事が進んでいたわけだ。香雪様が攫われるまでは」


 その通りだ、と桜嘉は頷く。


「間諜であることが露呈する可能性はもちろん想定していた。だが、わけが分からないのは、姉様が監禁された後も、姉様からの信書が届き続けたことだ」


 困惑を浮かべた桜嘉の顔を、ユリアンは不思議に思う。


「その理由はすでに明らかでしょう? 先日ご報告した通り、実際は監禁されたわけではなく、彼女はすでに狡蒙のもとにはいない」

「だが香雪姉様はご自身の所在を明らかにしてくださらない。私は、姉様が狡蒙の元を離れたことさえ知らなかった」


 桜嘉は視線を俯ける。


「姉様の報せには助けられている。だがいかなる状況、立場から送られてくる報せなのか分からぬままでは、その真偽や正確性に疑問が生じる。それに、どのように暮らしているのか分からぬままでは、心安くいられない」

「ご心配はもっともです」


 ユリアンは頷いた。


「桜嘉様が窮地においても常に平静であられる理由は承知しました。ということは既にこの難局を乗り切るための策をお持ちなのですね」


 桜嘉はユリアンにじっとりとした視線を返してくる。


「俐安、後宮でのんびり暮らすうちに、ずいぶん呑気になったじゃないか。狡蒙が再度攻めてくることは把握していたが、まさか沐伸が奴らと手を組むとは想定していなかったんだ。香雪姉さまの書状にもその報はなかったからな」


 桜嘉は肩を竦めた。


「だから劉宰相の策に従って親征に出るしかない。あまり良策だとは思えぬのだが」


 絶句したユリアンに、桜嘉は鼻を鳴らす。


「情けない顔をするな、俐安。少なくとも狡蒙との戦に関しては策がある。そのために貴殿に大役を任せたい」

「お聞きしましょう」


 強気の桜嘉に、ユリアンも気勢を取り戻した。

 風に紛れる程度の密やかな声で桜嘉は語る。彼女の策を聞いて、ユリアンは舌をまいた。


「本当にあなたという方は……先を視るのが得手でいらっしゃる」

「全ては香雪姉様のくださる報せのたまものだ」


 めずらしく謙虚に言うと、桜嘉はユリアンの瞳を真っ直ぐ見据える。


「やってくれるか、俐安?」


 彼は片膝をついて故郷の礼をとる。


「我が故郷を守るため、どんな無理難題でもこなしてみせると誓約いたしました。尋ねる必要などありません。桜嘉様は、ただ私に命じてくださればいいのです」


 そうだったなと桜嘉は口の端を持ち上げた。


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