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鎮星宮の中心に一際大きな建物がある。幾層も重なった石の基壇の上、丹塗りの柱が林立し、甍は黄色、梁には龍が踊る――皇帝の居城にのみ許される意匠だ。外朝の正殿に当たるその建物の名は、鎮星殿。天帝のおわす天の世界の星を祀る、この宮城の要である。
その玉座で、皇帝は苛々と足を踏み慣らしていた。
彼の目下には、異国の婚礼衣装に身を包んだ西石国の王太子が跪いている。その隣で皇帝から降嫁の宣旨を受けるはずの丹栄公主が、いっこうに姿を現さない。
「公主はどうした?」
そばに控えた呂宰相も困惑している。飛燕殿へやった遣いは、いくら待てども戻ってこない。
皇帝・沐伸は姉の婚儀をはやく済ませてしまいたかった。
丹栄公主――桜花は沐伸に立ちはだかる壁だ。彼が物心ついた時、桜花はすでに彼の師のような存在だった。文字を覚え、書を読み解き、史を学んで、今を論じる――その全てにおいて姉は遥か高みを駆け抜けていく。
幼い頃は姉に追いつこうと必死だった。齢は一つしか離れていない――しかも相手は女だ。多少の努力をすれば姉を凌駕できる、そう思っていた。
だが進めども進めども桜花はもっと先へ進む。沐伸がなんとか古の典籍を一冊読みとく間に、桜花は五冊終えている。算術だって、桜花の方がすらすら解いて褒められる。そんな調子で差は開くばかり。
偉そうに講釈を垂れる姉に、次第に嫌気が差してきた。馬鹿馬鹿しい、なぜ公主と競う必要がある? 沐伸は皇太子だ。いずれ皇帝となる並び立つ者なき尊い身に、鍛錬や努力など必要あるだろうか?
そう悟ったころ、呂氏の娘が太子妃となった。気が弱く愛らしい娘で、常にそばで微笑み彼を認めてくれた。
「殿下にふさわしい優れた臣が必要ですわ。老いた官吏は目が濁って、殿下のお力を理解しないのですもの」
父、中宗が薨って、ついに彼は天子となった。だが姉は変わらず小言をよこす。なぜ身のほどを弁えられないのか。女の身で天子に物を申すなど、天に恥じる行為だというのに。
沐伸は決意した。姉を国から追い出してしまおう。辺境の国に嫁がせて、盟約の肥やしにすればよい。蛮族への入輿を嫌い桜花はずいぶんごねていたが、今日降嫁の宣旨を与えてしまえば、ついに沐伸は自由になれる。
回廊を慌ただしく官が行き交う気配がする。一人が宰相に耳打ちし、宰相が沐伸にそれを伝えた。
「陛下、飛燕殿から婚礼衣裳に不備があるとの訴えが上がっているそうです」
「はぁ?」
婚礼の儀に向けた準備期間は短かった。衣裳に多少の不備があってもやむを得まい。夫は蛮族なのだし、些細な瑕疵に気づくはずはない。
王太子は双頭の獅子が刺繍された外套を纏っている。西石王家の紋章なのだというが、その意匠の正しさは眞の者には判じようがない。それと同じことだ。
「なんでもいいから参内させよ。勅命だ」
宰相を介して命じると、官吏は狼狽した風に「ですが」と一瞬声を漏らした。だが宰相に凄まれると、声を呑み込んで一礼して下がる。
しばらくののち、ようやく先触れの声が上がった。
「た、丹栄公主のご到着です!」
その声は上擦っていた。
扉が開いて光が射す。自らの足でゆっくりと基壇をのぼる公主の姿が、逆光で影となっていた。扉が開いて光が射す。輿に乗せられゆっくりと基壇をのぼる公主の姿が、逆光で影となっていた。
「お待たせいたしました、陛下」
輿を下り、自らの足でゆるりと近づいてくる彼女の姿が露わになるにつれ、皇帝はぽかんと口を開けた。周囲の官もざわついている
「こ、公主よ、なんだその格好は……?」
桜花の身を包むのは、真紅の婚礼衣装――ではなかった。それどころか女が身につける襦裙ですらない。
紫の袍に金の刺繍帯。豊かな黒髪を幞頭に隠し、象牙の笏を握っている。高官にのみ許される官服で――男装だ。
桜花は玉座のもとで恭しく跪いた。恥じるように面を伏せている。
「わたくしとてこのような姿で現れるつもりはございませんでした。ですが」
困惑のあまりか、許しを得ずに彼女は面を上げた。
「用意しておりました婚礼の衣装が、この官服一式にすり変わっていたのです。ふざけた振る舞いだとは存じましたが、兎にも角にも参上せよとのことだったので」
沐伸は唇が震えるのを感じた。何を馬鹿なことを、と叫び出したかったが、声にもならない。口を挟んだのは呂宰相だった。
「なんとふざけたことを! すり替えた犯人を探さねばなりません。公主のお召し物に、しかも婚礼の衣裳に手をかけるなど大罪です。監督の者にも責任を取らせましょう!」
お待ちください、と桜花が高い声をあげた。
「飛燕殿の内、二重にも三重にも守られた中で起きたことでございます。何者かが企んで衣裳のすり替えを行えるはずがございません」
「ならば入輿を拒むお前の自作自演だろうが!」
たまらず皇帝が激昂した。玉座から立ち上がり、桜花を見下ろす。もう我慢がならなかった。降嫁と言わず、いっそ罪人としてこのふざけた女を牢に放り込んでしまえばいい。
だが、視線を返してきた姉の姿に、皇帝は怖気を感じた。
凛と伸びた背、真っ直ぐに彼を射抜く瞳の覇気。姉はこんな女だったろうか。いや、男の衣を纏っているから、別人のように感じるのか。
言葉を巧みに操って生意気な女ではあった。だがそれでも最低限の女らしさは持ち合わせていたはずだ。今は違う。桜花は明らかに遥か高みから弟を見下ろしていた。玉座の下で、彼を仰いでいるにも関わらず。
「このところ鎮星宮では奇妙なことばかりが起こるのです。花弁が空から降ったり……」
公主がそう漏らした時だった。どこかで微かに高い音が響いたかと思うと、不思議そうに成り行きを見守っていた西石国の王太子がおもむろに立ち上がった。
『い、いかがなされましたか?』
通訳の問いに何事か呟き、彼は正殿の扉へと駆け出す。周囲のどよめきには何ら気を配らず、皇帝の御前であることも忘れ、緋の外套を翻して諸官の間を駆け抜けた。その様子は、まるで何かに取り憑かれているようだった。




