5-1
『偽帝・桜花と約した休戦に、効力があろうか。女の身で龍座を汚した偽帝も、それに阿諛追従する朝廷も、我らを謀った罰をその身で受けることになるだろう。我らは正統なる皇帝である朱沐伸の復位に助力を致す』
狡蒙から突きつけられた書状が、議場に広げられている。集まった重臣たちが、桜嘉とともにそれを囲んでいた。
承固も桜嘉の護衛として背後に控えている。張り詰めた空気の中で息を殺しながら。
「まさか沐伸様が我らを裏切るとは……」
「いや、このままでは謀叛人は我らの方だ」
「そんな」
不安を抑えきれない官吏たちは、隣席の者とひそひそと言葉を交わしている。
鎮星宮全体に不穏な空気が充満していた。桜嘉の肝いりの政策だった休戦が破られたことで手の平を返した官吏は少なくない。「さすが天に選ばれた皇帝だ」と桜嘉を誉めそやしていた者たちが、「やはり女の皇帝など天に許されるはずがなかったのだ」と囁く。首都・永明を出奔して南部に降る者さえ出始めていた。
だが、宰相の劉漢忠はいつもの福々とした笑みを浮かべている。
「皆様、焦ると口が滑って碌なことになりませぬぞ」
ほほ、と劉宰相が笑うと、みな慌てて口を噤んだ。
「我らの主君はただ一人。ここに桜嘉様がいらっしゃるのです。我々は、どんと構えておりましょう」
彼の言葉に上座の桜嘉が目もとを和らげた。
「ありがとう劉宰相。あなたはいつも頼りになるわね」
皇帝は蒼将軍に話を向ける。
「蒼将軍、南の暴徒の兵力は判明しましたか?」
彼は傷跡の残る顔で淡々と回答した。
「反乱に加担したのは湖州と、隣接する洋州。両軍合わせて兵力は七、八万程度と推測されます」
「そう。動向は?」
「両州とも進軍準備を進めているようです。ですが、物資と人の動きから開戦にはまだ時間がかかるとみています」
「周辺の州の動きは?」
「湖州と景州の取引が活発です。景州は裏で反乱軍と結託しているやもしれません」
一通り報告を聞き、桜嘉は考え込んだ。その沈黙に話を差し挟む者はいない。誰も彼もが周囲の出方を伺っている。
結局、発言したのは桜嘉だった。
「戦が起こることは承知しておりましたから、わたくしたちはすぐにでも兵を進めることができます」
官吏たちは唖然とした。
「ほ、本当でございますか?」
思わず問いただした官吏に、桜嘉は当然のことだと微笑む。
「天の啓示がありましたから、戦の準備を進めておいてもらったの。そうよね、蒼将軍」
議場の視線が蒼将軍に向かう。彼が常と変わらぬ厳格な表情で頷くと、唸り声が広がった。
「やはり天は沐伸様ではなく、桜嘉様を皇帝だとお考えなのか」
誰かがぼそりと呟いた声が、その場の意見を代表していた。
承固は長靴に物が当たるのを感じ、目線だけで隣を見た。承陽が彼の足を蹴って、何かを伝えたそうにしている。それで、彼も気づいた。
(……あれ?)
桜嘉の握りしめた拳が、小さく震えているのだ。
声音も表情もいつもの通り。官吏たちの狼狽にも動じていない――ように見えていたのに。
(桜嘉様も、怖いのか? 天を味方につけているのに?)
「問題は、兵をどう動かすべきか……この点に関して、みなはどう考えるかしら?」
その桜嘉の問いかけで、承固はやっと理解した。天の助けを得ていたとしても、実際に駒を動かし戦うのは地上の人間。結局この国の行く末は、桜嘉の細い肩にのしかかっているのだ。
「陛下」
沈黙を破り、劉宰相が恭しく両袖を持ち上げた。
「すでに兵をご準備されていたとのこと、さすがでございます。けれど、数の上でも地の利を考えても現状は明らかに我らが劣勢。ですが……それを覆す妙案がございます」
「それは?」
身を乗り出して耳を傾ける桜嘉に、漢忠は言い放った。
「親征、でございます」
議場がざわついた。
親征――君主自ら軍を率い戦場に向かう――それを女である桜嘉に勧めるとは。
「兵の数で劣るのならば、一人一人の兵の士気を高めるしかございません。陛下自身が出陣し、軍を鼓舞なさいませ。何より、天に信任された陛下が戦場にお立ちになれば、必ずや戦は勝利にと導かれましょう」
「わたくしが、戦場に……?」
愕然と声を漏らす桜嘉に漢忠は頷いた。
「幸い、南部諸州は軍を動かすのに手間取っている。先手を取って陛下自ら狡蒙を叩いてしまえばいいのです――天の恩恵をこれほどうまく生かす手はございませんでしょう」
(そんな)
承固は動揺した。
彼にとって桜嘉は何よりも大切な主人だ。慕わしく、優しく、この可憐な公主を守るためなら、自分はなんでもやってやるのだと誓った。その彼女を戦場に立たせるなど。
(女人であるあなたに親征は無理です、桜嘉様……!)
いっそもう、玉座を降りてしまえばいいのだ。男のふりなどやめて、公主に戻ってほしい。
「さぁ、ご決断くださいませ」
劉宰相は決断を迫った。承固は弟と目を合わせる。承陽も顔が真っ白だ。
決然とした声がその場に響いた。
桜嘉が立ち上がっている。
「分かりました。わたくしが戦場に参りましょう――前線で命をかける我が民と同じく、この命を賭して戦います」
桜嘉は凛としたまなざしで議場を見渡した。
「さぁ、あなた方も私とともに前線に参りましょう」
卓を囲む将軍たちは息を呑む。彼女の覚悟に圧倒されているものの、誰も名乗りをあげない。居並ぶ高官たちは立場を決めかねて黙り込んだままだ。
誰もかれも逆賊になるのが怖いのだ。天を、女の皇帝を信じ切れていない。桜嘉の親政軍の将となってしまったら後戻りはできない。旗幟を変えて沐伸の軍に投降することはできなくなる。
「俺からもお願いします!」
すぐ隣で悲鳴のような声が上がって、承固は己の耳を疑った。
承陽が一歩踏み出し、身を絞るように訴えていた。
「どなたか、桜嘉様を支えてください!」
その場の誰もがぎょっとして彼を見る。
(またやった!)
承固は弟を取り押さえようと手を伸ばした。承陽はいつもこうだ、立場も後先を考えず突き進んでいく。
だが、承陽は兄の手を振り払った。
「桜嘉様は天に選ばれた真の皇帝です! 勝つために必要なのは、俺たちの支えだけなんです」
「承陽……」
桜嘉の目が潤んでいた。ありがとう、と微かな声が承固の耳にも届く。
(そんな)
弟だけでなく桜嘉までもが誤った道に踏み込んでいく。承固はただただ怖かった。
だが。
「なるほど、では私も出陣いたそう」
さらに、重々しい声が議場を揺るがせた。
老齢ながら立派な体躯で立ち上がったのは蒼将軍だった。彼は右の拳を左の掌に打ち付ける。
「この老いぼれも戦場に戻りましょう。聖上の盾となるために」
「蒼将軍?」
承陽がぽかんと口を開けた。己の言葉が、思わぬ大物を動かしたことに驚いている。
「鄭承陽」
蒼将軍は彼の名を呼んだ。
「は、はいっ!」
「お前は桜嘉様を信じ、忠誠を誓うか? 一生を懸けてお仕えすると、覚悟を決めているか?」
承陽は目を丸くする。
「もちろんです。なぜそんな当たり前のことを問われるのです?」
場にそぐわないあっけらかんとした弟の物言いに、承固は肝を冷やした。だが、蒼将軍の口もとは緩む。
歴戦の将である蒼虎大の決断に、議場を覆う重たいものが晴れ渡っていく。
「そ、そうですな……陛下はまさしく天に望まれた君子。天帝のご加護がありましょう」
「しかも蒼将軍が再び戦場に立つとなれば、一騎当千」
「我々も陛下のために戦わねば」
桜嘉は目を細める。
「ありがとう、みんな――そうと決まれば軍議を進めましょう。狡蒙を討ち、民の安寧を取り戻すために」
彼女の言葉に応じる声が重なって、それを見守る劉宰相がほほと笑いをこぼした。朝廷は桜嘉のもとで一つにまとまろうとしている。
承固は、その光景をひどく遠くから眺めているような気がしていた。




