26.春の湖
こうなったらもう、やけである。
彼女が望むのなら、大人の男のフリをしてやろう。そう思った。僕は努めて紳士のフリをして、手紙を返し続けた。
キットを演じていれば、クリストファーにはできないことが容易くできた。
好きな小説を訊ねることも、欲しいプレゼントを相談することも。
そして、キャロラインのためにドレスを仕立てることも。
その全てがどうしようもなく心が躍ることに違いないのに、同じぐらいまた悲しくなった。
本当は、僕としてキャロラインにドレスを選びたかった。けれど、キャロラインは決して首を縦には振ってくれなかった。
『これ以上迷惑かけたくないよ』
迷惑だなんて思ったことは一度もない。むしろいくらでも頼ってほしかった。
『家族からお金なんか取れないよ』
ならば、家族とは一体なんなのだろう。
キャロラインにお針子の真似事をさせて平然とした顔をしている叔父夫婦なんかよりも、僕の方がよっぽど彼女のことを大切にできる。そのはずなのに。
やっぱり年下の男なんかには頼れないとでも言いたかったのだろうか。
そんなことばかり考えながら、僕は仕立て屋に向かった。
「ノワール」は令嬢の間で人気があると評判で、確かに意匠ひとつひとつのセンスが良かった。どれもこれもキャロラインに似合いそうだ。
「どのようなドレスをご所望ですか」
「どのような……」
何度も何度も、想像した。果たしてどんなものならば、キャロラインに似合うのだろう。
ふと頭に浮かんだのは、昔彼女と行った湖の景色だった。
「春の、湖……」
するりと言葉が出てきてしまったら、あとはもう止まらなかった。
「あんまり強い色は、似合わないかなって、思います。できれば暖色系の色がいい。あいつの良さをめいいっぱい引き出してやれるような」
やわらかに萌えた緑。ふわりと咲いた赤やピンクや黄色の、僕が名前も知らない花々は、決して華美ではないけれど可憐で愛らしい。
豊かな水を湛える湖は、澄んだ水色。
その中心にキャロラインがいて、くるりとスカートを翻したかと思えば、にこりと微笑む。
その全てにあたたかな春の陽が差し込んで、きらきらと輝くのだ。
「そんなドレスなら、似合うかなって」
自分で言ってしまってから、はっとした。
僕は羞恥で思わず視界の端の銀の前髪を掴んだ。我ながら感傷的が過ぎる。
ああ、きっとひどい子供の妄想だと思われた。
ドレスに必要なのは僕の思い入れではなく、もっと別の何かだ。
マダム=ローランは社交界の作法に精通した大人の女性だから、鼻で笑われるに違いない。こういうところがどうも、まだ直らない。
「いえ、忘れてください。今の流行りを考えるとやはり」
「素敵ですね」
言い訳がましい僕の言葉を遮ったのは凛とした声だった。侮蔑も嘲りも含まれていない静かな顔をして、マダム=ローランは続ける。
「一からオーダーとなると次の夜会に間に合わせるのは難しいかと。お伺いしたイメージに合うものをいくつか選んで、そちらを手直しするのはいかがでしょう」
妄想をこの世に形作る、きわめて現実的な提案だけが返ってくる。
「分かりました。そちらでお願いします」
彼女が選んだものを何着か見て、厳選に厳選を重ねて五着まで絞った。気づけばもう、仕立て屋の大きな窓からオレンジ色の日が差し込んでいた。
きっとこんな色も、キャロラインには似合うだろうなと思った。
「すみません、時間がかかりましたね」
屋敷を出たのは昼過ぎだったはずだ。随分と時間が経ったはずなのに、一瞬だったような気がする。
「いえ。皆様悩まれるものですから」
さすがというべきか、店主のマダム=ローランは疲れを全く見せずに微笑んだ。控えていた針子が替えの紅茶を淹れてくれる。
「とても大切な方へのドレスなのですね」
僕が選んだドレスを見ながら、彼女は黒い目を細めた。
「そうですね。でも、おれが選んだということは内密にしてほしいんです」
僕はマダム=ローランにキャロラインにはそうと悟られずに彼女のドレスを仕立てたいということを、簡単に話した。
「承知いたしました」
こういったやり取りには慣れているのだろう。噂によれば、一人の男の愛人と本妻に同じドレスを作ったこともあるという。それに比べれば僕なんて、可愛いものだ。
「僭越ながら、クリストファー様」
見透かしたような目が、僕を見る。
「どんなにお心を尽くしていても、口にしなければ伝わらないものでございます」
マダム=ローランは妖艶に微笑む。
美人だがそれなりに年齢を重ねているのだろう。さすがに母上よりは年下だろうけど、幾つなのかを悟らせないような不思議な重みがある。
「そして女はいつも、何より言葉を求めるものですから」
「そう、ですかね」
それはおそらく真実なのだろう。僕よりもずっと彼女の方が、男女の機微に詳しいはずだ。
自分が書いた言葉が蘇る。
『貴女はとても美しい人だ』
手紙だと思えばこそ、素直に綴ることができた。僕にとっての一番はいつだって、キャロラインだ。
けれどこんなこと、どんな顔をして言えばいいのだろう。
そして伝えたとして、キャロラインはなんと返すだろう。いつものように、紫色の瞳に怪訝な色が浮かんで、少し首を傾げてきょとんとするに違いない。
それを思えば到底、口にできる気はしなかった。
夜会のための支度をしたキャロラインは、僕の想像を遥かに超えていた。
振り返れば、ゆるやかに巻き上げられた茶色の髪がふわりと揺れる。紫の目が僕を捉えて、所在なげにドレスのスカートをきゅっと掴む。
これは、困った。
どこからどう見ても最高に可愛い。もう少し気位の高そうな顔でもしていれば別だろうが、こんなやわらかな笑顔を向けられてしまっては、みんながみんなキャロラインの虜になってしまう。
現にここに、惚けてしまった僕がいる。
取れる手段はただ一つ。
今回は僕は母からキャロラインのエスコートを頼まれていた。
今夜、僕は彼女の手を引くことを許されている。こんなことがないと横に立てないのは非常に不本意ではあるけれど、この際理由はどうだっていい。
要は、周りに思わせられればいいのだ。
この場の誰より、僕が一番、キャロラインには相応しいと。僕らがともに在ることが当然だと。
『いい? 何があってもおれのそばから離れないで』
それが叶えばこれから先もずっと、彼女の隣にいられる。そんな気がした。
案の定、キャロラインは夜会で注目の的だった。誰も彼も、颯爽と夜会に現れた謎の令嬢に夢中だった。
自分の見立ての正しさに誇らしくなる一方で、絶対に気を抜いてはいけないと感じる。うっかりしていたら本当に、攫われかねない。
本当は王女とダンスを踊るのも嫌だった。第一僕はキャロラインと踊ったことすらないのだ。それなのに他の女と踊らないといけないだなんて不本意この上ない。
だからあんなに釘を刺して早々に戻ったのに、彼女はにこやかに他の男と談笑していた。
しかも相手がすこぶる悪い。よりにもよって、あのオースティン卿とは。
爵位は男爵位。親が金貸しか何かの新興貴族で、それなりの年だが確か一度も結婚していない。ただ商才はあるらしく何かの事業で堅実に儲けていると聞いたことがある。
加えて、あの甘めのマスクに低音の声だ。貴婦人方からは絶大な人気がある。
付いたあだ名は、“社交界随一の女誑し”。
彼は、僕にないものを全て持っている。キャロラインが想像した、『素敵なおじ様』そのものだ。身長すら敵わない。
こんな些細なことで焦ってしまう自分が嫌になる。こんなのだからいつまで経っても弟扱いなのだと、頭では分かっている。けれど、だからといって抑えられるものでもない。
キャロラインの手からワイングラスを取り上げたところまでは鮮明に覚えている。そこから先は、どこか夢の中の出来事のように霞がかっているのだ。
抱き上げたキャロラインは驚くほど軽かった。
『重たく、ない……?』
恐々と肩に置いてきた手の小ささにはっとしたら、もう顔をまともに見られなくなった。
キャロラインの美しさはもう、社交界に知れ渡ってしまった。このまま彼女を攫って、どこか遠くにでも行ってしまえればいいのに。
もはや一刻の猶予もない。
明日にでも、キャロラインに結婚を申し込もう。僕はそう思っていた。




