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「君子は南面す」の言葉の通り、皇帝の私的な空間である鎮星宮の内廷は、北から都全体を見渡す位置に配されている。
内廷の正殿・辰星殿の背後は広大な禁苑で、その一角は皇帝が狩猟を楽しむためにある。
桜嘉は猟を嗜まないが、気分転換のため野趣にあふれるこの場所をよく散策する。
その日も玉兎と鄭兄弟だけを伴って、野に分け入り古びた楼閣に登った。
今日も桜嘉はごく簡素な男物の官服に身を包んでいる。化粧も最小限で、幞頭を戴いた頭には簪の一つも飾られていない。けれど身丈が低く女らしい面立ちのせいで、やはりどこからどう見ても女にしか見えない。
楼閣は五層になっており、鬱蒼と茂る木々のせいで視界が遮られている。見晴らしが悪いのだが、それは桜嘉にとって都合がよかった。
「陛下、さすがにお疲れではないですか?」
階を登る桜嘉を先導しながら承固が振り返った。長い階段のせいで桜嘉は軽く息が上がっているが、朗らかに答えた。
「大丈夫よ。これくらいで根を上げるほどやわではないわ」
彼女の背後を守る承陽が声を上げる。
「強がりはよくないですよ、陛下。男のふりをしたって、体力は」
その言葉を玉兎が遮った。
「それ以上は口に出すな」
「別にいいだろ、ここには俺たち四人しかいないんだから。だいたい、陛下はどうみても可憐な女性じゃないか」
承固がため息をつく。
「承陽はもう少し腹芸ができるようにならないとな」
「そう、どこで誰が陛下の足をとろうと耳をそばだてているか分からない。発言には常に気を配れ」
「兄貴も玉兎も堅苦しいな。それじゃ陛下の気分転換にならないだろ」
そのやり取りに、桜嘉は思わず吹き出した。
「あなたたちは相変わらずね。ずっと気が張っていたから、四人でいるとホッとするわ……さぁ、やっと頂上ね。少し一人で風を浴びさせて」
桜嘉は西側の欄干に身を預けた。三人は主の命に従い、背後に下がる。
まだ空気の冷たい初春だ。黄昏時の今、綿の長袍を纏っても身が震える。けれどその冷えた風が頭をすっきりさせて心地よい。
「あ、また飛んできた」
背後で承陽が声を上げた。
桜嘉の姿を認め、白い鳥が一羽、茂った森の中から飛び出してきた。そして彼女のそばの欄干に止まる。
「いつものやつかな? よく陛下になついてるよな」
「陛下は人心だけでなく、獣の心までつかんでいるのだ」
承陽と承固は互いに納得しあった。
しばらく桜嘉と戯れた後、鳥はまた西の空へと飛び去った。橙に霞む西の空に白い鳥が消えていくのを、桜嘉は長い間見つめていた。
***
内廷へと戻った桜嘉の着替えを手伝いながら、玉兎は小さな声で主君を労わった。
「桜嘉様、ずいぶんお疲れですね。承固たちも気になっているようです」
即位して数か月、疲労の蓄積を桜嘉自身も感じていた。だが、それを鄭兄弟にまで悟られているのはさすがに情けない。
玉兎は桜嘉を座らせて、その肩をもみほぐした。
「ただでさえ君子の政務は多忙を窮めます。その上、桜嘉様は男の皇帝を演じている」
「不本意ながら、な。今は仕方がない。この程度の困難を乗り越えられぬ器ならば、こんな茶番の玉座は守り切れまい」
「ですが、始終取り繕って過ごすのはさすがに無理があるのでは?」
玉兎の真意がつかめず、桜嘉は振り返って彼女を見上げた。忠実な従者は言いにくそうにしている。
「男としての体裁を保つだけならまだしも、桜嘉様は同時に『わきまえた女』を演じていらっしゃる。いくらなんでも気が休まりますまい」
「あぁ……そういうことか。それもしようがないだろう。私は『己が望んだわけでなく、天に乞われてやむを得ず登極した』のだから」
「えぇ、理解しております。ですが、せめて承固と承陽には真実の想いを知らせてもいいのでは? 望んで玉座に登ったのだ、と」
桜嘉は軽く吹き出した。
「承固はともかく、裏表のない承陽に知られたら大変だ。翌日には私の本性が朝廷中に知れ渡ってしまう」
「まぁ……そうですね」
玉兎も主につられて笑ったが、すぐに表情を固くした。
「ですが、やはり事情を知る護衛が私だけでは十分とは言えません。私は近侍も兼ねておりますし」
桜嘉には玉兎以外にも侍女がいるが、腹心と呼べる者はごくわずかで、ほとんどは『わきまえた公主』である桜嘉しか知らない。
「そうだな、玉兎に負担をかけないためにも手駒はもっと必要だな」
「私のことはいいのです。承固たちを騙し続けるのも、いつか限界がきます。彼らを信じ、打ち明けてしまっては? 二人は喜び、いっそうの忠誠心で桜嘉様に仕えるはずです」
「……そうだろうか」
桜嘉は眉をひそめた。即位前にもうけられた母との茶席で、承陽が叫んだ言葉を思い出す。
――桜花様はたしかに特別な方だ! だけど女であらせられる! 桜花様に帝冠を戴けなど!
鄭兄弟は桜嘉を慕って仕えてくれてはいるが、彼らとてこの大眞国の男。決して「女の玉座」を望んでいるわけではない。
桜嘉は笑い話のように言った。
「あいつらは、私がか弱くて可愛いから仕えてくれているのだ。せっかくだからそのままの私を見せておいてやろう」
まだ何か言いたげな玉兎の気配を背後に感じながら、桜嘉は話題を変えた。
「それよりも玉兎、例の件はどうなっている?」
「申し訳ございません。ほうぼう手を尽くしておりますが、私の情報網ではなかなか……」
「そうか」
引き続き頼む、と桜嘉が振り返ると、玉兎は深く礼をした。
***
桜嘉が久々に青龍殿に渡ると、門前で出迎えた蒼貴妃――雨柳が眉根を下げて言う。
「陛下、ずいぶんお疲れでいらっしゃいますね」
玉兎たちと同じように気遣われて、桜嘉は苦笑せざるを得なかった。
「いやだわ、わたくしそんなに疲れた顔をしているのかしら」
その問いには答えず、雨柳は桜嘉の手を優しくひいた。
「我が邸でゆったりとお過ごしくだされば、すぐに疲れがとれるかと。さぁ、まずは御酒をご用意しましょうか。茶でも果実でも、なんでもお好きなものをおっしゃってください」
彼の言葉の通り、青龍殿で供された食事は贅が尽くされていた。これほどの宴席を用意されると肩肘が張ってしまうものだが、雨柳はそのあたりの塩梅も心得ていた。給仕を最低限の数に絞り、桜嘉は柔らかな長椅子でくつろぐことができたし、雨柳本人の穏やかな気質も彼女を安堵させた。
「雨柳、たまにしか訪れないわたくしのために、ここまでしてくれて……申し訳ないわ」
「陛下、そんな風に始終周りに気を遣っているからお疲れになるのです。せめてここにいらっしゃる時くらいは、ただゆるりとお過ごしください」
「そう言ってくれて嬉しいけど……」
器に山と盛られた荔枝は遥か南方の果実。これほど瑞々しいものを準備するのは骨が折れたはずだ。ほかにも珍味や名品がずらりと並んでいる。
桜嘉の視線が卓上を巡るのを見てとって、雨柳は笑う。
「そんなもの、父が勝手に準備しただけですからお気になさらず。陛下の寵を得るためなら、我が蒼家はきっともっと珍しい品でもいくらでも用意しますよ」
「わたくしの寵、ね……あなたって相変わらず明け透けなことをおっしゃるのね」
反応に困って首を傾げると、雨柳はこれまでと同じ軽い調子で続ける。
「妃というものは、結局のところ実家の権を拡大するために後宮にいるわけですから。それを包み隠しても意味がございませんし」
「そうかもしれないけど」
桜嘉の戸惑いに、雨柳は優しい微笑みを向ける。
「ですが陛下にごゆっくりしていただきたいと思っているのは、私自身の本心です。休戦を実現なさったのでしょう? 歓喜と、陛下を畏怖する声が後宮にまで轟いております。でも、ここではどうか素顔のままで」
「雨柳……ありがとう」
疲労が――身体的なものよりも、心の疲労が溜まっていることは確かで、雨柳の裏表のない笑顔にどうしても心をほぐされてしまう。
そのせいか、もしくは疲労やお酒のせいだろうか、いつの間にか桜嘉は長椅子に体を預けて眠り込んでいた。
そんな彼女に温かな毛布をかけて、雨柳は桜嘉の寝顔を見つめる。




