6.まるで王子様みたいに
今日は待ちに待った『花咲く丘の二人』の六年ぶりの新刊にして最終巻の発売日である。これを買うために私はいつにも増してお針子の仕事に励んだのだ。
久しぶりに本屋に行けば、人だかりができている。さすが人気作家の新作だ。町娘も着飾った令嬢も従者らしき人も、みんなそれを求めて集まっている。
私も急いできたつもりなのだけれど、これでは買えないかもしれない。
様子を窺おうと背伸びをしていると、なんとも凛々しい声がした。
「失礼」
不機嫌そうな乙女達が一斉に振り返って頬を染める。
自分のことを棚に上げて言うのもなんだけど、今この場にいるのは恋愛小説を発売日に買い求めるような、夢見がちな娘ばかりだ。きっと彼女達の理想を固めて服を着せたような男が来たのだろう。
一体どんな貴公子かしらと思って皆の視線の先を見つめれば、そこにいたのは、
「まあ、ラザフォード様」
なんてことはない、クリスだった。
「よろしいですか」
彼は見たこともない完璧な笑顔で、彼女達ににこりと微笑みかけた。
あっちの令嬢もこっちの町娘もぽーっとなっているのが分かる。長身の姿は人並みの中にいてもよく見える。
彼が長い足を進める度に、皆がそっと譲って道が出来る。銀色の髪がふわりふわりと煌いて、まるで海を割って進む聖者のようだ。
なんだろう、これは。
「こちらが最後の一冊になります」
積まれていた最新刊の豪華版を手に取って、クリスは愛おし気に微笑む。本屋に代金を払うと、その本をもって彼はまた颯爽と歩いていく。
目当ての本が買えなかったというのに、誰も落胆していない。みんなまだぽーっと惚けている。夢のような一瞬だった。
噂には聞いていたけれど、実際に目の当たりにすると破壊力がすごい。
普段はこんな王子様みたいなのか、クリスは。
「なんだ、いたんだ」
いつもの仏頂面に戻ったクリスが、こちらに向かって歩いてくる。きっ、と射殺すような目が一斉に私を見遣る。
――何、あの女。
全員の顔にそう書いてあるのが分かる。
怖い、恐ろしく怖い。
本当に私と彼とはただの幼馴染なんです、許してください。
できれば、全力で他人のフリをしたい。
「あ、その、えっと」
思わず駆け出そうとした手首を、ぐっと掴まれる。痛いというほどの力ではないのに、その手に抗えない。
「人の顔を見るなり逃げるって、どういうつもり?」
それは、そうなのだけれど。
「私今から文房具屋さんに行きたいの。だから急いでて」
これは、本当。
キット様に送る便箋がなくなったので買いに行こうと思っていたのだ。とりあえず、彼女達の視界から消えなければならない。
早足で歩く私の前を、クリスは手を取ったまま平静な顔で歩く。
「あ、そう」
「別についてこなくていいのに」
「まさか。おれも文房具屋に用があるだけ」
私の三歩が彼の一歩に等しい。いつの間にか引きずられるようになっている。背が高いって、足が長いって、こういうことなのか。
「クリス」
「なに」
「その、もうちょっとゆっくり歩いて」
例えば彼が本気で走り出したら、私はもう追い付けないのかもしれない。ずっとクリスの手を引いていたのは私だったのに。なんだか不思議な気分だ。
「ごめん」
途端に彼の足の進みが遅くなる。振り返ると、人だかりはもう随分と遠くなっていた。ほどなく、文房具屋の前に着いた。
「何買うの?」
「便箋だよ」
連れ立って歩いて、レターセットの棚の前に立つ。
封筒は文通屋のものと決められているけれど、便箋は自由だ。キット様から送られてくるものは、どれも落ち着いたデザインの上品なものが多い。私も何か素敵なものを送りたい。
こっちのリボンの縁取りのものはどうだろう。ちょっと幼過ぎるかな。あっちの金の箔押しのものの方が、大人っぽいだろうか。
見れば、隣のクリスも便箋を選んでいる。
「クリスも買うの?」
彼が持っていたのは、四葉のクローバーがあしらわれた便箋だった。控えめだけど可愛らしいデザイン。送った人ももらった人も両方幸せになれそうだ。
「おれが買うと悪い?」
私は首を横に振った。素敵な令嬢からもらった恋文に返事でも書くのだろうか。
そういえば、絵はよく見たけれど、私はクリスの字をほとんど見たことがなかったことに気が付いた。きっと、気難しそうな細かい字を書くのだろう。そんな気がする。
別々に会計を済ませて店を出る。
「私、帰るね」
「これ」
ずいっと差し出されたのは、本屋の紙袋だった。
あの人だかりの中からクリスが笑顔を振りまいて手に入れた最新刊が、この中には入っている。
「読まないの? 楽しみにしてたのに」
確かに、私はこの本を読むのをとても楽しみにしていたけれど。
「クリスは読まないの?」
「おれはまだ六巻を読んでるところだから、あんたの後でいい」
六巻は幸せなシーンが多くて私も好きだ。ここから先が佳境で、今までで一番の困難が二人を襲う。七巻の終盤で、ロイはジェシカのことだけ記憶喪失になってしまうのだ。
「……本当にいいの?」
「うん」
もう一度、差し出されたそれを私は受け取った。厚みの分だけ重みが手に食い込む。
やさしくされるとどんな風に返せばいいのか分からなくなる。彼は他の令嬢にもこんな風にするのだろうか。
「じゃあね」
くるりと踵を返して、クリスは歩いていく。長身の姿はすぐに町並みに溶けていく。
楽しみにしていた本が読めて嬉しいはずなのに、どんな顔をしていいか私は分からなかった。