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4-2


 桜嘉の手を引きながら、ユリアンは走った。まばらに歩く住民を避けながら城門を目指す。集落の人間にとって喧嘩や物取りなどはよくあることなのだろう。必死の形相で逃げる二人は注目を浴びてはいたが、それを助けようとする者はいなかった。


「あと……っもう少し……!」


 息を切らしながら桜嘉が言う。普段走ることなど決してない彼女の足は遅かった。

 あの角を曲がれば大通りに出る。門衛の視界に入るところまで逃げることができれば――そうユリアンが考えていた矢先だった。


 道端で世間話をしていた男が、そばを駆け抜けようとした二人に拳を突き出した。

 拳は鈍い光を放っている。刃物を握っているのだ。


(伏兵!)


 不意を突かれ、ユリアンの背すじが凍る。咄嗟にできたのは、最低限の行動だけだった。


 凶刃から守るため――彼は桜嘉を突き飛ばした。


「……っ!?」


 桜嘉はしたたか肩を打ち、地面に転がった。痛みを堪えてすぐに顔を上げ、息を止めた。


「り、俐安……っ!」


『くそっ!』


 ユリアンは思わず故郷の言葉で悪態をついた。

 短刀がユリアンの腹に突き刺さっている。


「邪魔をするな!」


 そう叫んで腹の短刀に手をかけようとする暴漢の突進を、ユリアンはかろうじてよけた。その勢いを利用して身を翻し、相手のこめかみに肘を叩き込む。


 男の黒目がひっくり返り、その場に沈んだ。

 だが、倒れたのは暴漢だけではなかった。


「俐安っ!」


 震える足で桜嘉がユリアンのもとに駆け寄る。


『まずいな……』


 彼の腹から血が溢れだしている。


「今、血を止めてやる――! しっかりしろっ!」


 叫ぶ桜嘉にはかまわず、ユリアンは最後の力で周囲を窺った。

 気絶した短刀の男以外に、不審な人物はいない。先ほど暴漢と世間話をしていた者たちは腰を抜かして震えている。暴漢とは無関係の民のようだ。


 ――もう桜嘉様に危険はない、か……。


 それを確認すると、ユリアンの意識は暗く深い闇の中に沈んでいった。


          ***


 寝台で眠る俐安を前に、医者は桜嘉に一礼した。


「可能な限りの処置は施しました。呼吸も安定しているし、少なくとも命の心配はないでしょう」


 刺された俐安を永明の飯店やどに運び込み、そこで加療が始まったのが昨日の昼過ぎ。医者は一昼夜、彼に付き添ってくれていた。


「ありがとう、飛廉ひれん。あなたがちょうど永明にいてくれてよかった」

「まったくです。私ほど腕のいい医者は他にはいませんからね」


 さらりと言い切った医者は、四十ほどの齢の女だ。日に焼けて赤茶けた髪を無造作に丸めて銀の簪で留めている。


「またいつでも呼んでください。官吏の娘だろうと、男の妃だろうと、誰でも秘密裏に治療いたしますよ。あなたたち姉妹には恩義がありますから」

「助かる」


 桜嘉の力ない返答に、飛廉は眉を寄せた。


「あなたのことも診ましょうか? 病み疲れたような顔をしている」

「私は、大丈夫だ」


 飛廉は肩を竦めたが、無理強いはしなかった。心配そうに寝台に寄り添う汀緒を手招きし、薬包や軟膏を渡して用法を説明し始めた。


 寝台の俐安は、やや顔色が悪いもののしっかりと呼吸をしている。桜嘉はよく絞った手拭いで彼の額を清めてやった。玉兎がそれを止める。


「桜嘉様自らそのようなことをせずとも……」 

「俐安は私の代わりに傷を負ったのだ、このくらいしてやるのがすじだろう」


 それに対し玉兎が何も言わなかったのは、手拭いを握る桜嘉の指先が震えているのに気づいたからかもしれない。玉兎はあきらめて話題を変えた。


「捕らえた暴漢たちは門衛に引っ張られていきました。皇帝暗殺未遂――とは明かせませんから、ただの暴漢として裁かれるでしょう。こちらで確保できず、申し訳ございません」

「謝るな。あの時は俐安の救命が最優先だった。やむを得まい」


 恐れ入ります、と頭を下げた後、玉兎は続けた。


「あの男ども、いったい誰の差金で桜嘉様を襲ったのか……」 


 皇帝である桜嘉を弑したい輩などいくらでもいるだろう。だが、昨日の桜嘉の行動を把握できた人物はほとんどいないはずだ。


 桜嘉は、熱心に読んでいた信書を俐安が自分から隠したことを思い出し、西石国が桜嘉を消そうとしている可能性を一瞬考えた。だが、それをすぐに打ち消す。桜嘉でなければ西石のために軍を動かすことはない。あちらにとって少なくともまだ桜嘉帝は必要だ。


 それに。


 桜嘉は視線を俐安に戻した。青白い顔を見ていると、きりきりと臓腑が軋む。

 西石は黒幕ではない。王子である俐安自身が、命を賭けて桜嘉を救ってくれたのだから。


 考え込んでいた彼女に、玉兎が遠慮がちに声をかけた。


「飛廉殿のおかげで賢妃の救命はなりました。はやく鎮星宮に戻りましょう」

「……俐安が目を覚ましたらすぐに戻る。そう長くはかかるまい」


 この状態の俐安を置いて帰ろうとは、桜嘉には思えなかった。


          ***


 俐安が目を覚ましたのはその日の昼過ぎだった。

 薄曇りの暗い室内で、彼は重たげに瞬く。


『エル……』


 最初に彼の口をついて出たのは、桜嘉には聞き取れない彼の故郷の言葉だった。


「俐安、大丈夫か? ここは大眞国だ。分かるか?」


 桜嘉は彼に顔を寄せ、含めるように語りかけた。汀緒も心配そうに主を覗き込んでいる。


「……たい、しんこく」


 はっきりと眞の言葉で復唱する俐安の様子に、桜嘉は鼻の奥がつんと痛むほど安堵した。


「よかった、意識が戻って」

「俺は、いったい……っ痛!」


 身を起こそうとした俐安を、桜嘉は押し留める。


「急に動くな。覚えているか? 俐安は昨日、街で腹を刺されたのだ」

「あぁ……思い出してきました」


 苦痛に表情を歪める俐安に、汀緒が薬湯を差し出す。


『ユリアン様、この薬で痛みが和らぐそうです』

『ありがとう、テオ。俺は丸一日寝ていたのか?』


 二人は故郷の言葉で会話を始めた。後宮内では許されぬことだが、今は宮城の外であり、何より瀕死の怪我人に異国の言葉は酷だろうと、桜嘉はそれを大目に見た。


『傷は深かったようですが、幸い皇帝陛下の招いた医師のおかげで命拾いをなさいました』

『命拾い、か』


 苦笑する俐安を、汀緒が厳しく叱責した。


『笑い事ではありません。このような東の果てで、ユリアン様が落命されたらと思うと、あまりにも恐ろしい』

『怒るなよ。助かったんだから』

『それは結果論でしょう!』


 珍しく声を荒げた汀緒は、次の言葉を一息に言う。


『フェルゼンシュタインに帰りましょう、ユリアン様』


 俐安の眉がぴくりと動く。


『このような重傷を負ったからには、帰国を願い出ても皇帝陛下は引き留めますまい。陛下は身を呈してご自身を守ったユリアン様に引け目を感じておられる。昨晩から自らユリアン様を介抱されているのがその証拠です。だから』


 汀緒の長い言葉を、俐安は遮った。


『桜嘉様が自ら俺に付き添っていたのか? ずっと?』


 主人の静かな問いかけに、汀緒は困惑しているようだった。


『は、はい。さすがに玉兎さんに説得されて夜は下がりましたが、それ以外は付きっきりで……なぜそのようなことをお尋ねになるのです?』


 汀緒の返答を確認すると、俐安は桜嘉に向き合った。


 突然碧い目に射抜かれて、桜嘉はどきりとする。


 俐安は眞の言葉で言った。


「桜嘉様、何を愚かなことをしているのです?」


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