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高く切実な声に辰星殿が震えた。
「陛下、どうかご再考くださいませ! この入輿に利はございませぬ!」
両脇を衛士に捕らえられながら、身を振り絞るように丹栄公主――桜花は叫んだ。
大眞国の宮城、鎮星宮は秋霜の朝。北からの風に甍が凍え、居並ぶ大臣たちの息も白い。
「陛下の姉として、帝室の娘として、この国のためとあらば地の果てまでも参ります! けれど」
拘束を振り払い、桜花は身を投げるように平伏した。美しい黒髪が乱れ、冷えた床に一房こぼれる。額に施された朱の花鈿は苦悩に歪んでいた。
「利のない策と知って、どうしてこの身を異国に捧げられましょう!?」
瞳に涙を浮かべる桜花が見つめる先には、龍座におさまった若き皇帝の気怠げな顔がある。冕冠の玉飾りの向こうの瞳は、平原に冠たる大眞国の皇帝というにはあまりに覇気に乏しかった。
「宰相とともにすでに決めたことだ。お前は大人しく西石国に降嫁せよ」
抑揚もなく言い切った皇帝の視線は、龍座の下の男に向かう。
異邦の男だった。
黄金の長い髪が、高窓から漏れ入る陽光を受けて輝いていた。大眞国では見慣れぬ明るい髪色、陰影を刻むくっきりとした目鼻立ち、体に貼り付く奇異な衣裳。大眞国の公主を娶るために西から遥々赴いた王太子は、畏まって体を固くしている。
皇帝は言った。
「言葉の通じぬ相手だ。小雀のように喧しいお前にはちょうどいいだろう」
皇帝の言に、かたわらに控えた宰相の呂氏が頷き、細い目を吊り上げるように笑う。
「遥か遠方の西石国から王太子殿下御自ら出向いてくださった。なんと情け深い方でしょう。公主様、言葉に不自由しようとも、それは最初だけ。やがてお二人は睦まじい夫婦に」
「そのようなことは大事ではございません」
桜花はやんわりと、だが有無を言わさず宰相の言葉を遮った。
「わたくしは和蕃公主策自体の利を問うているのです、人の情の話ではございませぬ。――陛下、よくお考えください。わたくしたちの姉様……平国公主の入輿が失敗に終わった今、なぜ再び陛下の姉を蕃国に降嫁させる必要があるのです?」
「……そういうところが喧しいのだ」
弟帝に謗られても桜花は怯まなかった。
「蛮族の南下が迫りし今、無為な策に時も金も積めませぬ」
大眞国の北方に広がる大草原地帯には、遊牧を生業とする人々が暮らしている。人馬一体となって戦う彼らは強い。大眞国の歴史は、草原の騎馬兵団からの自衛の歴史でもあった。特にここ数年、草原の民はかつてないほど勢力を増し、大眞国の国境を脅かしている。
皇帝は舌打ちをして、宰相に合図した。命じられて衛士が再び桜花の腕をとるが、彼らの手には力が入らなかった。
分かっているのだ――この降嫁は、厄介払いに過ぎないと。
公主である桜花を西の果てへと降嫁させる。和蕃公主といえばおかしなことではないが、西石国など名前の通らぬ小国だ。北の大騎馬兵団に攻め込まれ亡国の危機に直面している今、西石はいささかも頼りになる同盟相手だとは思われなかった。
その程度の国に皇帝の実姉の公主を入輿させるのは、聡明で心ばえも優れた桜花の諫言を、宰相や皇帝自身が疎ましく思ってのこと。誰もがそう理解していた。
「陛下、お願いでございます。この国のために、わたくしには他にできることがございます。この微力をお役立てくださいませ!」
桜花の嘆願を皇帝は鼻で笑った。
「は、お前に何が為せる? どうせお前は女。どこぞに降嫁するか、廟に籠って一生を天帝に捧げて暮らすか。選べるのはそれだけだ」
顔を伏せ動かない姉に、皇帝が続ける。
「まこと女というのは禍よ。そもそも平国公主が己の務めを果たし蛮族の王を籠絡しておれば国難は避けられた。あいつが間者と疑われ、両国の亀裂を決定的なものにしたゆえ、お前も和蕃公主にならざるを得ない。恨むなら悍婦たる姉を恨め」
「な、なんということを……」
面を上げた桜花は目に涙を浮かべていた。
「姉様は国のため、か弱い御身を蛮王に差し出し、あらぬ嫌疑によって虐げられている。それを悍婦だなどと……!」
「国難を招いたのは事実ではないか」
無情に言い切って、皇帝は再度合図をした。衛士が応じて、桜花を引きずっていく。
いいえ、お待ちください、と桜花の声が辰星殿から切なく遠ざかっていった。
「陛下! どうかこの国の行く末をお考えくださいませ! どうか……っ!」
彼女の最後の懇願は龍座の皇帝の表情を歪ませ、心ある官吏の胸を締め付けた。
***
桜花は自殿に軟禁された。
「蛮族に桜花様を嫁がせるなど、断じて許せませぬ!」
「陛下は道を誤っておられる!」
彼女の住処である東宮最南の飛燕殿は、広々とした中庭を有する邸だ。桜花を慕う若い官吏や東宮の衛士が集まって、庭は人で溢れていた。宮女や下男たちも遠巻きに輪を作り、心細そうに桜花を見つめる。
「陛下を諫める勇気がある方はもう桜花様だけだというのに」
「いや、だからこそ陛下は桜花様を遠ざけるのだ」
「なんということ」
次々に嘆きがこぼれていく。それを見渡して、桜花はぱしんと手を打った。はっと視線が彼女に集まる。
「みんな、陛下を信じなくてはだめよ。こんな時こそ臣下の務めを果たしましょう」
穏やかな笑みに見つめられ、みな恥入ったように膝をついて押し黙った。
「ともに最後まで陛下をお支えしましょう――そのために、わたくしは決して西石国には嫁ぎません」
桜花の断言にとりあえず彼らの混乱はおさまった。まだ何か言いたげにする者も多かったが、桜花本人に促されてそれぞれの持ち場に戻っていく。
ところが、散る人々の流れに反し、一人の宮女が桜花のもとに走り寄った。平伏し、許されて上げた彼女の面には、当惑した表情が浮かんでいた。
「あの……西石国の王太子殿下が公主様をお訪ねです」




