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3.理想のおじ様

 それから何度か、手紙のやり取りをした。


 キット様の手紙はいつもとても丁寧だ。日常の地に足のついた事柄が真摯に綴られている。博識な人なのだと思う。


 趣味は絵を描くことなのだと、二回目の手紙で教えてもらった。


 かの領地には大きな湖があるらしい。夏場は避暑地としても名高いそこで、絵を描いたりしながらゆっくりと過ごすことが多いそうだ。行ってみたいなとは一瞬思ったけれど、それは手紙には書けなかった。


 対して、私はどうだろう。


 見栄を張りたい気持ちが、全くなかったわけではない。けれど、顔も知らない相手だからこそ、逆に素直になれた。きっと会うこともないだろうと思えば、正直に自分の現状を書くことができた。


 “キャロル”は、貴族とは名ばかりの地味な暮らしをしているごく普通の地味な行き遅れだ。趣味は本を読むこと――と言えば聞こえはいいけれど、ただ単に娯楽に割くお金がないだけだ。人並みにお芝居にお茶会にと興じてみたい気持ちは、ないことはない。


 書斎には父と母が残してくれた本が沢山あるから、時間がある時はそれを読んで過ごしている。


 そう書くと、その次の手紙には栞が同封されていた。色とりどりの花束の絵が描かれていて、繊細なレースのリボンが結ばれている。とても素敵だと返事に書いたら、時々便箋の隅に小さなスケッチが添えられるようになった。


 けれど最近は本より、キット様の手紙を読み返していることが多い。


 手紙を開く度に、ふわりとあの香りが立ち上る。洗練された香りだと思う。キット様は、こんな香りを纏うような、私よりずっと年上の大人の男性なのだ。


 どんな人だろうかと何度も想像した。それは雲のようにふわふわとぼんやりとしているのに、確かに私の心を占めている。


 髪はそう、さらりとした癖のない黒髪で。若い頃から鍛えた引き締まった長身に、貴族の盛装がとても似合うはずだ。口元には整えられた立派な髭があって、笑うときゅっと目尻に皺が寄る。瞳の色はあたたかみのある橄欖色(オリーブグリーン)がいい。


『キャロル』


 きっと低くて響きのある声をしている。お腹の底を攫っていくような中低音(バリトン)に名前を呼ばれたら、どれだけ心が躍るだろう。


「なに、それ」


 楽しい夢を終わらせたのは、ざらりとした青年の声だった。


 いつの間にか、向かいの椅子にクリスが座っている。長い足を無造作に組んでいる。

 そこだけまるで絵画のように、世界がきらめいている。


「全部聞こえてるけど」


 けれど晴れた日の空のような青い目は、今やごみくずでもみるように眇められて、私を捉えていた。


「い、いつの間にいたの、クリス!!!」

「ずっと年上の、さらっとした黒髪の背の高い人がいい、の辺りから」


 なんということでしょう。心の声が全部口から出ていたとは。

 到底人には話せるはずもない妄想を、よりにもよってこの幼馴染の前で垂れ流しにしてしまった。


「これはね、クリス。つまり、その」


「つまり文通相手に相当入れ込んでるんだ、へえ」


 頬杖をついてぎろりとこちらを見遣る。ぐっと、眉間のところが険しくなるのは機嫌の悪い時のクリスの癖だ。


「入れ込んでるというか、なんというか」

「あんたさ、それで相手がチビで禿げで腹の出た中年親父だったらどうするの?」

「それは……」


 一ミリも考えなかったと言えば、嘘になるけれど。


「手紙なんて何とでも書けるだろ。その容姿なら結婚してない方がおかしいし、なんなら本当に貴族かどうかも怪しいな」


 少しウェーブのかかった銀髪を掻き上げて、クリスは言う。


「あの字はきっと、貴族の字よ。そう、多分爵位は侯爵だわ!」


「そこまで言い切る根拠は。まさか見た感じでなんとなくとか言わないよな?」


 鋭い反論にぐぬぬ、と私は押し黙る。あんなに大人しかったのに、いつの間にこんなに口が立つようになったんだろう。最近私はクリスに口喧嘩で勝てたことがない。


「それは、あれだ、女の勘ってやつだよ!!」


 苦し紛れにそう言ったら、怜悧な相貌が曇った。


「はあ、本気で言ってんの? ばかじゃないのか」

「そりゃあ、クリスには女の勘は分からないよね! 女の子じゃないし」


 珍しく何も言い返してこない。これ幸いとばかりに畳みかけてみる。


「とにかく、キット様は素敵なおじ様なの! 絶対に、そうだよ」


 澄んだきれいな目が、さざ波のように揺れる。そのまま、彼はぷいっと顔を背けた。


「……なんだよ、人の気も知らないで」


 ひどく翳のある声だった。整った顔がふいに、迷子の少年のように見えてくる。

 どうしてそんなに悲しそうにするのだろう。


 彼はすっと椅子から立ちあがった。


「どんなに好きだと思ったって理想通りの相手じゃなかったら、あんただってきっと幻滅するんだろう」


 突き刺さるような青い目が、ひどく高いところから私を見下ろしてくる。白い頬は陶器のようになめらかで、髭の一つも見当たらない。


「クリス?」


 それ以上、クリスは何も言ってはくれなくて。そのまま、彼は部屋を出て行った。


 そういえば、何しに来たのかを聞いていなかったことに私はその時やっと気が付いた。エステル様の付き添いでもないのに、クリスはなぜうちにやって来たのだろう。






 事実だけを挙げれば、クリスは人の家に勝手に上がり込んで勝手に帰っただけである。


 気にすることなんて何も無いと思うのに、あの顔が頭から離れなかった。とてもひどいことをしてしまった気になってくる。ずっと頭に焼き付いたようになって、離れない。


 こんな時こそキット様に相談しようかと思ったけれど、頼みの綱の手紙ももう三通を使い切ってしまった。エステル様に追加の分を頼むのは気が引ける。


 私は自室に戻ってただ机に座った。ここから一番よく見える壁に絵が飾ってある。


 窓枠に切り取られた湖水地方の景色。

 澄んだ水面はクリスの瞳の色によく似ている。さらりと記された読めないサイン。


 まだ両親が健在だった頃、ラザフォード家所有の別荘に行った時のものだ。


 今は殺しても死ななそうな顔をしているあの幼馴染も、昔は体が弱くてしょっちゅうけほけほ言っていた。療養している息子の遊び相手にと、エステル様は仲がいい私の母に声を掛けたらしい。


 はじめて会った時、クリスはエステル様の服をぎゅっと掴んでその背中に隠れていた。日にあまり当たらないせいで抜ける様に色が白くて、本当に妖精のようだった。あの頃はまだ、私の方が彼より背が高かった。


『僕のことなんか気にしないで遊びに行けばいいのに』


 色素が薄くて儚げで、ときおりはにかんで寂しそうに笑う。目を離せばふっとどこかに消えてしまいそうな、そんな男の子だった。


 調子がいい日、クリスはよく、窓から見える景色を絵に描いていた。私は付き纏うように隣に座って、彼が左手に持った鉛筆がさらさらと世界を描き上げていくのをずっと見ていて。


『クリスは魔法使いみたいだね』


 そう言うと、青い目に膜が張ったようになった。


 空いている方の手がこちらに伸ばされて、ぺたりと頬に触れる。真ん丸になったその目の中心に私だけが映っていた。何かを確かめるようにゆっくりと瞬きをする。


 時が止まったかのようにただ、じっと見つめ合った。すごく長い時間だったように思うけれど、多分きっと一瞬のことだったんだと思う。


『そんなに言うなら、キャロにあげる』


 ふと何かに気づいたかのように彼は画用紙の右下にサインのようなものを書き添えた。それから、クリスははじめて満面の笑みを浮かべたのだ。


 私も絵が描けたのなら、きっとあの笑顔を描くだろう。サインをどんな風に読むのだろうと悩む私を尻目に、彼は珍しく誇らしげだった。


 描けない代わりに私は、時折それを心の奥底から汲み上げて、思い出す。


 クリスもライナスと同じ貴族学校に入ったから、自然と会うことは少なくなった。

 たまの休みの時に会う彼はだんだん素っ気なくなった。


『これぐらいどうってことないだろ、キャロライン』


 はじめてクリスにそう呼ばれた時のことを、今も覚えている。

 

 ずっと家族やエステル様は“キャロ”と呼んでくれていて、私にとってそれは親しい間柄の証明のようなものだったのに。すっと線引きされたような、彼が遠くに行ってしまったような気がした。


 そして現在に至る。未だに、彼は他人行儀に私のことをキャロラインと呼ぶ。


『ねえ、いつか私の絵を描いてくれる?』

『いいけど、もう少し上手になってからね』


 そんな約束をしたこともあったけれど、彼はまだ絵を描くのだろうか。あの青い目に何が映っていたのか、私はどんな風に見えたのか。知りたいと思っても、今はもう知る方法はない。


 ぼんやりと絵を眺めていたら、文通屋の配達員の人が我が家に向かってやってくるのが見えた。

 おかしい。まだキット様には返事を書いていないのに。


「お相手の方からです」

 配達員が差し出してきたのは、あの白い封筒だった。


『出すぎたことかもしれないが、もし、私ともう少しやり取りをしたいと思ってくれるのなら、これを使って欲しい。貴女は私の世界に彩りを与えてくれる』


 もはや見慣れたと言っていい、流れるような筆致で、そう一言書かれていた。


 まるで私が手紙を出したくなるのを見透かしていたように。つまりこの追加の分の封筒の代金はキット様が払ってくれたのだろう。


 歳を重ねれば、私もこんなことが出来るようになるのだろうか。


 子供じみた喧嘩をしてしまった後に、お手本のような大人の男性の気遣いは、なんだかひどく沁みるような気がした。


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