5.やわらかな香り
やわらかな香りがする。
ああ、そうだ。これは、キット様の手紙の香りだ。
爽快感と安心感に結びついた匂い。ふわふわとした意識の中で、私はそれと確かなあたたかさに包まれていた。まるで陽だまりの中にいるみたい。ずっと、こうしていられたらいいのに。
けれど思いに反してぱちりと目が開いた。
「ん」
「おはよう」
クリスがこちらを見遣る。読み始めたばかりだったと思っていた彼の手元の本は、もう中盤を過ぎている。昨日は納期の迫った縫い物があって夜更けまで作業をしていたのが良くなかったのかもしれない。
「……私、どれぐらい寝てた?」
身じろぎすると、掛けられていた上着がずれる。風邪をひかないように気を使ってくれたのだろう。
クリスなのに、クリスのくせに。
「三十分ぐらいじゃないかな。大した時間じゃなかったよ」
だとしたら、クリスが本を読むのが早いのか。
「寝顔、久しぶりに見たな」
青い目がふっと緩む。すっと上着を手に取って、彼は無造作に羽織った。
「おれが何かしてる横で、あんたはよく寝てた」
懐かしむようにくすりと笑う横で、私は無性に恥ずかしい気分になった。そんな風に言わなくてもいいのに。
実際でもそうなのだ。クリスは、私の寝顔のスケッチをしていたことまであるぐらいだ。それも見せてはもらえなかったけれど。
自分の寝顔なんて、自分では一生見られない。私は一体、どんな顔をしてたのだろう。
ぱたりと読みかけの本を閉じて、クリスは言う。
「あのさ、少し聞きたいんだけど」
「なあに?」
「なんでこう、月を見ても花を見ても相手のことを思い出すわけ? そんなに好きなら、うだうだ言ってないでさっさと会いに行けばいいのに」
彼らしい物言いだなと思って、思わず苦笑が漏れてしまった。
物語の序盤で、惹かれ合っていたはずの主人公二人――ロイとジェシカは離れ離れになる。まあこの二人は、引っ付いたり離れたりを延々と繰り返すのだけれど。
クリスの言うことにも、一理ある。
「でもさ、何でもない時に誰かの顔が浮かんでくるのは、その人が大事な人だからじゃないのかな」
それは、何を見ても思い出してしまうほどに、自分に深く結びついている人だからだ。
どうでもいい人であれば、思い出すことなんてないだろう。
会えない時間に、二人は一緒に眺めた月や花に互いを重ねて、思い合って過ごす。
切ないシーンも多いけれど、それでも離れていても二人の心が繋がっていると思えるようなこの話が、私はすき。
「そういうもんか」
彼の目はぼんやりと宙を漂う。切れ長の目がふとこちらに向けられた。
「あんたは、」
彼は一度そこで言葉を切った。言いあぐねたように、浅く息を吸う。
「私?」
手が、こちらに伸びてくる。頬に触れるかと思ったところで、その手は止まる。
代わりに、頭の上に手が落ちてきた。梳くように大きな手が髪を撫でる。
「寝ぐせ、なんとかしたら」
くしゃりと微笑まれたら、途端に息の吸い方が分からなくなった。
「へっ」
どうして顔が熱くなるんだろう。クリスなんてよく知っている幼馴染のはずなのに。これじゃあまるで……。
「っと、残りは家に帰って読むか」
そんな私の心中を知ってか知らずか、すっと立ち上がったクリスが再び本棚の前に立つ。よかった、あのまま見つめ合っていたら変な気を起こすところだった。
「あ、全部で九巻あるんだけど」
「嘘だろ、そんなに長いのか」
「超大作なんだよ。第一部までなら三巻だよ。あと、最新刊がもうすぐ出るんだ」
「じゃあ、とりあえずそこまで借りるか」
「うん、そうして」
クリスはいつ残りを借りに来るだろうと、私は内心とても楽しみだった。初めて読んだ時は寝不足になるぐらい夢中になって読んだから、彼もそうだったらいいなとひっそりと思った。
「あれ」
そういえば、どうしてクリスとキット様から同じ香りがするんだろう。
「流行ってるのかな、あの香水」
二人に共通点なんてあると思えないのに。私は一人、首を傾げた。
『親愛なるキャロルへ
紹介してもらった本を読ませてもらった。私が日頃読むジャンルとは異なるが、大変興味深かった。
三巻までだが、ほとんど寝ずに読んでしまった。
特にロイの乗った船をジェシカが見送るシーンでは年甲斐もなく少し泣いてしまった。彼の優柔不断さについてやや気になるところはあるのだけれど、ここから二人がどうなるのか非常に気になる。早く私も完結の最新刊まで辿り着きたい。
貴女がいなかったら、自分だけでは絶対に出会わなかった本だと思う。紹介してくれてありがとう』
キット様から感想の書かれた手紙が届いた。相変わらずの丁寧な筆致で、好きなシーンについて書いてある。
そうでしょう、そうでしょう。私もあそこは号泣した。
クリスもキット様も、私が勧めた本を読んでくれていると思うと、しめしめといった気分である。自分の好きなものを共有してもらえる人が増えるのは、嬉しい。
「読み終わった」
本を貸してからちょうど三日後、クリスは本を返しに来てくれた。三冊分の本が入った袋と、小さな紙袋を持っている。
「どうだった? 面白かった?」
「……まあまあかな」
キット様と違って、クリスは詳しく感想を教えてはくれない。
それにしても、この分厚さの本三冊を三日で読み終えてしまうだなんて、クリスは本当に本を読むのが早い。それとも、すこぶる暇なのか。仮にも侯爵令息なのに大丈夫だろうか。
「こっちは?」
私はクリスが左手に持っている小さな袋について訊ねた。
「一応、お礼」
「わぁ」
中を見てみると、またお菓子が入っている。今度は、カップケーキだ。アイシングやチョコレートでデコレーションされていて、とても可愛らしい。
にしてもどういう風の吹き回しだろう。私はしげしげとクリスを見つめた。
瞬きしても、差し出してきた男はいつもと変わらず涼し気な顔をしている。
「いらないなら持って帰るけど」
慌てて私は首を振る。
「ううん、ありがとう。せっかくだから一緒に食べよう」
「おれはいいよ。あんたが全部食べたらいい。残りの本を借りたら、今日は帰る」
まだ読む気ではあるのか。だったら、面白いとは思ってくれたのだろうか。
言葉通り、クリスは残り六冊分の本を借りたらすぐに帰っていった。
私は一人で紅茶を淹れて、カップケーキと向き合った。
「美味しい」
本当は小さく切り分けて食べるものなのかもしれないけれど、何せ見る人もいないので私は齧って食べた。バターの香りがする生地はしっとりとして美味しい。
こんなもの一体どこから見つけてくるのだろう。モテると女の子の好みそうなものにも自然と詳しくなるのかもしれない。色んなご令嬢に差し上げて、最終的に私のところにも回ってきたのだろうか。
そんなことを考えてしまうと、なんだか急に気分がしぼんでいく。舌に残る甘さの分だけ、余計に切ない気持ちになってしまった。