27.飲み込んだ石
『クリスじゃないなら、誰でもいい』
そう言った彼女の声が頭から離れない。
紫の瞳は、僕を真っ直ぐに射抜くように見た。思わず強く掴んでしまった肩の感触が、まだこの手に残っているような気がする。
キャロラインはオースティン卿と婚約するらしい。
噂によれば、彼は叔父の事業に対して、目も眩むような額の援助を申し出たらしい。
僕も一応手を挙げるだけは挙げていたが、それほどの好条件を示せたとは思えない。
キットに対しても、手紙の返事は来ない。目の前に本物の素敵なおじ様が現れたのだから、紙の上の偽物になんてもう用はないのかもしれない。
机の上には、借りたままの本が積まれている。『花咲く丘の二人』の四巻から九巻だ。それがまるで僕と彼女を結ぶ最後の糸のように思えた。
未練がましくページをめくっていたら、活字が少しずつ意味を成してきた。最初はキャロラインと話を合わせたくて読み始めたけれど、この話には引き込まれるものがある。十巻まで出ているのも納得できる出来だ。
ジェシカは何かにつけてロイのことを考えている。それが僕には少し、いや大分羨ましかった。
『あんたは、』
書斎で、本当はキャロラインに聞いてみたかった。同じように、離れている間僕のことを思い出したりしたのかと。
ただ、このロイという男のことが僕はちっとも好きになれない。
どこからどう見てもヒロインのジェシカが彼を好きなのは明白なのに、全体的に繊細すぎる。
延々とうじうじと悩んでいるのだ。挙句の果てに、彼女は他の男を好きなんだと思い込んで勝手に旅に出始める。その結果あろうことか、一番大切なはずのジェシカのことだけを忘れてしまう。
八巻の彼の独白にこんなものがある。故郷とよく似た色の海を前にした彼は思う。
“ぼくが飲み込んだ思いは一体どこへ行くのだろう。いつか深い海の底で真珠になれるだろうか。そうすれば、彼女はそれを見つけて拾い上げてくれるだろうか。”
ばかばかしい。そんな都合のいいことが起きるのなら、みんなこぞって飲み込むだろう。さっさと潔く告白して結婚しないからそうなるんだ。
本を読んでいる間は、現実を見つめずに済んだ。けれど、一たび本を閉じてしまえば事実は変わりなくそこに横たわっている。
飲み込んだ思いはどこにも行かない。正しくは、行けない。それはただ石のように腹に溜まっていくだけだ。
その分だけ体は重く冷たくなって、どんどん動けなくなっていく。
『なにって、大事な幼馴染だよ』
そう言って、キャロラインは笑った。
例えば、きらいだと言われた方がよっぽどよかった。罵られてもいい。あんな顔で笑うキャロラインを見るぐらいなら、何だってよかった。
天井を仰いで考える。
ロイに見えた世界はどんなものだったのだろう。一番好きな人のいない世界は一体、どんな色をしているのだろう。僕には想像もつかない。
何を好きになるかが運命だと、アリシア様は言った。
――これを手放せば楽になれるって思っても、手放せるものでもないでしょう?
まったくもって、その通りだ。
石は何に還ることもなく、朽ちることもなく、ただこの身の内にある。
いっそ忘れることができたらよかったのに。
「忘れる方法があるのなら、誰か教えてくれよ」
僕は未だにずっと、みっともないぐらいにキャロラインのことが好きなのだ。
*
夜会でオースティン卿と連れ立って歩くキャロラインを見た。紺色のドレスは星の欠片でも散りばめたように眩く美しい。
まるで知らない女のようだった。
人々の視線を一身に集めて、彼女ははにかんだように笑っていた。少し憂いを帯びたその様を、視界の端に留め置くようにこっそりと盗み見た。
直視してしまったらもう、焼き付けられたように剝がせないから。
僕が夢にも思わなかったドレスの意匠だった。いっそ潔いほどのシンプルさだが、貧相には見えないのは圧倒的に質のいいものを使っているからだ。それが洗練された装いとなって、キャロラインの良さを最大限引き出している。
自分が選んだものに後悔があるわけではない。あのピンクのドレスはキャロラインによく似合っていた。けれど、飾り立てるしか能がなかった己の未熟さをまざまざと見せつけられた気がした。
場数を踏んだオースティン卿には遠く及ぶわけもない。
何もする気が起きなかった。魂が抜けたようにぼんやりと過ごす僕に対して母は何か言いたげだったけれど、いつものようにずけずけとぶつけてくることはなかった。それほど哀れに見えたのかもしれない。
「ん? なんだこれ……」
九巻の外函から似つかわしくない薄黄色の紙が覗いていた。この本は全体的にシックな装丁だから、そこだけまるで光っているかのように見える。
取り出してみれば、それは便箋だった。
この本はキャロラインから借りたものだから、これを書いたのもおそらく彼女ということになる。
誰かが誰かに当てた手紙だなんて、盗み見るものじゃない。そう分かっているのに、開いてしまった。
そして飛び込んできた文字に思わず息を飲んだ。
『親愛なるクリストファー様』
他ならぬ僕の名前だった。
けれど、少し違和感がある。キャロラインの字には違いないのだが、ところどころぎこちないところがあった。
文箱に保管してある手紙を開く。これはキット宛てのものだ。隣に並べると、クリストファー宛てのものは明らかに幼い。
罪悪感が全くないわけではない。けれど、これは僕に宛てたものだから、僕が読んでも許されるだろう。
『昨日、十六歳になりました。次の夜会ではデビュタントを務めることになります。正直ちょっと怖いです。クリスと一緒に行ければよかったのに、と思いました』
次の便箋を開く。
『もらった絵を部屋に飾っています。また湖に行きたいです』
十六歳の彼女の素直な心の内が訥々と綴られていた。どこを見ても、僕のことばかり書かれていた。まるであの鈴が鳴るような声で読み上げられているような気がした。
沢山の言葉が、光の雨のように、僕の下に振りそそぐ。
「なん、だよ……」
読めばすぐに分かった。キャロラインが僕のことをどんな風に思っていたのか。
『クリスはすごく背が伸びましたね。どんどんかっこよくなっていって、私のことなんて置いて行ってしまうんでしょうか。いつか私なんかよりもっと可愛い恋人ができるのかもしれません』
「そんなことあるわけないだろ。ばかじゃないのか」
口にしてから気づく。
ああ、これはキャロラインが飲み込んだ石だ。
『こんなことばかり考えても何にもならないのに』
世界でここにしかいない、僕より年下のキャロライン。
どうして気づいてやれなかったんだろう。
「ばかなのは、おれの方か」
どうしようもできなくなって、髪を掴んで項垂れた。
運命は選ぶものだとも、アリシア様は言った。それは多分、正しい。
けれど、それは選べる環境にある時だ。
親を失って、なんの後ろ盾もなくなったキャロラインはずっと自分を抑えてきた。色んなものを諦めて、手放して、それでも彼女は笑っていた。
誰にも見せなかった、あいつが水底に沈めた石。隠れて机の下で泣いている彼女。
「何にもならないだなんて、そんなことがあってたまるか」
キャロラインを、迎えに行かなければならない。
オースティン卿にも、キットにもそれはできない。
これは、クリストファーにしかできないことだ。
あんたが飲み込んだ石を僕が真珠に変えてみせる。
閉じた窓をもう一度、開けてみせるから。




