第5話 初めての戸惑い
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先に部屋を出たのは清水さんだった。俺はそのあとを静かに追いかける。共有スペースから離れるにつれて、クラスメイトたちの笑い声やおしゃべりも徐々に遠ざかっていった。
今日は、なんだかんだでいろんなことがあった。ぎこちないながらも、少しだけ歩み寄れた気がする。でも……やっぱり、まだ壁はある。
部屋に戻ると、次の問題が浮かび上がった。
この寮、風呂が一つしかない。
「清水さん、先に入る? それとも俺が——」
「……先に入って。私はあとでいいから。」
彼女はそう言って、ベッドに腰を下ろした。視線は落ち着かなくて、どこか遠くを見ているようだった。
「……じゃ、急ぐから。」
俺は短く答えてバスルームへ向かった。
シャワーを浴びながら、さっきの彼女の表情が頭から離れなかった。ただの順番を譲っただけなのに、なぜか少し胸がざわつく。清水さんのこと、俺はまだよくわかっていない。けど……少しずつでも、近づいているんだろうか。
風呂から上がって、髪がまだ濡れたままの状態で部屋に戻る。
「空いたよ。」
彼女は黙ってうなずき、バスタオルを手にバスルームへと向かった。
俺はリビングのソファに座り、なんとなく本を手に取る。静かな夜だ——そんなふうに思った矢先。
コンコンッ
ドアをノックする音。
「ん?」
立ち上がって扉を開けると、そこに立っていたのは、見慣れた顔だった。
「兄ちゃんっ!」
次の瞬間、目の前に飛び込んできたのは、俺の妹・緑だった。
「うわ、ちょっ……おまっ、なんでこんな時間に——」
「点検だよ、点検! ちゃんと“夫婦”してるか、見に来たの!」
彼女は勝手に部屋に入り、キョロキョロと室内を見渡す。小さな体がくるくると動き回るたびに、空気が急ににぎやかになった。
「えっ、なにこれ……兄ちゃんの部屋、超キレイじゃん! 男子の部屋とは思えない!」
「どの部屋も同じ構造だろ、別に。」
「そ、そうだけど……でも、ここだけ空気が違うよ。なんか、ちゃんと生活してるって感じ。」
彼女はソファにぴょんと座りながら、ニヤニヤと俺を見上げた。
「さっき下にいたけど、すっごく賑やかだったね。何してたの?」
「……まあ、みんなで集まってただけ。ビリヤードとか映画とか、他愛もないこと。」
「ふーん? でもさ、兄ちゃん……ハル先輩せんぱいに勝ったんだって? ビリヤードで?」
「たまたまだよ。」
「ふーん……でもさ、聞いちゃった。清水せんぱいが、兄ちゃんのことちょっと褒めてたって!」
その言葉に、手に持っていた本のページが止まった。
「……別に、大したこと言われたわけじゃないよ。ちょっとしたコメントだったし。」
「へぇ〜? 普段、誰のことも褒めない清水せんぱいが? すっごくレアじゃん、それ。」
「……」
「周りのみんな、ちょっとザワザワしてたよ? “まさかあの清水せんぱいが?”って。」
言われてみれば、あのときの周囲の反応は確かに少し過剰だった。けど、それは清水さんのキャラがそうさせただけで……俺が特別なわけじゃない。
「みんな、大げさなんだよ。」
緑が身を乗り出して、からかうように俺の顔を覗き込んできた。
「ほんとに? 本当に嬉しくなかったの? ニヤけたでしょ? ちょっとくらい!」
「うるさいな……別に、そういうんじゃないって。」
顔が熱くなるのを誤魔化すように、俺は手のひらで頬をこすった。
そのとき——
「……っ」
バスルームのドアが開き、タオルを頭に巻いた清水さんが出てきた。
彼女は俺たちの方を見て、ぴたりと動きを止める。
その視線の先、俺はまだ緑と至近距離でしゃべっていた。しかも、妙に密着しているように見えたかもしれない。
清水さんの頬が、ほんのり赤くなったのが見えた。けれど彼女は何も言わず、そのまま静かに視線を逸らした。
……なんだろう、この妙な空気。
さっきまでの緩やかな夜の時間が、少しだけ揺らいだ気がした。
「おっ、君が清水せんぱいだね。会えて嬉しいな! 私はミドリ、カズハ兄の妹だよ!」
ミドリがいたずらっぽく笑いながらそう言うと、清水さん──いや、みゆは控えめに頷き、小さな声で答えた。
「はじめまして、ミドリさん。お会いできて嬉しいです」
その声には、どこかぎこちなさと少しの緊張が混じっていた。
「お茶、淹れてきますね」
彼女はそう言ってキッチンに向かって小さく駆け出す。その背中はどこか落ち着かなくて、でも一生懸命で……。
思わず目で追ってしまった。
「ねぇ、カズハ兄。こんな可愛い子と一緒に住むなんて、どんな気分?」
ミドリが急にこちらに向き直り、からかうようにニヤリと笑った。
「からかうなよ、ミドリ。ただでさえ色々慣れないんだから」
「ふーん。清水せんぱい、どんな顔するのかな〜って思って」
冗談半分のように言いながらも、ミドリの目は意外と鋭い。まるで全部見透かしてるかのような。
キッチンからカップを用意する音が微かに聞こえてきた。みゆの動きが少し慌ただしくなった気がして、胸がちくりとする。
──聞こえてる、よな。全部。
しばらくして、みゆがトレーを手に戻ってきた。少し赤くなった頬と、慎重な足取り。
「お茶、どうぞ」
小さな声でそう言いながら、丁寧にカップを並べるその姿が、どこか儚げだった。
「ありがとう、清水せんぱい。ほんとに気が利くね」
ミドリがニコニコしながらお礼を言う。悪気はないけど、どこか意図的な褒め方に聞こえたのは──俺の気のせいだろうか。
空気を変えたくて、俺は話題を振る。
「で、ミドリ。学校はどうなんだ?」
「え〜、そんなのより、二人の初日が気になるんだけど! 何か面白いことあった?」
「いや、買い物行って、晩ご飯作っただけだよ。特に何も──」
「ふ〜ん? じゃあ、カズハ兄。学校一の美少女と迎えた初夜はどうだったのかな?」
ブン、と心の中で何かが振り切れた音がした。
「ミドリ、やめろって。からかいすぎだ」
「だって気になるもん。料理の時とか、絶対笑えるハプニングとかあったでしょ?」
──実際、あった。でもそれは、俺たちだけの小さな記憶だ。
「まぁ、ちょっとしたことはあったけど。協力して、何とか形にはなったかな」
「私たち、お互いに助け合って……頑張ってます」
みゆが小さく加えたその言葉に、俺はほんの少しだけ安心した。
「へぇ〜。カズハ兄って、やっぱりみゆにはすごく優しいんだね。守ってあげてるって感じ?」
「まぁ……一応、そういう役目だし」
俺の返事は、あくまで無難に。
けど、本当は──ただ、無意識に気になって仕方がなかっただけだ。
「で、清水せんぱいはどう? カズハ兄と一緒に住むの、嫌じゃない?」
みゆは一瞬言葉に詰まってから、静かに答えた。
「……いえ。カズハくんは、すごく優しいです」
その横顔が少しだけ恥ずかしそうに見えて、俺は妙に視線のやり場に困った。
「ふふっ、やっぱりお似合いだよ、二人とも!」
ミドリが勝手に満足そうに微笑む。いつものことだけど、今日は少しだけありがたかった。
「それより、ミドリ。学校で何かあったか?」
みゆが巧みに話題を戻してくれる。そのタイミングの良さに、内心で感謝した。
「んー、特に変わったことはないかな。でもね、こうして二人を見てるだけで、今日はすごく楽しい!」
──そして始まった、ミドリの「お兄ちゃん暴露タイム」。
「ねぇ、清水せんぱい知ってる? カズハ兄、昔クモにめっちゃ怯えてたんだよ。家の中を走り回ってさ~」
みゆがくすっと笑う。俺はもう頭を抱えるしかなかった。
「それ、昔の話だって……」
「でもほんと、あの時のカズハ兄、超必死で!」
「……まだあるのか?」
「うん。初めて料理したとき、キッチンちょっと焦がしかけたこともあるよね〜?」
「カズハくん、ほんとに……可愛い人なんですね」
その言葉に、なぜか胸の奥がざわついた。
「今はもう、ちゃんと作れるから」
「うん、上手になったよね。だからこそ、そういう失敗も懐かしくて、大事な思い出になるんだよ」
ミドリが言うと、みゆも静かに頷いた。
──あぁ、こうして話す時間って、案外悪くないのかもしれない。
夜が更け、ミドリはようやく帰る時間になった。
「そろそろ帰るね。明日も学校あるし」
「気をつけて帰れよ」
玄関まで見送り、ミドリは最後にぎゅっと俺に抱きついて、耳元でささやいた。
「ちゃんと大事にしなよ。……後悔しないようにね」
俺はそれに何も返せず、ただ「うん」と頷いた。
扉が閉まる音のあと、リビングに戻ると、みゆがまだ少し照れた表情で座っていた。
「ごめん、清水さん。ミドリ、あんな感じだから」
「いえ……楽しかったです。ミドリさん、優しいですね。それに──」
彼女は一呼吸おいて、言った。
「……そろそろ、お互いのこと名前で呼びませんか?」
その瞬間、心臓が不意に跳ねた。
「な、名前……?」
思わず声が裏返る。何この反応……俺、マジで小学生かよ。
「う、うん。じゃあ……み、みゆ。……もう眠い? な、なんていうか、こんな感じ、で合ってる?」
俺の言葉は、情けないほど不器用だった。
けど、みゆはそんな俺を見て──ほんの少し、柔らかく微笑んだ気がした。
その夜、名前を呼ぶことが、こんなにも特別なものになるなんて、思いもしなかった。
夜が更け、静寂が部屋を包み込む中—。
「そ、それは…そうかも、かずはくん…」
名前を初めて呼ばれたミユは、驚きと恥ずかしさで頬を赤らめていた。彼女のその様子に、思わず俺の口から本音が漏れた。
「…か、可愛い…」
「…え?今、何か言った?」
しまった、聞こえたか。俺は慌てて視線を逸らし、話題を変える。
「いや、何も言ってない。それより、もうこんな時間だし…寝ようか。」
「…うん、そうだね。」
ミドリが帰ったあと、俺たちは再び二人きりの部屋に戻った。
カーテンの隙間から差し込む微かな月明かりが、室内に柔らかな光を落としている。
どこか気まずい空気が漂う中、俺たちは無言でベッドへ向かう。
その時だった。
背後から、そっとシャツの裾を引かれた。
「…ねえ、寝る前の…おやすみのハグ、してもいい?」
ミユの声はか細いが、しっかりと耳に届いた。
振り返ると、彼女は少し顔を赤らめて俯いている。
「…ああ、そうだね。」
俺はゆっくりと近づき、腕を広げた。ミユもそっと歩み寄ってきて、俺の腕の中に収まる。
柔らかくて、小さくて、温かい。
初めて抱きしめる女の子の感触に、俺の心臓は少し早く鼓動を刻む。
ミユの髪からは、ほんのり甘い香りがした。
その匂いと、背中越しに感じる体温が、不思議と心を落ち着かせる。
この一瞬が、ずっと続けばいいのに—そんなことを思ってしまうほど、心地よい時間だった。
「おやすみ、ミユ。」
「うん…おやすみ、かずは。」
ベッドに戻り、ふとデバイスを見るとポイントが『3』になっていた。
たったそれだけのことで、こんなにも変わるのか。
思わず小さく息を吐く。
机を挟んだ二つのベッド。その間の距離が、少しだけ近づいた気がした。
こんな関係が、少しずつでも続いていけばいい。
朝、薄く射し込む陽の光で目を覚ました。
「……ふぁ…」
隣のベッドを見ると、ミユはまだ布団にくるまっている。
その姿を横目に、俺はベッドから起き上がった。
「…朝か。」
軽く顔を洗ってから戻ると、ミユもようやく体を起こしていた。
「…おはよう、かずはくん。」
「おはよう。まだ眠そうだな。」
「ちょっとだけね…」
立ち上がったミユは、少し迷った様子で口を開く。
「朝ごはん、作ってくるね。何が食べたい?」
「うーん…君が作るなら、何でもいい。」
「ふふ、じゃあ冷蔵庫の中、見てみるね。」
そう言って、ミユはキッチンへと向かっていった。
残された俺は、寝ぐせを直しながら小さくつぶやく。
「なんだか…不思議な朝だな。」
キッチンからは、食材を取り出す音が聞こえる。
炒め物の香りが部屋に広がって、少しずつ眠気が取れていった。
やがて
「できたよ。冷めないうちに食べてね?」
テーブルの上には、卵とトースト、それに果物が綺麗に並べられていた。
「…ありがとう。いただきます。」
「どうぞ。」
二人で向かい合って食べる朝食。
言葉は少ないけれど、どこか心が落ち着く。
こういう時間も、悪くない。
食後、一緒に皿を洗いながら、俺は何気なく言った。
「案外、うまくやれてるな、俺たち。」
ミユは小さく笑って、うなずいた。
「うん。少しずつだけど、分かり合えるといいね。」
彼女の横顔を見ながら、俺は思った。
この“夫婦ごっこ”、本当にごっこだけで終わるのかな。
このライトノベルの感想をぜひお聞かせください。読んでいただき、本当にありがとうございました!!