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第8話 内なる裂け目

観測者との“接触”から、まだ一日も経っていないのに、《オケアノス》の空気は目に見えて変わっていた。


 誰もが口には出さないが――怯えていた。  光の点ひとつで、世界の「前提」が揺らいだのだ。


 艦内時間の午前。

 副長席の端末に、短く点滅する通知が走る。


「……ログ解析班から。レイナ博士の端末、追加解析完了だ」


 真壁が眉をひそめ、蓮の端末にデータを転送した。


「“追加”? もう全部出たんじゃなかったのか」


「そう思ってたんだがな。――見ろよ、ここ」


 画面には、レイナの残したシステムログがずらりと並んでいた。  一見、ただの研究記録のように見える。だが一つだけ、妙な印がついている行があった。


 《編集履歴:ユーザー不明》《上書き痕検出》


「……誰かが、レイナのログを“書き換えた”痕跡がある」


 真壁の声が低くなる。


「レイナ本人じゃなく?」

「少なくとも、許可されたIDじゃない。船団クルーのどのアクセス記録とも一致しない」


 蓮は喉の奥が冷たくなるのを感じた。


「ってことは……誰かが、レイナを“どこかへ誘導”した可能性があるってことか」


「そうだ。事故じゃなく、誰かの意図で」


 観測者。協定。レイナの失踪。

 そして、船団内部の“誰か”。


 蓮は端末を閉じると、ゆっくり息を吐いた。


「……まずは、現場を見に行こう。《オケアノス》のどこでログが書き換えられてるのか」

「案内は秋庭にさせる。あいつが一番この艦の腹の中に詳しい」


 艦後方、通信・外殻の境界にある保守区画は、常にひんやりとしている。  最低限の保安灯だけが灯り、金属の骨組みとケーブルが迷路のように張り巡らされていた。


「ここです」


 エンジニアの秋庭は、薄暗い通路の先にある一枚のメンテナンススクリーンを指差した。


「レイナ博士の端末から、最後に転送されたデータが、この中継ノードを経由してます。――それと、さっきからこの周辺、異常なノイズが出てる」


 蓮が近づくと、肌を撫でるような微かなざらつきがあった。

 音というより、“空気の粒子”がひしゃげているような違和感。


 スクリーンは本来、灰色の整備メニューだけを映すはずだ。

 だが今は――鏡のように蓮たちを映し返していた。


「……これは」


 秋庭が操作しようとして、手を止めた。


 ふ、と光が走る。

 スクリーンの表面に、ノイズ混じりの映像が浮かび上がった。


 ――レイナだった。


 蓮は思わず一歩踏み出した。


 いつもの白い研究着。

 結い上げた髪。

 しかし、輪郭はわずかに揺らぎ、髪の端はノイズのように欠けては戻る。


 生身ではない。

 これは“記録”の質感だ。


 画面の隅に、薄く文字が滲む。


 《ARCHIVE PLAYBACK : REINA_LOG》


「……こんな表示、見たことないぞ」


 秋庭が息を呑む。

 艦内UIのフォントとは微妙に違う。どこか“借り物”めいた、ぎこちない形だ。


「……記録映像、だな」


 蓮がつぶやいたとき、映像の中のレイナがこちらを向いた。


 目が合った――ように、錯覚する。

 だが視線は、蓮ではなくもっと遠くを貫いていた。


 録画の一瞬にすぎない。

 それでも胸の奥がひりつく。


 やがて、レイナの唇が動いた。


「……ここから先は、危険区域よ」


 声はレイナそのものだ。

 だが抑揚だけが、妙に平坦だった。

 彼女の声と、冷たい警告文言が溶け合ってできたような、不自然な響き。


 続いて、ほんの一瞬だけ。

 映像の中で、レイナの表情に“本当の感情”が刺し込まれる。


「お願い……戻って。

 ここは、もう……私の場所じゃないの」


 その一言とともに、映像がかき消えた。

 スクリーンはただの黒い板へと戻り、保守区画には再び冷たい静寂だけが残る。


 秋庭は青ざめた顔で蓮を見る。


「……今の、再生記録には残ってません。ログが……無い」


「観測者が、艦の記憶を……“借りて”見せたのかもしれない」


 蓮はスクリーンに映る自分の影を見つめながら、つぶやいた。


「レイナは観測者の領域に触れた。危険を知って、警告を残した。――でも、そのログは誰かに書き換えられた」


 内部の“誰か”。

 観測者。

 レイナ。


 線が、少しずつ近づいていく。


 艦橋に戻ると、すでに緊急会議の準備が進んでいた。


 船団会議用のホロ画面には、連邦アーク、大洋連合、東方同盟の代表たちの顔が浮かんでいる。

 そのどれもが、昨日よりも明らかに険しかった。


『……太平洋船団内部で、乗員の失踪だと?』


「行方不明者が一名。現場には、空気の“層”の乱れが残っていました」


 オオトリ船団長が淡々と報告する。

 東方同盟の代表は目を細めた。


『観測者によるもの、と?』


「断定はできません。ただ――観測者と接触してから、艦内の時空に歪みが出ているのは事実です」


 エリザが、あからさまに舌打ちした。


『だから言ったのよ。太平洋船団は隊列から切り離すべきだと』

『あなた方の“特異点”に、他の船団を巻き込むわけにはいかない』


 真壁が思わず声を荒げかけるのを、蓮は横で制した。


「観測者は、敵じゃありません」


 蓮の声に、ホロ画面の視線が一斉に向く。


「彼らは“なぜ撃った”“またか”と言った。

 それは、俺たちが過去に、何かを壊したからだ。

 怒りじゃなく……“傷ついた記憶”を見せられた」


『根拠は?』

 エリザの視線は冷たい。


「さっき、レイナ博士の“隠されたログ”が再生されました。

 彼女は言っていた。

 人類はすでに一度、触れてはならない領域を侵したと」


 ざわめきが広がる。


『証拠を提出しなさい』

「今、解析班が復元中です。ただ――」


 その時だった。


 艦橋の照明が、一瞬だけふっと落ちた。


 同時に、《オケアノス》の全スクリーンがざらついたノイズに染まる。


「なっ……!」

「各系統、ハイジャック!? 制御信号が書き換えられて――!」


 航海士の叫び。

 コンソールに謎の文字列が走る。


 《…HELLO…HELLO…HELLO…》

 《…COPYING…PATTERN…》

 《…SPEECH…NOISE…MEANING…》


 見慣れないフォント。

 一定のリズムを持つ、学習中のようなログ。


「観測者だ……」


 蓮は直感した。


「人類の通信系を“真似てる”。ここまで踏み込んで模倣してきたのは初めてだ」


「システムへの攻撃と見做せる!」

 エリザが怒鳴る。


『太平洋船団は観測者と共謀しているのでは!?』


「落ち着け!」

 オオトリ船団長の声が重なった。


「制御は奪われていない。観測者は“見ている”だけだ!」


 だが、そのとき。


 蓮の耳だけでなく、艦橋にいる全員の耳に、同じ“ノイズ”が走った。


 ――ザ……ザザァ……


 意味を持たないはずの音が、

 突然、言葉の形を取る。


『――見ている』


 誰かが息を呑む音が聞こえた。

 観測者の“声”が、蓮だけでなく艦全体に流れ込んできていた。


『――なぜ、壊した?』


「今の、聞こえたか……?」


「……ああ。俺にも……」


 真壁の顔が蒼白になる。

 艦橋のクルーたちが一斉に顔を見合わせた。


 ――観測者の声が、蓮だけのものではなくなった。


 ホロ画面の向こう側でも、声が上がる。


『こちらでも、今のノイズを感知した!』

『音声に変換されて……“壊した”と……』


「観測者は、船団全体にメッセージを出した……?」


 蓮は歯を食いしばる。


 観測者は“誤って”開きすぎたのか。

 それとも、意図的に。


 どちらにせよ、

 太平洋船団だけの問題では、もうなくなっていた。


 数時間後。


 解析室には、張り詰めた空気が流れていた。


 スクリーンには観測者の信号ログが並び、その下に、もう一つ別の波形が重なっている。


「……おかしいだろ、これ」


 秋庭が、波形を指差した。


「観測者の信号は、さっきの模倣ログの方だ。――問題は、その“下”にくっついてるやつです」


 蓮は身を乗り出した。


「下?」


「観測者の通信に“ノイズ”みたいに混じっている別のパターン。

 レイナのログを書き換えた痕跡とも一致します」


 解析班長が、乾いた声で続けた。


「観測者とは別系統の信号です。

 周波数特性も、符号化規則も違う。

 もっと粗い。――だが、“意思”がある」


「つまり……」


「観測者のラインに、別の“何者か”が相乗りしている」


 背筋に冷たいものが走った。


 観測者。

 人類。

 それだけだと思っていた図式に、

 第三の影がぬるりと入り込んでくる。


 蓮は、レイナの最後のテキストログを思い出した。


 ――『“彼ら”は一種類じゃない』


 あの「彼ら」は、観測者だけを指していなかったのかもしれない。


「……レイナは、知っていたんだ」


 口の中が乾いていく。


「観測者の向こう側に、もう一つ――

 “何か”がいることを」


 秋庭が、ためらいがちに言った。


「蓮さん。

 さっきの危険区域のログ……あれ、多分、“観測者の領域”だけを指してないですよ」


「どういう意味だ」


「断層の縁には、観測者の信号と……今見ている“粗い方”の信号、両方が重なってる。

 危険ってのは、“二つが混ざった場所”のことじゃないかって」


 蓮は、拳を握った。


 観測者は、ただの“記録者”ではない。

 何かを守ろうとしている。

 そして、その向こうで――別の何者かが、船団の中に指を伸ばしている。


「……行くしかないな」


「どこへ?」


「断層の縁だ。

 観測者の領域と、“もう一つ”の境界線へ」


 真壁が、苦笑とも溜め息ともつかない声を漏らす。


「自分から危険区域に突っ込むのが、太平洋船団のやり方か?」


「誰かが行かなきゃ、誰も帰れなくなる」


 蓮は、静かに言い切った。


「観測者が何を見てきたのか。

 人類が何を壊したのか。

 “あいつら”が何者なのか。

 答えを知らないまま、恐怖だけで決めたくない」


 窓の外には、星々の光と、

 その間にうっすらと揺らめく“細い影”が見えていた。


 それが、見えない裂け目なのかどうか、

 まだ誰にも分からない。


 だが確かに、そこに――

 誰かの“視線”だけは、存在していた。


 第8話 内なる裂け目 完

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