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3-3


「……どきりとすることをおっしゃるのね?」

「陛下のお立場なら、私だって同じように私を警戒します。実際、父には父の思惑があるようですし」


 桜嘉はさすがに返答に窮した。この雨柳という男、裏と表の顔を使い分けられぬほどの愚鈍なのか、それとも何事か計算してこの振る舞いなのか。一見ただ穏やかなだけの眼差しで、彼は桜嘉を見つめている。


「父の意図するところなどよく分かりません。私はそもそもあまり父と話したこともなかったのです」

「そうでしたの?」

「ええ。ご覧ください、この細く白い腕を――これでも少しは鍛えたのですけどね。どうも私の体は剣を振り回すようにはできていないようなのです。兄たちはみな、父に似て頑健なのに」


 苦笑しながら彼は再び腕をしまった。


「武門の蒼家にあって私は常にお荷物で、役に立たぬ身でございました。父の威光で兵部に仕えることはできましたが、実務をこなす特筆した能力があったわけでもない」


 でも、と彼は微笑んだ。


「陛下の即位のおかげで、私に新たな役目が与えられた。陛下に寄り添い、そのお心をお慰めする――剣を振り回したり書面と向き合うよりも私に向いていると思うのです」


 彼はそっと桜嘉の手に自分の手を重ねた。


「父の思惑はよくわからないけれど、男でありながら妃嬪になる機会を与えられた私は果報者です。いずれ陛下が私にお心を許してくださるように、懸命につとめさせていただきます」

「蒼貴妃……ありがとう……」


 雨柳のまっすぐな眼差しに、桜嘉の頬が緩んだ。


「あなたの言う通りよ。わたくし、後宮でもずっと気が抜けなくて」

「陛下……」

「だから雨柳が真心からわたくしに仕えてくれていると知って、本当に心強いわ」


 雨柳はそっと椅子を立ち、桜嘉のすぐそばに膝をついた。


「そのようにあざなで呼んでいただき、これ以上に喜ばしいことはございませぬ。陛下が私の主でございます。ずっとお側に仕えさせてくださいませ」


 彼の繊細なまつ毛が揺れるのを、桜嘉は間近で見つめた。


          ***

 

 先帝・沐伸は、二度目の立太子を経て遥か南方の離宮へと遷されることとなった。


 異例の処置ではあるが、先例のないことではない。かつて大眞国では、病で意識が不明瞭になった皇帝が譲位したのちに回復した例があり、その時も新帝が皇太子の地位に戻された。諸々の手続きはそのときに倣って進められた。


 沐伸には随行が少なからず従った。彼の寵妃である呂妃、母后である芙蓉も同じ船に乗り運河をたどって南へと向かう。


 その出立を、宰相である漢忠が見送りに出向いていた。船着場の天幕の中で、漢忠は甥っ子に向かって福々とした笑みを向ける。


「ゆるりとご旅行でもなさるおつもりで行ってらっしゃいませ。こちらは何も心配いりませぬ。殿下は皇太子でございます。いずれ必ず都に戻ることになりましょう」


 沐伸はひしと宰相の手を握った。


「信じておるぞ、漢忠。お前の『忠』の字は我が祖父・太宗に賜ったものだろう。その一字の通りの活躍を期待している」


 玉座にあったとき、沐伸は漢忠を冷遇した。にもかかわらず彼は叔父に忠誠を求め、漢忠も「もちろんでございます」とこだわりなく甥の手を握り返した。


 皇太后も、己の兄に強く掛け合う。


「お兄様、我が夫君の思いを無下になさらぬよう伏してお願い申し上げます。あの方は血縁で骨肉相食むことのないようにと、わたくしとの間にしか子を作らなかったのだから」


 彼女は沐伸の肩を強くつかんだ。


「この方こそが真の皇帝よ」


 笑みで応じた兄にホッと胸を撫で下ろし、皇太后は語調を弱めて懇願を重ねた。


「それと……桜花のこともお願いね。沐伸のために骨を折らせるとしても、あの子がちゃんと女としての幸せを掴めるようにしてあげてちょうだい。あの子もわたくしの子なの。決して見捨てないで」


 漢忠はしっかりと頷いた。


 いよいよ沐伸たちの乗船が始まった。漢忠は恭しく礼をして宗室の面々を見送る。沐伸、芙蓉に続いて、扇子で顔を隠した呂妃が続いた。

 彼女が漢忠の前を通る時、風の音に毒々しい声が混じった。


「……この喰わせ者め」


 漢忠はそれを聞かなかったふりでやりすごした。そして船が進んでいくのを静かに見送る。


(愛らしく無垢な娘だと評し、沐伸様は呂妃を寵愛しているが……腹の中はしっかりと黒い)


「困ったものだ」


 漢忠はぽふっと己の腹を叩き、遠ざかる船に背を向けた。


          ***


 西石国を発った大規模な隊商が眞にたどり着いたのは、梅の花が咲く晩冬の頃だった。


 俐安に招かれて白虎殿を訪った桜嘉に、西石の男が片膝をついた。


「ハジメマシテ、私は、テオドール=ブリュッヒャーと申しまス」


 隊商を率いて入国した俐安の腹心だという彼は、たどたどしい眞語で桜嘉に挨拶した。身丈の高い俐安よりさらに長身で、やや細身ながら身の捌きが軽やかな人物だった。おそらく剣技に通じているだろう、と桜嘉の脇に控えた玉兎は目算をつける。


「ブリュッヒャー男爵は宮中にあっても隊商にあっても私の補佐を勤めてきた男です。眞語にも長けていますし、桜嘉様のお役にたつかと」


 主である俐安の紹介に糸目の彼は一礼して応じた。桂皮の色のやわらかな髪が彼に柔和な印象を与えているが、所作や視線の配り方から実際には怜悧で隙のない従者なのだろうとうかがえた。


 有能な駒を歓迎しつつも、桜嘉は渋面を作らざるを得なかった。


「俐安……貴殿の故国の人名は、どうしてこうも発音しにくいのだ」


 俐安は苦笑した。


「そうか、たしかにブリュッヒャーの発音は、眞の方には馴染みませんね」

「口に出せる気がしない」

「では私に眞での名をくださったように、テオにも……」


 俐安のその提案を、玉兎は厳しく遮った。


「賢妃、お待ちください。皇帝陛下から名を賜るは、至上の誉れ。西石の太子であり陛下の妃である賢妃ならいざしれず、その従者が軽々しく名を拝受できるものではございません」

「なるほど、それは失礼を」


 桜嘉は頷き、玉兎に指示した。


「この男の眞での名は玉兎が考えてくれ」

「わ、私ですか?」


 主人の不意打ちに玉兎は目を見開いた。


「人に名を与えるなど……勝手が分かりませぬ……」

「だが西石の妙な名のままでは会話もままならん。俐安、彼の名をもう一度聞かせてほしい」


 俐安に促され、長身の従者は「テオドール=ブリュッヒャーでス」と応じた。

 桜嘉同様渋面を作った玉兎に、俐安が助け舟を出す。


「愛称は『テオ』です」

「…………では、汀緒てお殿、ではいかがでしょうか?」


 名を得た本人が一礼するのを見守って、桜嘉は卓につき異邦の二人に椅子を勧めた。


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