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第9話 境界へ

《オケアノス》艦橋の空気は、決断の匂いを帯びていた。


 船団会議はすでに終わっている。

 結論は出た――他船団は接近を拒否。

 危険区域は“立入禁止”として封鎖され、太平洋船団は事実上の孤立を受け入れる形となった。


 だが、オオトリ船団長は席を立たなかった。


「……我々は撤退しない」


 静かな声だったが、艦橋の誰もが聞き逃さなかった。


「観測者の警告、第三の干渉、レイナ博士のログ。

 どれも無視すれば、いずれ船団全体が飲み込まれる」


 視線が蓮に集まる。


「危険区域への限定的観測ミッションを実施する。

 使用機体は――」


「EXA-01《ハルシオン》」


 真壁が続けた。


「大型艦は近づけない。

 無人ドローンは、すでに二度“帰ってこなかった”。

 なら、人が行くしかない」


 蓮は小さく息を吸い、頷いた。


「……俺が行きます」


 止める声は出なかった。

 止められない、と皆が分かっていたからだ。


 格納庫の奥、白と黒の装甲に包まれた細身の機体が静かに佇んでいる。


 EXA-01《ハルシオン》。


 戦闘機サイズの船外活動ポット。

 脚部は二脚だが、関節は異様なほど柔軟で、折り曲げることで台座・走行・安定姿勢へと即座に移行できる。

 武装は最低限。

 これは“戦うための兵器”ではない。


 境界に触れるための器だ。


「生命維持、グリーン」

「意識リンク、正常」

「外殻ストレス許容内」


 秋庭の声がインカムに流れる。


『蓮、覚えておいてください。

 ハルシオンは“抵抗”に向いていません。

 異常を感じたら、即引き返してください』


「了解」


 コクピットが閉じる。

 外界の音が遮断され、世界が静かになる。


 ――その静けさの奥で、

 蓮は“視線”を感じていた。


 観測者だ。


 だが、今日はそれだけではない。


 《オケアノス》から射出された《ハルシオン》は、ゆっくりと前進した。


 星々の配置が、徐々におかしくなる。

 距離計測値は正常なのに、感覚だけが狂う。


『……時間同期、微細なズレを検知』

「無視して進む」


 前方に、薄い“影”が見えた。

 闇ではない。

 光が、わずかに歪んでいる。


 ――境界。


 その瞬間、蓮の意識に、静かな声が触れた。


『ここまでだ』


 観測者。


『我らは、ここから先へ行かない』

『行けば、混ざる』


「……何と?」


『壊れる』


 感情はない。

 だが、そこには明確な意志があった。


 守ろうとしている。

 この境界を。


「……人類が、過去に越えたのか?」


 答えは、直接は返らない。


 だが代わりに、

 “記憶”の断片が流れ込んできた。


 ――古い地球。

 ――まだ星間航行が未熟だった時代。

 ――人類が、未知の信号を“資源”として扱おうとした記録。


 そして、

 その先に――別の“意思”。


 粗く、重く、

 観測者とは真逆の質感。


 その瞬間だった。


 《ハルシオン》の警告音が鳴り響く。


『外部干渉! 制御系に割り込み!』


 視界が歪む。

 星が引き伸ばされ、意味を失う。


 耳ではなく、骨に響く声。


『人類……不完全……』

『進化……やり直し……』


「……違う!」


 蓮は叫んだ。


「お前は……観測者じゃない!」


 その言葉に、ノイズが跳ねた。


『区別……する……?』


 嘲るような感触。


 《ハルシオン》の左脚が境界に“触れた”。


 一瞬――

 世界が裏返る。


 時間が、飛んだ。


 次に意識が戻ったとき、

 《ハルシオン》は境界線の外側で静止していた。


『蓮! 応答しろ!』


 真壁の声。


「……生きてる」


 視界の半分が、白いノイズで欠けている。

 だが致命傷ではない。


『回収する! 即時帰還だ!』


 《ハルシオン》は自動制御に切り替わり、後退を始めた。


 その背後で、

 境界の“影”がわずかに収束するのが見えた。


 まるで――

 封を戻すかのように。


 最後に、観測者の声が届く。


『知ったな』

『ならば……次は、選べ』


 光が消え、

 星の海が元に戻る。


 格納庫に戻った蓮を、誰も責めなかった。


 解析班が、回収データを前に沈黙する。


「……これ、観測者の信号じゃない」


 秋庭が言った。


「レイナ博士のログを書き換えた痕跡と一致します。

 第三の存在……あれは、

 人類が“過去に呼び寄せたもの”です」


 艦橋に重い沈黙が落ちた。


 蓮は、コクピットから降りながら言った。


「観測者は……敵じゃない。

 俺たちを、ずっと止めてた」


「じゃあ、あれは?」

 真壁が問う。


「……俺たちの“続き”だ」


 人類が選び続けた結果。

 進化を急ぎ、境界を越えた代償。


 蓮は、拳を握った。


「次は……逃げない。

 選ぶ」


 星々の向こうで、

 見えない二つの“視線”が、静かに交差していた。


第9話 境界へ 了


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