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3-6


 雨柳の父・蒼将軍は休戦成立など期待していなかった。そもそも桜嘉の玉座が長く続くとは考えておらず、雨柳は後宮での彼女の動向を探るために入宮させられた。


 すぐに廃位されるはずの皇帝の妃――つまり彼は、父にとってただの捨て駒なのだ。


 ――桜嘉様の帝位が長く続くといい。


 その間だけ、雨柳は父にとって価値のある存在になれる。


 ――ずっと桜嘉様の「妃」でいたい。できれば「一の妃」に。


 そうなれば彼は「皇后」になれる。妃の頂点だ。これまで一族の誰も見向きしていなかった無価値な彼に、考えられもしなかった名誉が与えられる。


 だが、後宮にはもう一人、桜嘉の「寵妃」がいる。


 賢妃に冊封された胡族の男。即位礼の際に顔を合わせて以来だが、金髪碧眼で華やかな容貌の美丈夫だった。堂々とした振る舞いも、太子という身分も、そして女が好みそうな顔立ちも、全てが忌々しい。


 ――陛下の寵を独占したい。


 静かに眠る桜嘉の寝息を間近で聞きながら、雨柳は思い立った。


(「恋敵」はどのような男か……調べてみようか)


           ***

 

「くそっ、私としたことが」


 夜更け、青龍殿を出て輿に乗り込む際、桜嘉はごく小さく悪態をついた。


 疲弊した体に酒を入れていたとはいえ、まさか人前で眠りこけるとは。桜嘉は輿に揺られながら唇を噛んだ。すでに陽が落ちて周囲は暗い。


 玉兎や他の侍女が控えていたから、雨柳に不埒な真似ができたはずはない。だが、他人の前で気を緩めてしまったこと自体が許せなかった。


 すぐそばを歩く玉兎が「陛下、青龍殿ではゆっくりされたようで何よりでございます」と話しかけてくる。桜嘉は笑顔を繕い、声量を上げて答えた。


「そうね、蒼貴妃といると気持ちが安らぐわ」


 不安定な帝位だから、今は雨柳と閨をともにするつもりはない。だが、いつか世継ぎを孕まねばならない桜嘉にとって、彼をこの後宮に留めねばならぬことは事実だった。蒼貴妃との関係が良好であることを女官や宦官に――そしてその報告を受けるであろう諸勢力に示しておかねばならない。


 そんな思惑あっての返答だったのだが、玉兎の声には心からの安堵がにじんでいた。気が張り詰めて夜もよく眠れない桜嘉を気遣う彼女は、主の思いがけぬ仮眠を喜んでいるようだ。


「お心をお許しになれる貴妃のようなご夫人がおられてよろしゅうございますね」

「えぇ本当に」


 桜嘉は頷いた。雨柳が気安い相手なのは確かだ。人並みに打算があって、それを隠し立てないところには好感を持っている。柔らかい物腰や口調も心地よいと言っていい。でなければ彼の前で眠りこけたりしない。


 ――だが、心を許してたまるものか。


 愛など君子を惑わす毒。いくら雨柳に真心から優しく温められようと、懐柔されるつもりはなかった。


 背を伸ばして顔を上げた瞬間、桜嘉の視線はふと目の前の分岐路で止まった。このまま北へと向かえば内廷に戻ることになるが、もう一つ、西へと向かう道が伸びている。


 不意に、風が桜嘉の背を押した。


「少し白虎殿に寄ります」


 そう宣言して、桜嘉は輿を西へと向かわせた。突然の行き先変更に玉兎が戸惑っている。


「石賢妃には今宵の渡御をお伝えしておりませんが」

「顔を見せるだけよ。そうだ、どうせなら賢妃を驚かせましょう。こっそり向かってちょうだい」


 それだけ言って、玉兎の困惑をよそに桜嘉はただ前を見た。


          ***

 

 桜嘉は侵入者のように白虎殿の中に滑り込んだ。


 ここを訪れたのは気まぐれだったが、俐安を驚かせてやろうという思いつきを桜嘉自身が存外気に入っていた。常に余裕ぶっている俐安の慌てた顔を見てやろう、と意地悪な心がもたげたのだ。


 給仕の侍女が、彼の房から出てきた。それと入れ替わるようにして房内に侵入する。侍女は目を丸くしたが、茶目っ気たっぷりに片目をつむると、桜嘉の悪戯心を承知して黙って下がってくれた。玉兎はというと、諦観の表情で扉の外に控えている。


 扉の前には目隠し用の屏風がある。桜嘉はその裏に潜んだ。すぐに飛び出して、俐安を驚かせてやろうと。


 屏風の端から室内を覗いた。見えたのは、椅子に深く腰かけて何かを読んでいる俐安の横顔――持っているものは信書てがみ、だろうか? 目を凝らしてみれば、彼の故郷の文字が綴られている。


 それに向けられた俐安の眼差しは、桜嘉に見せたことのない深い碧を湛えていた。


「……おい、俐安」


 桜嘉はあっさり屏風の陰から姿を現した。


「お、桜嘉様!?」


 案の定、俐安は目を見開いて驚いた。いつも通りの彼の瞳だ。


「ど、どうしたのです、先触れもなく」


 そう言いながら、俐安は手もとの信書を手早く折りたたんで懐に仕舞い込んだ。


 ――何をそんなに焦る必要がある?


 後宮に届けられる信書の類は必ず中身を検められているし、そもそも桜嘉が西石の文字を解さないのは自明のこと。なのになぜ桜嘉から信書を隠す必要がある?


 ――この男、まだ腹に計略を隠しているのか。


 警戒心を相手に悟らせぬよう、桜嘉はにやりと笑ってみせた。


「後宮に来たついでに寄っただけだ。俐安の驚いた顔を見てやろうと思ってな」

「それは……まんまと嵌められてしまいましたね」


 俐安は苦笑しながら桜嘉に長椅子を勧めた。彼女がどさりと腰を沈めると、面白がって言う。


「貴い身分の方とは思えない座り方だ」

「喧しい。少しぐらい気を抜かせろ」


 それはもちろん構いませんが、と言いつつ、俐安は片眉を上げて笑った。


「即位してまだ三ヶ月ですが、もうへばってしまったのですか?」


 その挑発に、桜嘉は不意を突かれた。


「ふん……そんなわけあるか。私は、玉座に登るために生まれてきた女だぞ」


 一笑にふしてやると、俐安は満足そうだった。

 それでいい、と桜嘉は思う。


 ――私に労わりなど必要ない。背を突き飛ばしてでも前に進ませてくれ。


「……俐安。三日後に宮城を抜け出すぞ。庶民の衣を用意するから、支度して待っておけ」


 俐安はまたしても目を見開いたが、承知しました、と頭を下げた。


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