5.ぼくらの”キャロライン”
「すみません。なんだかぼくらの揉め事に、巻き込んでしまって」
「いえ」
ユーイン君は私から少し離れたところに後ろ手を組むようにして立った。眼鏡の向こうの目は盤上に向けられている。
どうやらクリスが白で先手らしい。私はチェスに詳しくないからそれぐらいしか分からなかった。
「クリスは、勝てるでしょうか?」
「さあ、まだ序盤ですからね」
しばらく二人の打ち合いを見守っていたら、ユーイン君が言った。
「ぼくが言うのも変な話ですけど、グレッグは本気で……あなたをばかにしたかったわけではないと思います」
「ええ」
それは何となく、分かる。
多分彼はクリスに何かしら思うところがあって、それをぶつける建前として私が選ばれただけのことなのだと。
「この中で僕とクリスだけ一つ年下なんですけど、入学した時に一番小柄だったのは早生まれのクリスでした。だから、グレッグはクリスをばかにして、チビって意味でkitって呼んでました」
それを聞いて、私ははっとした。
学校に入ったばかりのクリスは私より背が低かった。そんな風に言われるのも無理がないぐらいに。
だから、ユーイン君はクリスのことを“キット”とは呼ばないのだ。
けれど文通をしていたあの時、私の憧れのおじ様を演じながら、クリスは自分をばかにする名前を名乗っていた。それは一体、どんな気分だったのだろう。想像もつかなかった。
「随分前ですけど、クリスにイニシャルの刺繍の入ったハンカチを作ってあげたこと、ありましたか?」
「あ、はい。私が、作りました」
そのことならよく覚えている。お守りだと言ってクリスに渡した。私が頷くと、ユーイン君は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、あなたがやっぱり“キャロライン”なんだ」
それは、一体どういうことだろう。
「ぼくらの憧れ、だったんです」
ユーイン君は晴れた空を仰ぐようにする。通り過ぎる雲に己を重ねているように、その目を細めてみせる。
「『僕のためにハンカチに刺繍してくれる女の人がいるんだ』ってクリスはひどく自慢げでした」
だから、「本当にいたんだ」だったのか。
「ハンカチを最初に見つけてクリスから取り上げたのはグレッグでした。ぼくらはみんな子供で、そんな特別な人いなくて。グレッグもぼくもみんな、羨ましくて仕方なかった」
それに、驚いた。私のハンカチにそこまでの力があったなんて。きっとすぐに捨ててしまったと思っていたのに。
「ぼくは寮でずっと、クリスと同じ部屋でした。ぼくが一番、あなたの話を聞いていたと思いますよ」
ユーイン君は苦笑したように言った。そして、彼は私に問いかけてくる。
「ぼくらの学年の首席、一体誰だと思いますか?」
この落ち着いた語り口、どう考えてもユーイン君その人ではないだろうか。そう思って手で示せば、ユーイン君はうんうんと頷いた。
「さすがはキャロラインさん。非常にお目が高い」
けれど、その後静かに首を横に振る。
「しかしながらぼくは学科は一位でしたけど、運動神経がからっきしで。実技が底辺なので首席ではないです」
貴族学校の授業は、剣術や体術からなる実技と、歴史や経済を学ぶ学科の二つに大きく分けられると聞いたことがある。確かに、彼のこの感じは実技が得意という風には見えない。
「じゃあ、グレッグ君とか?」
「グレッグは、見ての通りあの体格でかつずる賢いのでそつなくはこなすんですけど。ちょっと自分を過信しているのと人を小馬鹿にしたところがあるので、脇が甘いんですよね」
なるほど。それもなんとなく、分かる気がした。
諦めて首を傾げたら、ユーイン君は微笑んだ。
「ぼくも昔、クリスに意地悪を言ったことがあって」
「そうなんですか?」
私には、目の前のこの穏やかな青年がそんなことを言うとは思えなかった。
「『女の人は大体みんな、年上の男と結婚するんだよ。ぼくらみたいなお子様はお呼びじゃないってことさ』って、あいつに言ったことがあるんです」
彼の言うことは、あながち間違いではない。貴族の子女は、自分より年上の男性と結婚することが圧倒的に多いと思う。
「本当は、少し妬ましかっただけなんです。年上のお姉さんに可愛がられてるあいつが」
ユーイン君はそこで申し訳なさそうに頭をかりかりと掻いた。
「けど、あいつはそこで諦めなかった」
ユーイン君はもう一度チェスを打ち合う二人に目を向ける。
「これはぼくの持論ですが、この人がいたら真っ当に生きられるというか、頑張れるというか。自分の中の目印みたいなものって、絶対にあると思うんです」
そこでユーイン君は私を見た。その目はまるで眩しいものでも見る様に、細められる。
「だからクリスにとっては、それがあなただったんじゃないかな」
「そんな」
誰かの人生を決めてしまえるような、宝物。そんな大それたものに、自分がなれるだなんて思えなかった。戸惑う私に彼は続ける。
「ぼくらの学年の首席はクリスです。あいつは実技はカイルとグレッグに敵わなかったし、学科ではぼくに少し劣りますけど、両方すごく頑張って、総合的には首席で卒業しました」
そんな話、はじめて聞いた。
これは、私の知らないクリスの横顔だ。
「きっとあいつはあなたのために、頑張ってきたんだと思いますよ」
離れている間、大人になっていく間。クリスはちゃんと私のことを思い出してくれていた。そのことがじわじわと染み渡るように、込み上げてきた。
「ぼくはあいつが今日という日を迎えられてよかったと、心から思っています」
ずっと私を追いかけて、この四つ年下の幼馴染は走って来てくれたのだと、ユーイン君の話を聞いていてやっと実感する。
「だから今回もきっと、大丈夫です」
カイル君が応援するように大きな動作で、クリスに何か声を掛けているのが分かる。
ここで繰り広げられているのは、本当の決闘ではない。流れる空気は静謐で、ただ駒を動かしているだけだ。殴り合うことも真の意味では傷つくこともないけれど、それでも彼らが戦っているのだと分かる。
私は祈るような思いで、チェスをするクリスを見つめる。
彼らは立派に正装した貴族の青年に違いない。けれど、なんだかそれが制服を着て貴族学校に通う男の子達のように見えた。
「そう、ですね」
そこでクリスがテーブルの下でガッツポーズのように、ぐっと手を握りしめたのが分かった。
*
チェスで見事勝利を飾ったクリストファー=ラザフォードは、観衆の一人が差し出したグラスを勝利の美酒がごとく飲み干した。飲み干してしまった。
「あ」
それを見ていたユーインは小さく呻いた。
クリストファーはまったくと言っていいほど酒が飲めない。彼が酒を飲むとろくなことにはならないのは寮時代から折り紙付きだ。
けれどそれを知らない誰かが、良かれと思って飲ませてしまったのだろう。
瞬く間に白い相貌が赤く染まる。僅かに覚束ない足取りで、クリストファーはキャロラインに向かって真っ直ぐに足を進めた。
己の席に着いた彼は、強く彼女を抱き寄せる。普段のクリストファーならきっとこんなことはしないだろう。
「すきです」
けれど、その不躾な抱擁を、キャロラインは振り解こうとはしなかった。
天から降り注ぐ光がまるで福音のように二人を照らす。揃いの金の装飾が、彼らが共にあるのが当然だというように輝く。
「ずっと昔からだいすきです。ずっと僕のそばにいてください」
そのまま、キャロラインの肩に頭を置いてそのままクリストファーは動かなくなった。
皆が固唾を飲んで二人を見守っている。
キャロラインはこの告白になんと返すのだろうと。
「はい」
穏やかな声はけれど確かに皆の耳に届く。クリストファーは静かに顔を上げた。
胡乱な青の瞳は、ただキャロラインにだけ向けられている。
「私もずっと大好きです」
そう言って、キャロラインはクリストファーの額に祝福のキスをした。
それは求婚と呼ぶにはあまりにも幼く、拙くはあったけれど。
ここに二人の婚約は成され、鳴りやまない拍手は雨のように降り注ぐ。
「末永くお幸せに」
ユーインは誰にも聞こえないようにそう呟いて、その拍手の中に混ざったのだった。
kit
①道具セット、機材セット
②装備
③子供(主に四足の幼獣のことを指す)




