29.はじめて会った日
母が、私の手を引いてくれている。まるで霞がかかっているかのように、視界の全てがどこかぼんやりとしている。
ゆったりとした服を着たエステル様が椅子に腰かけている。私と母の姿を認めると、彼女はぱっと満面の笑みを浮かべた。
『久しぶり、アリシア、キャロ!』
そう言うのは間違いなくエステル様に違いないのに、なんだがひどく若々しい。
いや、エステル様は今も少女のようではあるけれど。
『調子はどう、エステル』
『すこぶる元気よ! ずっと蹴られてるわ。これは絶対男の子ね!!』
『そっか。ならよかった』
母は安心したように笑い、向かいの席に座る。その隣に私も座らせてもらって、二人が話をするのを聞いていた。
『生まれるのはいつ頃?』
『うーん、予定通りなら三月の終わり頃かな。キャロとはちょうど、四歳差になるわね』
視界の端で、宙に浮いた自分の足がぶらぶらとしている。どうやらちょっと退屈らしい。
椅子からぴょんと飛び降りたかと思うと、私はエステル様の元へとぱたぱたと寄っていく。
ぺたりと、小さな手がエステル様のお腹に触れた。そのまま、私は不思議そうに首を傾げる。
『なにがはいっているの?』
そう言った声の幼さに驚く。
ああ、そうか。これは昔の記憶だ。だからなんだか見える世界の目線が低いし、母もエステル様も若いのだ。
『ここにはね、私の宝物が入っているの』
にこりと微笑んだエステル様が言った。
『たからもの』
確かめるように、小さな私が返す。
『そう、宝物。キャロも昔そうだったんだよ』
『そうなんだ』
そう応えてはみたものの、まだ意味がよく分かっていないのだろう。
『いっしょにあそべないの、つまらない』
幼い私はぷいっと、そっぽを向いた。
『大丈夫。もう少しすれば一緒に遊べるようになるわ』
『ほんとう?』
『本当よ。そのうち、キャロより大きくなるかもしれないわ』
なんだか含みのある笑顔でエステル様は終始にこにことしていた。思えばもうこの頃から、クリスと会わせる計画を立てていたのかもしれない。
『だったら、いますぐでてきてくれればいいのに』
『キャロライン!』
叱責にも似た母の声が飛ぶ。事が事だけに、この言い方はあまりよくないだろう。早産を願うだなんて、縁起でもない。
動揺した母を、静かに首を振るだけでエステル様は制した。
『そうね。わたしも早く会いたいってずっと思ってるわ』
慈しむように、エステル様は膨らんだお腹を撫でた。そして、少し身を屈めて小さな私と目を合わせた。
『でも、色々と準備が必要らしいの。キャロも頑張っている時に急かされると困るでしょう?』
『うん、やだ』
『だから、もう少し待ってあげて。遅くなって悪いって、きっとこの子も思ってるから』
『わかった』
小さな私は頷いて、もう一度エステル様のお腹に手を伸ばした。
『いそいで、ゆっくりきてね』
さっきのエステル様の真似をして、ゆっくりとお腹を撫でる。
『わたし、まってるから』
いくらかぎこちない手つきで、何度も何度も、私はそうしていた。
「……ん」
「おはよう、キャロ」
ゆっくりと目を開けたら、深い湖の底のような青がすぐそこにあった。
「きゃっ」
美形というのは、寝ぼけた頭で至近距離で見るものではないと思う。きっと心を落ち着けて、ちょっと遠くから見るものだ。
鼻先で長い銀色の睫毛が揺れている。
距離を取ろうとしても、背中に回った手がそれを許さない。この腕は存外に力強いのだ。もう一度、その胸に抱き込まれた。
「何もそんなに驚くことないだろ」
引っ付いた内側からクリスの声が響く。どこか拗ねたような声が、無性に彼らしい。
「うん、ごめんね」
腕の中から見上げれば、クリスはバツが悪そうに目を逸らした。
「一応聞くけど、寝たら何があったか忘れたとか言わないよね?」
窺うように、頭の上から声がした。
クリスが私のことを好きだと言ってくれた。
私も、彼のことを好きだと言えた。
離れがたくて、ずっと抱きしめられているままだった。クリスも口数は多くなかったけれど、ただそばにいたかった。
そうして、あたたかな体温に包まれたまま、私は眠ってしまったらしい。
「ちゃんと覚えてるよ」
やっと思いが通じたのだ。忘れることなんて、できない。
「ならいいや」
きゅっと自分の手首を握りしめたら、不思議と指先に何か触れた。
見れば、左手首に見慣れぬ輝きがある。
「きれい……」
真珠と蒼玉を交互に組み合わせたブレスレットだ。
どちらも大振りのものではないけれど、繊細な煌めきがある。繋ぐ鎖は銀。
「指輪でもネックレスでも、おれはなんでもよかったんだけど」
得意げにクリスは言った。
「手元が目に入ると元気になるんだろ」
キット様からの手紙に、私は確かにそう返した。
そしてこれは、眼前の男が纏う色とひどく似ている。思えばずっと、クリスはキット様の時から私の願いを叶えてくれていた。
「大事にするね」
ぎゅっと広い背に手を回したら、返事の代わりに頭に手が触れた。
「クリスとはじめて会った日の夢を見たよ」
私の茶色の髪を撫でながら、クリスは静かに呟く。
「ああ。別荘にキャロが来た日のことか」
「ううん。それより、もう少し前」
私もずっと、あの日が最初だと思っていた。人見知りで、儚げで、妖精みたいな小さなクリス。
だけど、あったのだ。もっと前、私は彼に出会っている。
「おれが覚えてないぐらい、小さい頃ってこと?」
正確には覚えていないというか、知る方法もない頃だけれど。
これは彼の知らない、私だけの思い出だ。
「私ね、ずっとあなたを待ってたの」
甘えるようにその手に頭を預けたら、クリスははっとしたように息を飲んだ。
そうだ、何もクリスだけが待っていたわけではない。
クリスが生まれる前から、私は彼を待っていた。
「それは、そうだな……」
抱きしめる腕の力が、少しだけ強くなる。気遣うように、それでいて確かめるように。
私がずっと待っていた、大好きな四つ年下の幼馴染。
「その、お待たせしました」
クリスが私の肩に頭を乗せて申し訳なさそうに小声で言う。その様がどうしようもないほどに愛おしい。
――遅くなって悪いって、きっとこの子も思ってるから。
本当だ。エステル様の言った通りだ。
回り道を沢山したのかもしれないけれど、これからはずっと、そばにいたいから。
ふわりとした銀色の頭を掻き抱いて、私はぎゅっと抱きしめた。




