第1話 結婚式の準備と披露宴
カズハは息を切らしながら、勢いよくベッドから上半身を起こした。
額には冷たい汗。心臓の鼓動が耳に響く。
まただ。何度も繰り返し見る、あの悪夢。
夢の中で彼は、いつも崖の縁に立っている。
その手の先には、今にも落ちそうな少女の姿。
何度も手を伸ばすが、少女の顔はいつも霞んで見えない。
それでも、胸を締めつけるような焦燥と絶望感だけは、やけにリアルだった。
「……また、あの夢かよ」
カズハはゆっくりと呼吸を整えながら、朝の光が差し込む窓に目を向けた。
新しい一日が、もう始まっている。
「おーい、カズハ兄! おはよう!」
元気な声がドアの向こうから響く。
「今日は特別な日なんだよ! 学校でペア決めイベントがあるでしょ! 遅刻しちゃダメだよ、兄ちゃん!」
ドアが少し開き、妹が顔をのぞかせた。
「……わかってるよ。今、準備する」
カズハはぼんやりとした表情のまま、ベッドから立ち上がり、バスルームへと向かった。
今日――星空学園で開催される「夫婦ペアイベント」のペア発表日。
男子生徒たちにとってはワクワクする日だろう。
気になる女子とペアになれるかもしれない、そんな期待に胸を躍らせているはずだ。
でも、カズハにとっては違った。
彼にとってこのイベントは、目標の邪魔でしかない。
――成績トップで卒業して、志望大学の奨学金を取る。
それが、俺の最優先事項なんだ。
カズハと妹は、歯を磨き、朝食をすませ、いつものように学校へ向かう準備を整える。
玄関に向かって並んで歩きながら、ふとカズハは台所の方を振り返った。
「母さん、今日のイベント……見に来るのか?」
キッチンでエプロン姿の母が振り返り、申し訳なさそうに微笑んだ。
「行きたいのは山々だけど、今日は仕事があって……ごめんね。でも、ちゃんと集中するのよ?」
「……わかってる」
「母さん、行ってきます!」
「いってらっしゃい!」
妹と一緒に家を出たカズハは、ふと隣を歩く妹の視線に気づく。
「兄ちゃん、さっき起きたとき……すっごく汗かいてて、怖い顔してたよ? なんか変な夢でも見たの?」
「……ただの悪夢だよ。気にすんな、オマエには関係ない」
そう言って前を向く彼の横顔は、まだどこか影を落としていた。
「お前、俺が誰とペアになるか知ってるのか?」
「心配しないで。大好きなお兄ちゃんのために、私、全力を尽くしたから。」
学校に到着すると、いつも通り周囲の視線が集まった。注がれていたのは、美しく聡明な少女――清水美優だった。
彼女は星空高校に入学してすぐ、まるで天使のような存在として全校生徒の注目を集めた。その存在感は圧倒的で、まさに学校のプリマドンナだった。
「今日も綺麗だね、清水さん!」
廊下を通るたびに、男女問わず賞賛の声が飛び交う。
一方、和葉にとってそれは見慣れた光景でしかなかった。
もちろん、美優のことを嫌いな人などいない。美しく、上品で、誰もが憧れる存在――だが、和葉にとっては宿命のライバルでもあった。
(あいつと付き合うなんて、絶対にない。第一、俺には今、そんな余裕なんか……)
そう思いながら、彼は内心で静かに歯を食いしばった。二年目の今こそ、成績でも、何でも――負けたくなかった。
星空高校――日本でもトップ3に入る名門校。広く名高いのはその学力だけではなく、三年に一度行われる特別なイベントの存在だった。
その名も「仮想夫婦イベント」。
このイベントは、人生や未来について深く考える力を育むために行われ、生徒たちは一年間、ランダムに選ばれた異性と“夫婦”として生活を共にする。
さまざまな課題をこなす中で、協力し、時に衝突しながらも“卒業のためのポイント”を稼いでいくという前代未聞のプログラムだった。
「大丈夫、お兄ちゃん。私、ちゃんと支えるからね。」
そう言って、二人は校舎の廊下で別れた。和葉は自分のクラスへと足を運び、席についた。
「おはよう、和葉ー!」
「……あぁ、おはよう。」
力のない返事を返しながら、彼は深く息を吐いた。
そんな時、校内放送が流れた。
《二年生の男子生徒および女子生徒は、直ちに講堂へ集合してください》
一斉に教室がざわつき始める。
「ついに来たか!」
「誰とペアになるんだろう、楽しみー!」
興奮気味な声が飛び交う中、和葉も仕方なく立ち上がり、講堂へと向かった。
講堂に集まった二年生たちは、真剣な眼差しで壇上の説明を聞いていた。イベントの概要、ルール、そして注意事項――
・男女ペアは無作為に選出される。
・イベント期間は一年間。
・日常生活を“夫婦”として送ること。
・校則違反の行為は禁止。
・毎月10万円の生活予算が支給される。
すべてのペアには毎月10万円の予算が支給され、この予算は仮夫婦としての生活に自由に使うことができる。この予算がなくなった場合、生徒たちは自分たちのお小遣いに頼るしかなくなる。そのため、生徒たちは日常生活においてこの予算を賢く使う必要がある。ただし、生活に必要な最低限のものはすべて学校の委員会によって支給されるため、過度に心配する必要はない。
支給された予算は、生活に必要な費用として自由に使って構いません。ただし、予算を使い切った場合は、自分たちのお小遣いに頼ることになります。そのため、計画的に使いましょう。その他の生活インフラや施設の利用は、全て学校の責任で管理されます。
もしペアのポイントがマイナス100を超えた場合、そのペアは脱落、もしくは退学処分となり、それまでに支給された予算を返還するよう命じられる。一年間で必要とされるポイントの目安は1000ポイントである。これらのポイントは、特別な失敗を犯さず、通常の夫婦のように振る舞うことで自然と獲得できる。
追加ポイントが欲しい場合は、毎月学校の委員会が出すチャレンジに参加することができる。このポイントは各ペアが競い合い、毎月上位3組のペアのみが獲得することができる。
このイベントでは、すべてのペアはSクラス、Aクラス、Bクラス、そしてFクラスという4つのクラスに分類される。Sクラスに属するペアは、非常に安定したポイント状況にあり、試練をスムーズに乗り越えやすい。彼らにはSクラスであることを示す特別なバッジが与えられる。このバッジにはさまざまな特典があり、学校施設への優先アクセス、予算に関する意思決定の優先権、そして他のクラスよりも高いボーナスポイントを得られるチャンスなどが含まれる。
さらに、Sクラスのペアは小さなミスによるポイント減少が軽減され、ポイントがマイナス100に近づいても即座に脱落することはないという保護措置もある。つまり、Sクラスは競争の激しい環境の中でも、関係を深めることに集中できる安全地帯と言える。
AクラスもSクラスほどではないが、いくつかのメリットが与えられている。このクラスのペアは、追加ポイントを獲得できる特別イベントへの参加権が優先される。また、月ごとのチャレンジで優秀な成果を出せば、Sクラスへの昇格も可能である。ただし、ミスによるペナルティはSクラスよりも重くなるため、注意が必要だ。
一方で、BクラスとFクラスはより厳しい立場に置かれる。Bクラスのペアはまだ挽回のチャンスがあり、努力次第で上のクラスへ昇格する可能性もあるが、特別な施設へのアクセスは許されておらず、Fクラスへ転落する危険性もはらんでいる。
Fクラスは最下位のクラスであり、ここに属するペアは最も厳しいプレッシャーにさらされる。脱落のリスクが非常に高く、そこから抜け出すためには人一倍努力する必要がある。Fクラスのペアには追加の課題が課されることが多く、それをクリアできなければさらなる不利益を被ることになる。
しかし、学校の委員会はすべてのクラスに希望を与えている。この制度が競争に満ちているとはいえ、努力と関係性の改善を継続すれば、どのクラスでも挽回することは可能だ。そのためには、与えられた予算を上手に管理し、パートナーとの調和の取れた関係を維持し、あらゆるチャンスを活かしてポイントを獲得することが求められる。
毎月のチャレンジは常に注目の的となる。協力性を試すゲームから、戦略や知恵が求められる課題まで、毎月、すべてのペアは難しい選択に直面する。これらのチャレンジは追加ポイントを与えるだけでなく、ペアとしての関係を強化する機会にもなりうる。だが時には、それによって関係の弱点が明るみに出ることもある。
最終的に、1000ポイントを獲得したペアは理想的な夫婦と見なされ、このプログラムを名誉ある形で修了することになる。彼らには特別な表彰が与えられ、追加ボーナスポイントも授与される。それは将来的に活用したり、学校の委員会の判断によって別の用途に使うことができるようになる。
だが、その華やかな成果の裏には、常に大きなプレッシャーが存在していた。すべての行動、すべての決断には、必ずと言っていいほど代償が伴う。どれほど円満に見える関係であっても、ほんの少しの油断で、ペアは失敗という深い奈落に落ちてしまうかもしれない。卒業のチャンスを失い、使用した予算を返済させられる──そんなリスクは、決して軽いものではなかった。
このイベントが進行する中で、すべてのペアには「デバイス」と呼ばれる腕時計型の機器が支給される。それは彼らを常に監視し、どこにいても記録を取り続ける装置だ。このデバイスを紛失したり壊した場合、再購入には一万(10,000)円が必要となる。だが、アカウントの変更や他人のものとの交換は不可能で、すべての情報とソフトウェアは学校専属のサイバーセキュリティによって厳重に守られている。
生徒たちは真剣に説明を聞きながらも、心のどこかで高鳴る気持ちを抑えきれないようだった。
システムの説明を聞き終えた時、和葉は心の中で確信していた。──これは、思っていたより簡単だ、と。
そして、生徒たちがビルボードの前に集まり、自分のペアを確認する時が来た。何気なく視線を向けたその瞬間、和葉の時間は止まったかのように感じられた。
(ペア……誰と組まされるんだ?まさか、まさか……いや、ないだろ)
和葉は心の中でそう呟いた――だが、運命の歯車はすでに静かに回り始めていた。
男子生徒たちの憧れの的──清水 美優。その名が、自分の隣に並んでいたのだ。
彼女は学校の“天使”と呼ばれている。外見だけではなく、成績も運動も完璧。和葉とは、学業でもスポーツでも常に同じフィールドにいたが、不思議とライバル関係にはならなかった。競い合うのではなく、ただ同じ景色を見ていただけ。会話も必要最低限で、互いに干渉することはなかった。
その美優が、今、和葉の前に立っていた。パートナーとして──。
和葉がゆっくりと彼女に歩み寄ると、美優の表情がわずかに曇っているのが見えた。だが、それは自分に向けられたものではなかった。この状況自体に、彼女は少し苛立っているようだった。
「し、清水……いや……これって……俺たち、パートナー……だな……」
ぎこちない声。どこかで笑われそうなほど、不器用な一言。
美優は少しだけ目を伏せ、口元にふっと微笑みを浮かべた。それは、いつもと違う、少しやわらかな表情だった。目線を戻したとき、彼女の瞳にはどこか覚悟のような光が宿っていた。
「うん、分かってる。理想的な状況じゃないけど……でも、大丈夫。きっと乗り越えられると思う。」
和葉は、その言葉に心の奥で安堵した。敵意も、距離も感じない。ただ協力し合うというシンプルな目的だけが、そこにあった。
「俺も、それ以上は望まないさ。……問題なく終われれば、それでいい。」
和葉の言葉に、美優は小さく息を吐いた。そして今度は、明らかに心からの笑みを浮かべた。彼女の視線が、じっと和葉を見つめる。
その瞳の奥には、彼女の秘めた想いがわずかに揺れていた。
静かで、確かな憧れ──。
和葉の冷静な態度、細やかな気遣い、そして決して目立たないけれど、常に全力で物事に向き合う姿勢。美優は、そんな彼にずっと惹かれていた。けれど、それを言葉にする勇気はなかった。今の関係が壊れてしまうのが怖かったから。
だが、状況はそれを許さなかった。
──否応なく、彼らは一緒に過ごす時間を与えられた。
この一年間が、彼女の心にどんな変化をもたらすのか。
それは、まだ誰にも分からない。
「わかってる。そして……これが、お互いをもっと知るためのチャンスになるかもしれない。前よりも、もっと良くなるかもね。」美優は小さな笑顔を浮かべながら答えた。
和葉は少し眉をひそめ、突然変わった美優の声色に困惑したが、ただうなずいた。
「うん、それは本当だ。大事なのは、競い合うことじゃなくて、一緒に協力していくことだ。」
美優はしばらく和葉を見つめ、その笑顔は今度は少しだけ控えめだったが、彼女の瞳にはどこか温かいものが込められていた。
「あなたは正しい。」
「それに、もしかしたらこれがただのゲームじゃないのかもしれない。もっと大切なことがあるのかも。」
和葉はその意味を完全には理解できなかったが、美優の言葉には何か違う深さがあるように感じた。もっと考えようとする前に、美優は視線をそらし、いつもの落ち着いた態度に戻った。しかし時々、和葉が見ていないとき、彼女はこっそりと和葉に視線を向け、無意識に少しずつ溜まった気持ちを出していた。
和葉は小さく笑い、少し安心した。自分が想像していたほどこの状況は悪くないと感じた。偽の夫婦生活は難しそうに思えたが、美優となら、それは競争や勝ち負けではなく、共に過ごす時間そのものが大切なのだろうと思えた。
すべてのペアが発表された後、和葉はビルボードの前に立ち、目を細めて名前を探しながら、少し落ち着かない気持ちで見ていた。彼が探していたのは、絶対に見逃せない一つの名前──愛理、和葉が密かに想いを寄せていたあの女子の名前だ。
しばらく探し続け、ようやくその名前を見つけた時、和葉の心臓は速く打ち始めた。愛理が、親友の春とのペアになっていたのだ。和葉の胸には不安とともに、抑えきれない焦燥感が湧き上がった。
「彼女が無事でいることを願う。」小さく呟き、和葉はその掲示板をじっと見つめていた。ポジティブに考えようと努力したが、心の中から沸き上がる失望を完全に消し去ることはできなかった。
「こんなこと、大した問題じゃないはずだ。」そう自分に言い聞かせながらも、抑えられない嫉妬の感情は消えなかった。
しばらくして、春が和葉のところにやってきた。いつも通りの大きな笑顔を浮かべていたが、今回の目の輝きには、どこか皮肉が混じっているようにも見えた。
「どうやら俺は運がいいみたいだな。こんなに美人な子を手に入れたんだ。お前、ちょっと羨ましいんじゃないか?」
「彼女はお前のものじゃない、春。調子に乗るなよ。何かしてみろ、お前はその代償を払うことになるからな。」
春はその言葉を聞いて、少し笑いながらも、特に気にした様子はなかった。「ああ、大丈夫さ、限度はわかってる。でもまあ、俺もお前に言えることがあるけどな。」
「どうだ、和葉?美優、学校の天使とペアになった気分は?お前だって、これが運じゃないって言い切れるのか?」
和葉は言葉に詰まった。春の質問に驚きながらも、自分の中で答えがなかなか出てこなかった。確かに、美優とペアになるなんて、これまで考えもしなかったことだ。彼女がどれほど多くの生徒に憧れられているか、和葉もよく知っていた。しかし、この状況には大きなプレッシャーがかかっている。特に、二人の間にすでに複雑な感情が絡んでいることを、和葉はよく理解していた。
「運なんかじゃない、春。俺たちはここで競い合っているわけじゃない。これはただのゲームだ。そして、俺は全てを円滑に進めるつもりだ。ドラマなんていらない。」
春は鼻で笑ったが、今度はその目に隠しきれない嫉妬の色が見て取れた。
「まあ、耐えられるといいな。もしこのイベントがなければ、学校中のみんながお前を羨ましく思うだろうに。」
春がどれだけ冷静を装っても、その心の中には和葉と美優が一緒に過ごす時間への嫉妬と、そこから来る不安が感じられた。美優のカリスマ性が、どんな人間でも少しは圧倒するのだろう。
休み時間、図書室の片隅で美優はひとり、思考に沈んでいた。
ページは開いたままだが、文字は頭に入ってこない。
ふと気づくと、親しい先輩の紫が静かに近づいてきて、隣に腰を下ろしていた。
「美優、聞いたよ。あんた、林一葉とペアになったんだって? 二人って昔からよくライバルって言われてなかった?」
「うん、確かに。そう言われることが多かったけど……でも、私たち、実際にはそんなに競い合ってたわけじゃない。ただ……今回のイベントで彼とペアになったってことが、なんとなく気まずくて。」
「わかるよ。でも、これはある意味いいチャンスかもしれないよ。これまでと違う角度から、一葉のことが見えるようになるかもしれない。」
紫の微笑みには、どこか含みのある優しさがあった。
美優は小さくため息をついて、紫を見つめる。その目にはほんの少しだけ、柔らかさが宿っていた。
「たぶん、紫の言う通りかも。実はね、一葉のこと……わからないことが多くて。彼はいつも落ち着いていて、気配りもできる。でも、同時に……何を考えてるのか読みづらいの。」
紫はさらに笑みを深め、何かを確信したように言った。
「ふふ、もうすでに彼の“別の一面”が見え始めてるんじゃない? このイベント、案外あんたを彼に近づけてくれるかもね。」
美優は少し頷いた。だが、その表情にはわずかな戸惑いが残っていた。
「うまくいくといいんだけど。もうライバルとか、そういうことじゃない。ただ……彼の前で、間違ったことはしたくないの。」
紫はやさしく美優の肩に手を置いた。
「大丈夫。予想もしなかった距離の近さが、思いがけない何かを見せてくれることもあるよ。」
美優はふわりと微笑んだ。今回は心からの笑顔だったが、それでも頭の中には、ある一つの疑問が残っていた――
一葉は、私のことをどう思っているんだろう?
*
大広間には、華やかな雰囲気が満ちていた。
壁には美しく飾られた花が咲き乱れ、シャンデリアの光がキラキラと反射して、空間を温かく包み込んでいた。
生徒たちはそれぞれのペアとともに整列し、きちんと用意されたフォーマルな服を身にまとっていた。笑い声や軽やかな会話があちこちから聞こえる。
しかし、和葉と美優にとって、その場の空気はどこか違って感じられた。
形式的には穏やかな表情を保っていたが、その内側には、どこかぎこちない空気が流れていた。
お互いの存在を強く意識しながらも、素直になれない何かが心の奥で揺れていた。