8.羽化
「あれっ」
キット様から届いた手紙は、あの四葉のクローバーの便箋だった。この前クリスが選んでいたのと同じだ。
「流行っているのかな」
もしかしたら、キット様もあの文房具屋に行ったことがあるのかもしれない。
いつの間にかすれ違っていたりしたらどうしよう。そんなことを考えながら便箋を開いた。
『親愛なるキャロルへ
貴女は容姿に自信がないから夜会に行くのは恥ずかしいというが、こういうものはある程度定石というものがある。それさえ覚えておけば正しく装うことは、そう難しくはない。堂々としていればいいんだ。
それにきっと、貴女はとても美しい人だ。綴る言葉を見ていれば分かる。
もしよければ、私から貴女にドレスを贈らせてもらえないだろうか。馴染みの仕立て屋がある。話は通してあるから、気に入ったものを着てみてほしい。
私の選んだドレスを着た貴女を、いつか見てみたい』
「ノワール」という店が仕立て屋通りにあるらしい。そこがキット様が懇意にしている仕立て屋のようだ。具体的な場所までは書かれていない。それほど有名な店なのだろうか。
「ねえ、クリス。『ノワール』って仕立て屋さん知ってる?」
「嘘だろ」
私が尋ねると、彼は不思議そうな顔で二回瞬きをした。
「知らないの? 今ドーレブールで一番人気のある仕立て屋だよ。令嬢がみんな泣いて喜ぶって言う」
今日も向かいに座る幼馴染はこの言い様である。本当に、何しに来たんだろう。
「う、うん……」
だとすれば名前も知らない私は、もはや令嬢とは呼べないのかもしれない。
クリスは銀色の頭を抱えて大きく溜息をついた。長めの前髪を、ぎゅっとその手が握りしめている。
「おれは……その店を知ってる。連れて行ってやるよ」
さすがは侯爵家のお坊ちゃまである。クリスだって、誰かに贈るドレスの一着や二着や三着、買いに行ったこともあるのかもしれない。
「いいよ、場所さえ教えてくれればちゃんと一人で行けるよ。」
「いいから。方向音痴だろ、あんた。おれはまだ昔のことを忘れてない」
幼馴染というのは時に厄介である。
なにせ付き合いが長いので、若さゆえの過ちも幼さゆえの愚行も全部知られているのだ。
彼が言っているのは、湖の近くの森で迷子になった時のことだ。
「クリスが帰りたいって泣き喚いたもんね」
しかしながら、こちらも忘れていないのである。
幼馴染というのは、互いが互いの黒歴史を持っているという、油断ならない間柄なのだ。
もう歩けないと嘆くクリスの手を引いて、宥めすかして屋敷まで帰るのは大変だった。
「おれはいたいけな九歳児だったから、致し方ない」
そのいたいけな面影は、今の端整な横顔には見当たらない。どこからどう見ても完璧な美青年だ。
「私も可愛らしい十三歳だったからね。しょうがないね」
「とにかく、明日は迎えを寄越すから」
また言いたいことだけを言って、彼は帰っていった。
残されたのは私と花束だけだ。そう言えば、キット様の栞の花束に少し似ている気がする。小ぶりだけれど可愛らしくて、ピンクや黄色など明るい色の花の組み合わせだった。
クリスは何を思って、この花を選んだのだろう。
次の日、言った通りに侯爵家の馬車が迎えに来て、乗り込むと頬杖をついたクリスが座っていた。隣に座るのはなんだか気が引けて、向かいに腰を下ろす。
動き出した馬車の窓から、ドーレブールの町が、よく見える。それらは滑るように後ろに流れていく。
あっという間に、目的の店に着いた。このぐらいの距離なら、別に歩いてもよかったのに。
扉が開けられて、クリスが先に降りた。
「ん」
当然のように差し出された手。こういう時どうすればいいんだっけ。
「え、えっと」
呆然としていたら、くっと手を掴まれた。
「おれも馬車から転がり落ちる人間は見たくないってだけ」
その手に導かれるようにして馬車を降りる。握り返した手は、自分の手よりも大きかった。
重厚な造りの黒い扉をくぐったところで、クリスの手はそっと離れた。どうしてだろう、そのままずっと繋いでいられればよかったのに、と思った。
奥から店主らしき女性がやってくる。彼女の名前がノワールなのだろうか。豊かな黒髪で、スタイルがとてもいい。
どんなモデルを雇うよりも、この人自身が身に纏う方がどれだけ服の宣伝になるだろう。そう思わせるような人だった。
「いらっしゃいませ」
お辞儀をすると、肩口で切りそろえた髪がはらりと揺れる。にこりと、微笑みかけられる。
彼女はそっと私に近寄ってきたかと思うと、耳元で囁く。
「キャロル様ですか?」
ああ、そうだ。キット様は話を通してくれていると手紙に書いてくれていたが、彼は私の本当の名前も知らない。知っているのは“キャロル”という文通名だけだ。
私は頷いて応える。「はい、そうです」
「お話はお伺いしております」
そして、ちらりとその黒い目が隣に立つクリスに向けられた。
「あ、クリス。ありがとね」
送ってもらったのだから、これ以上付き合わせたら悪い。クリスにはクリスで、やることがあるだろうし。
「なに、ここまで来て帰れって言うのか」
そして、店主に向き直ったかと思うと、
「付き添いがいても問題ありませんよね、マダム=ローラン」
どうやらこの店主はローランというらしい。黒というのは彼女の髪の色に合わせた店名なのかもしれなかった。店内も黒を基調としたシックな設えだ。
「ええ、もちろんです、クリストファー様」
「そういうこと」
青い目がきらりと輝いて、クリスが片方だけ口角を上げる。まるでどう化けられるか確かめてやる、とでもいうように。
物語の中では皆、ドレスに着替えれば見違えるような美人になれるものである。
元がたとえボロを纏った召使であったとしても、瞬きするほどの間に彼女達はするりと“姫君”へ羽化する。
けれど残酷なことにここは現実で、私は至って普通の行き遅れだ。今からそれを嫌というほど実感することになるだけだろう。
彼の目に映るのはきっと、いつも通りの地味な私だ。