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立夏の祭儀の後、桜嘉は蒼将軍を呼び止めた。人目を憚るように鎮星殿の東に位置する楼閣に招き入れ、扉の警護を承固たち雨林の兵に任せる。
暦の通り、夏が間もなくやってくる。三層の楼閣の最上階は、真昼の明るい日差しの中にあった。
「蒼将軍、急ぎ軍を動かす準備を進めてほしいのです。ただし、秘密裏に」
彼は訝しんだ。
「……なぜです? 三月ほど前に狡蒙との休戦が成立したばかりですが」
「近々兵が必要になります――武器や糧食、そして荷車も」
「車まで?」
「えぇ」
蒼将軍は黙したまま是とも非とも言わない。
桜嘉は太陽を背に負い、厳かに告げる。
「まもなく戦が起こると――天の啓示が下りました。必ず兵が必要になります」
蒼将軍が目を眇めた。ようよう彼は口を開く。
「我が蒼家は武門の一族。神仙の類を崇めることはあっても、それを頼りにはいたしません」
桜嘉の朝廷を支えているのは劉漢忠とこの蒼将軍だ。桜嘉の叔父であり師でもあった劉宰相と異なり、蒼将軍と桜嘉の間に個人的なつながりはない。だが、なんとか彼に兵を動かしてもらわねばならない。
内心で焦れる桜嘉に対し蒼将軍は言った。
「天ではなく陛下の命令なら、従いましょう」
「わたくしの?」
思わぬ問いかけに桜嘉は返答に窮した。桜嘉は天の声によって即位したのだ。それを否定することはできない。
「……天の声が、わたくしの命令よ」
「なるほど。うまい返しだ」
桜嘉のどっちつかずの返答にも蒼将軍は表情を変えなかったが、武人らしい無骨な礼をした。
「では、勅命に従い、進軍の準備をいたしましょう。失礼します」
そう言って将軍は楼閣を辞去した。不安な心持のまま、桜嘉はそれを見送った。
(うまくいったかしら?)
即位から時が経るにつれ、桜嘉に御しきれない事態が増えてきた。最初から綱渡りの帝位だが、今は見えない糸に導かれて進むような困難を感じる。
ため息をつきかけた桜嘉の耳に、癇に障る声が響いた。
――もうへばってしまったのですか?
――この程度で動揺するなど、なんと幼稚な君主だ。
桜嘉は耳を塞いだ。
(あぁ、うるさい)
その声は彼女の内から響くのだから、そんなことをしても意味がないのに。
***
夜着の桜嘉を前に、ユリアンは動揺していた。
夜伽の支度をして待つようにと、宦官に命じられたのは昼。いつものように謀り事だろうと茶だけを準備して待っていたのだが、桜嘉が現れたのは夜が更けてからだった。しかも客庁ではなく閨房を準備せよと命じられた。
そして今、褥で待つユリアンの前に、薄物の夜着一枚の桜嘉が立っている。
春が残る白虎殿では、芍薬が甘く香っていた。
「桜嘉様、何をお考えなのです?」
先日「蛮族」などと罵られたばかりだ。「あなたの即位など我儘に過ぎない」と挑発したユリアンのせいだから、それは構わない。「蛮族」であるユリアンが桜嘉の寵を得ることはなく、もちろん共寝をすることもないはずだった。
「皇帝が妃に夜伽を命じて、何がおかしい? 龍床に侍ることをただ喜べ」
桜嘉はいつもの不敵な調子で笑うと、挑むように寝台に上ってきた。
(これは、どうしたものか……)
皇帝の求めに応じぬわけにはいかない。ユリアンは妃なのだから。
いや、そうだろうか? 拒むことはできるはずだ。そもそもユリアンと桜嘉は、あくまで互いに利用するだけの関係で……。
ユリアンの考えがまとまらぬうちに、桜嘉の手が彼の頬に伸びる。目が合う間もなく、柔らかな感触がユリアンの唇に触れていた。彼は瞼を伏せた。吐息と吐息が重なって、乱れていく。
桜嘉がユリアンに馬乗りになる。接吻を続けたまま、彼女が自らの衣に手を伸ばしたのが分かった。
衣擦れの音を耳にしながら、ユリアンの瞼の裏に、手放すことができない記憶が浮かぶ。
彼は桜嘉から顔を背けた。
「陛下、やめましょう。私はあなたと同衾しようとは思えない」
言った瞬間、首すじに冷たいものを感じた。
帷の内は暗い。灯の乏しい中で、彼を見下ろす桜嘉の瞳が怪しく光っている。
「当たり前だ。私も貴殿に抱かれるつもりなど微塵もない」
首に触れたものに目を向ける。
刃だ。桜嘉の手に握られた短刀が、彼の首すじに突き付けられている。
ユリアンの背中をぞっと冷たいものが下る。完全に油断した。さっきの艶めかしい桜嘉の仕草は、短刀を取り出すための擬装だったのだ。
「は……これは」
「余計なことを口に出すな。そして動くなよ。ただ私の質問に答えろ」
肩口で唇を拭って、桜嘉はユリアンに要求した。
「平国公主の居場所を吐け」
「へ……平国公主――?」
ユリアンは記憶を辿り、それが桜嘉の姉を示す号だと思い至った。
「あぁ、そうだ。はったりだったとは言わせぬぞ。貴殿はかつて飛燕殿で、姉様の居場所を知っていると言ったじゃないか」
「……えぇ、たしかに申し上げました」
ユリアンは公主だった桜嘉をおびき寄せるため、平国公主の情報をちらつかせた。
「お姉様のことなど、どうでもいいのではなかったのですか?」
あの時なんともない調子で桜嘉は言い放ったのだ――「姉は祖国の駒として嫁いだ。その先でどうなろうと、耐えるしかあるまい」と。
「まさか、それすらも演技だった、と?」
ユリアンの問いに、桜嘉は冷ややかに答えた。
「当然だ。姉様は私の代わりに降嫁なされた。その姉様をどうして見捨てられる?」
一度ならず二度までも騙される己に、ユリアンは笑えてきた。
「なるほど、では桜嘉様は帝位も姉もどちらも欲しているのですか。なんとも強欲だ」
「強欲でなければ龍座など望むわけないだろう。玉座に登れば姉様を取り返すのも容易いと思ったが……なかなかうまくいかないものだ。一向に行方が掴めない」
狡蒙は平国公主に諜報の疑いを持ち、彼女を監禁した――ことになっている。だが、実際には彼女はすでに狡蒙の手中にはない。
「もはや手掛かりは貴殿だけだ、俐安」
「そうですね、私は平国公主の情報を得ている。少なくとも桜嘉様よりは」
ユリアンはにこりと笑った。
「ですが、おっしゃる通り物事は常に思惑通りには進まないものです……!」
言いながら、ユリアンは桜嘉の腕を素早く払いのけた。強い衝撃に短刀が弾け飛ぶ。
「くっ……!」
無防備になった桜嘉をすかさず寝台に押し倒した。今度はユリアンが桜嘉に馬乗りになる。両腕を押さえつけ、桜嘉を見下ろした。
「しょせん力では私に勝てません」
「くそっ!」
抵抗する力をさらに強い力でねじ伏せ、ユリアンは彼女の首すじに口付けをした。桜嘉は全身で嫌がったが、先ほどの接吻の仕返しくらいはさせてもらう。ユリアンとて、やられてばかりではいられない。
「桜嘉様のおっしゃることは何一つ信じられない。姉を慕うなどという純粋な気持ちだけで平国公主の居場所をお求めなのですか? 何か別の思惑があるのでは? そろそろ腹の中のものを全て吐いていただきたい」
「……腹の中が真っ黒の俐安が、よく言う!」
桜嘉が大きく身を捩った。その反動にのせて、ユリアンの負傷した脇腹を膝で打つ。
「痛っ!」
ユリアンが反射的に傷を庇った隙に、桜嘉はするりと彼の脇から抜け出した。短刀を拾って構え、彼と対峙する。
「力で勝てぬことなど分かっている。だから俐安が手負いの時を狙って来たのだ」
二つの荒れた呼吸が帳の中に満ちる。桜嘉が、絞り出すように言った。
「……私は、貴殿の思い通りにはならん」
「そう、ですね。今、身を持って理解しています」
痛む傷口を抑えながらユリアンは頷く。桜嘉はかまわず続けた。
「それに、俐安が私の思い通りにならないのは、むかつく」
「……は?」




