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この日のために男装を用意させたのは桜花だ。沐伸らが設えた婚礼衣装で現れるつもりはなかったし、女の姿では侮られるだろうと目していた。それゆえあえて男の衣を纏ってこの場に挑んだのだ。男として即位しようなど、考えていたわけではない。
「どうでしょう、桜花様?」
人の好さそうな笑みのまま、漢忠は桜花を見た。そして、西石の王太子、桜花の足もとに平伏した者たち、そのさらに外側で身じろぎもできずにいる大多数の官へと彼は視線を配っていく。
「桜花様は男――長幼の序を鑑み、先に生まれた皇帝の皇子が玉座につかねばなりませぬ」
そんな、と情けない声を上げたのは沐伸だった。ぽろぽろと涙をこぼしている。
「余の即位が……誤りだったと申すのか……漢忠、貴様……っ!」
「沐伸様をどこか落ち着ける場へ」
彼を捕らえていた蒼将軍が部下に指示をする。将軍自身も手伝って沐伸は鎮星殿の外へと連れ出された。堂内は奇妙な沈黙に包まれる。
「桜花様、いかがですか?」
漢忠が再び桜花に問うた。
桜花は即座には答えを返せなかった。
必死に頭を巡らせて漢忠の意図を探る。彼が桜花の即位を後押しするのはなぜか? あれほどまでに忠実に沐伸に仕えていたというのに。
(忠義者の顔は、偽りか?)
そう考えれば腹落ちする。
外戚・呂活に操られた沐伸を玉座から引きずり下ろし、漢忠は新帝の後ろ盾となる。
そうなれば漢忠は宰相の地位に返り咲くことができる。
――なるほど、叔父上は私を傀儡にするつもりか。
腹の底から込み上がる笑いを、桜花は押し殺した。
俐安も己の欲するところを叶えるために桜花を操ろうとした。女だから、容易く御することができるだろうと侮って。
けれど桜花は、その愚を逆に利用してやったのだ。
――のぞむところじゃないか。
桜花は一歩を踏み出す。戸惑いとためらいを隠せない、という風を装って。
――叔父上、あなたこそ私の悲願成就のための駒となるのだ。
そして悲愴な決意を滲ませた声で言う。
「――もしも天が望むのであれば、叔父上が申す通りなのでしょう」
そう告げると、劉漢忠は満面の笑みで冕冠をかざした。
桜花は厳かに首を垂れた。平伏していた官が慌てて立ち上がり、恐々と桜花の幞頭を外した。彼女の結い上げた豊かな黒髪があらわになり、堂内に動揺が走る。濡れたように美しい髪は、いかにも桜花が公主であると――女であると感じさせた。
劉漢忠は一切のためらいなく桜花に冕冠を差し出した。玉飾りが揺れ、冠は桜花の頭におさまる。
さぁこちらへ、と劉漢忠が桜花を導いた。
向かう先は、二匹の龍が躍る玉座。
桜花の足が震える。一歩、二歩、と至高の座が彼女に近づいてくる。
――この機を逃すわけにはいかない。たとえ傀儡の皇帝になろうとも。
桜花の足が階を登る。
最上の場所にたどりついた彼女は身を翻し、玉座に腰を下ろした。
悲鳴と歓声が上がり、憤激と崇敬の眼差しが同時に桜花に向けられる。
それを、桜花は冕冠の玉飾り越しに見渡した。
――これが玉座か。
感慨を抱いたのは一瞬だけ。桜花は混乱極まる官吏たちに宣告した。
「天の命を受けて登極いたします」
そしていつものように楚々と微笑んでみせる。
「国難を除けと、天帝がおっしゃっておられる。みな、天を信じて、ともに進みましょう」
***
前代未聞の即位礼だった。
大陸の東に冠たる大眞国。その宮城である鎮星宮の正殿から新帝が姿を現した。銅鑼の響きに香が渡ると、文武百官の山呼が続く。「新帝万歳」の轟きである。
正殿から外朝の大門までを埋め尽くす百官は、慣習通り正一品から従九品まで居並び、それぞれが定められた礼服に身を包んでいる。楽人の奏でる荘厳な音、恭しく捧げられた金の印璽、二匹の龍が昇る玉座。それらの威容は常の即位礼と少しも変わらない。
だが新帝は女だった。
新帝の御名は朱桜嘉。公主であった時にその名を飾っていた「花」の一字を捨て、代わりに「嘉」の文字を得ていた。
歴代の男帝と同じく冕冠を戴いた彼女は、額づいた臣下を見下ろした。宰相の合図とともに面を上げた彼らの千の眼差しを受け止めて、桜嘉は小さく息を吐き出す。
手を伸ばすことさえ許されなかったものが、今、彼女に与えられようとしている。
「陛下、印璽を受けて、前へ」
宰相の座に返り咲いた彼女の叔父・劉漢忠が、桜嘉が踏み出すべき一歩を示す。臆することなく視線を合わせる老齢の忠臣は、謀反の日と同様に福々しい笑みを浮かべていた。
桜嘉は言われるがままに儀式を進めた。
正殿の端には彼女の後宮に侍る「四夫人」が控えているが、もちろん全員が男だ。彼らは妃嬪と呼称され、男ながら妃として扱われることとなった。「後宮に三千の佳麗」と謳われたのはいくぶん昔。新帝の急ごしらえの後宮に入宮したのは正一品の四夫人と多くはない妃妾だけだった。
四夫人のうち、賢妃の位を与えた男だけが面を上げて桜嘉を見つめている。
桜嘉はその眼差しを真正面から受け止めた。
微かに笑みを浮かべる余裕が癪にさわる。こちらから視線を外してたまるかと、つまらぬ意地を張る。
跪いて新帝を仰ぐ彼の瞳は碧い。
桜嘉の帝位簒奪の協力者である石俐安――西石の太子、ユリアン=フェルゼンシュタインは、桜嘉の即位が実現した後もなぜかこの国に残った。桜嘉が帰国を許したにも関わらず、後宮入りを志願したのだ。
――食えない男だ。
だが、この男は奇貨だ。彼はまだ十分使える駒に違いない。
桜嘉は金の印璽を天に掲げ、即位を高らかに示した。ためらいがちに始まった歓呼の声が、やがて鎮星宮を揺るがす。
大眞国に新帝、朱桜嘉が即位したのだ。




