25.埋まらない差
けれど年齢というのは非情だ。
人は皆、一年にひとつ年を取る。裏を返せば、ひとつしか年を取ることができない。
僕が進んだ分だけ、キャロラインも進む。学校は飛び級で入ることができたが、どれだけ願っても、四つの年の差は埋まらない。これはもう、どうしようもないことだった。
仕方がないので僕はまず、身長が伸びることを祈った。
物の本によると、「バランスのよい栄養をとり、充分な睡眠時間を確保すること」とあった。だから、寮の食堂で出される大して美味しくもない食事を毎回完食した。好き嫌いの多い僕にとってなかなかの苦行ではあったけれど、背に腹は代えられなかった。
そして、夜な夜な賭けポーカーやチェスに興じる同級生を尻目に、僕は清く正しくベッドに潜り込んだ。
その甲斐あって、これは叶った。無事、キャロラインの身長を追い越すことに成功した。惚れた女より背が低いなんて目も当てられない。僕はほっと胸をなでおろした。
『すっごい背が伸びたね』
きらきらと輝く紫色の目が、見上げてきた時の感動といえばもう、言葉にならない。
身長差を測るように少し背伸びをして、白い手が僕の頭の上に伸びてくる。
『これぐらいどうってことないだろ、キャロライン』
ついでに僕は、キャロラインのことを“キャロ”と愛称で呼ぶのをやめた。
なんだか変に馴れ馴れしくて、子供っぽい響きに聞こえたからだ。ちゃんと名前を呼ぶ方がいくらか大人っぽく見える、そんな気がした。
彼女の踵がすとんと地面につく。不思議なものでも見るように、キャロラインは二回瞬きした。
『クリス……』
今にも髪に触れると思った手が、すっと下ろされた。
『なに』
『ううん、なんでもないんだ』
肩を落とした彼女は明るい声で続けた。
『ほんと、見違えたよ。これからもっと背が伸びていっちゃうのかな』
そのつもりだった。僕の予定ではあと十センチは伸びて、キャロラインを軽々と抱き上げられるような長身になる、はずだ。
『そしたらもう』
続く言葉をキャロラインは飲み込んで、笑った。その笑顔がやけに悲しそうに見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。
そうこうしているうちに、僕が夢にまで見た十八歳を迎える日が来た。
ありとあらゆる準備をしてきたつもりだった。体も鍛えたし、侯爵たる父の仕事の手伝いだって十分にこなした。人付き合いは得意ではないけれど、社交にも手を抜かなかった。
今の僕にはもう、ひ弱な面影はどこにもない。
ちなみにこの歳になっても髭はほとんど生えなかった。体質らしい。もう少し貫禄が出るかと思ったのに、残念なことこの上ない。
これでやっと彼女に堂々と結婚を申し込むことができる、そう思っていたのに。
あろうことか、キャロラインは結婚相手を探して文通をはじめるという。まあ、事の発端は残念ながら我が母だったけれど。
長い付き合いだが、僕はキャロラインから手紙をもらったことはない。寮にいる間も、一度もだ。
『それを言うならキャロラインはもう、立派な行き遅れですよ』
なんだか無性にいらいらして、また心にもないことが口から出てきた。
家のことがあったからなのか、彼女が夜会に出席する回数は多くはなかった。キャロラインに誰も寄ってこないとしたら、夜会に出席している全ての男の目が節穴ということである。声を大にしてみんな気付けと言いたい。
けれど、そうやってキャロラインが見出されてしまったらどうだろう。僕は最愛の人が誰かの妻になるのを祝福しなければならない。だから、夜会の度に「誰にも見つかりませんように」と願わずにはいられなかった。
キャロラインはふわりと微笑むだけで、何も言い返してこなかった。
いつからだろう。こんな風になったのは。
あんなに明るかったキャロラインは、とてもおとなしくなった。
年相応に落ち着いたといえば、そうなのかもしれない。けれど、もう随分と笑った彼女を見ていない気がする。
いや、笑ってはいるのだ。でもそれは僕が好きなキャロラインの笑顔じゃない。何かを諦めて、手放した笑みだった。
明るい陽が差し込むはずの窓にはもうずっと、分厚いカーテンがかかっている。
その向こうで、小さなキャロラインは机の下に隠れて泣いている。
そんな気がしてならないのだ。
*
キャロラインが申し込んだ文通屋には、裏がある。
相応の金を積めば、望んだ相手と文通することができるのだ。僕はそれを、社交界の噂で聞いて知っていた。理想の文通相手が見つかるというからくりの一つはそれにある。
ただし、その手が使えるのは一度きり。気に入らないからと交代させられてしまったらもう、打つ手がない。
僕は文通屋で、キャロラインを相手に指名した。
一番きれいに見える便箋を選んで、文字を綴った。こんなことを想定していたわけではないけれど、それなりの字が書けるようになっていてよかった。
この一通で、彼女の興味を惹かなければならないのだ。思いつくことは、全部やった。我ながら格好付けすぎてどうかと思ったけれど、手段を選んでいられるほど僕はおめでたい身分ではなかったから。
返事はすぐに来た。
そういえば、キャロラインの字をちゃんと見るのはこれがはじめてだった。少しだけ右上がりで、一文字ずつ丁寧に書かれていることが見て取れる。丸みを帯びた文字は、彼女自身を象徴しているようだった。
色んな邪な思いがあったことは確かだけど、文通をするのは純粋に楽しかった。
届いた手紙を、僕は何回も読み返した。
本当は沢山あったのだ。聞きたかったことも、話したかったことも。僕のスケッチも、素敵だとキャロラインは褒めてくれた。久しぶりに、あの頃のように彼女のそばにいられた気がした。
実を言えば、少しだけ期待もしていた。
キャロラインが相手が僕だと気づいてくれることを。
しかしながら、そこは揺るぎなく彼女のままだった。
『うんと年上の、さらっとした黒髪で髭の似合うおじ様だったらいいなぁ』
うっとりと夢見るように天井を見つめ、キャロラインはそう言った。
目の前に癖毛で銀髪の僕がいるのにも関わらず、である。目の色まで一つも一致しなかった。
そしてそれは、僕がかつて思い描いた、彼女の隣に立つ男の姿にひどく似ている。
『はあ、本気で言ってんの? ばかじゃないのか』
気持ちをどこに持っていけばいいのか分からなかった。
キャロラインが文通をしているのは、僕である。その白い手の中にある便箋を書いたのは間違いなくこの僕だ。
想像の中の運命の人ではなく、現実に存在してキャロラインのことを想っている僕のことを見て欲しかった。
けれど、彼女が見ているのは僕ではないのだ。それはまるで影のように、歪に長く伸びている。
結局僕は、どうやっても大人の男に敵わないのか。
そう思うとたまらなく胸が苦しくなったのだ。




