24.何を好きになるか
『久しぶり、クリス!』
休みに帰った時に会うキャロラインは、びっくりするほど変わらなかった。
いや、変わってはいる。記憶の中のよりも、僕が絵に描いたそれよりも、目の前の彼女は可憐だった。少し伸びた髪を緩やかにまとめていて、覗く項の白さに、どうしようもなくどきどきした。
けれど、その態度はちっとも変わらないのだ。
『ねえ、今は何を描いてるの?』
僕が絵を描いていると、後ろから抱き着くようにして覗き込んでくる。
そうして触れる、やわらかな膨らみと甘い香り。一瞬で顔に血が上って、何も考えられなくなった。
『い、いきなり見ないでくれる?』
僕が必死で距離を取ると、キャロラインは丸い頬を膨らませた。
『前は見せてくれたのに。クリスのいじわる』
そこで僕はやっと気が付いた。
キャロラインには、僕より六つ年下の弟、ライナスがいる。彼女はよく、ライナスを膝に乗せたり頭を撫でたりしていた。
僕の扱いはライナスと同じなのだ。だからやたらと距離が近い。
つまり、ちっとも意識されていないのだ。同室の彼は「相手にされなくなる」と言ったが、それ以前の問題だった。
旦那様だなんて程遠い。キャロラインにとって僕は、恋愛対象でもないだろう。
つまり僕は早急に、“大人”にならなければならない。
僕がずっと好きだったのに。ずっと、彼女だけを見てきたのに。
そうしないと、何もできないままに、キャロラインは見知らぬぽっと出の誰かの妻になってしまう。
僕は、内心結構焦っていた。
キャロラインは十六歳になってデビュタントを迎えた。僕は十二歳になったが何も変わらない。毎日朝から晩まで学校で授業を受けて、時折家に帰ってくるばかりだった。
その頃、母とアリシア様――キャロラインの母上が話しているのを盗み聞きしてしまったことがある。
『ねえ、アリシア。あの二人、いい感じじゃない?』
『どこの二人?』
『しらばっくれないでよ。うちのクリスとあなたのところのキャロよ』
そんなつもりはなかったのに、自分達のことを話していると分かると聞き耳を立ててしまうのをやめられなかった。
『そうだね。仲がいいとは思うよ』
よかった。どうやら印象は悪くないようだ。貴族の結婚において、親の決定は絶対である。
それこそ本人の意思よりも尊重されるほどに。
『だったらもういっそのこと、婚約させちゃわない?』
心の中でガッツポーズをした。
天真爛漫を通り越してどうかしていると思うことも多い母ながら、この時ばかりはいい仕事をしてくれたと最大級の拍手を送った。
キャロラインと婚約することができれば、大団円である。もうこんなもどかしい思いをしなくていい。僕はただ、成人するのを待っているだけで大好きな人の隣に並ぶことができるのだから。
いいぞ、もっとやれと僕は思っていた。
『それは、どうかな』
アリシア様はゆっくりと答えた。
『え、何。反対なの? わたし達だって親戚になれるし、いいこと尽くしじゃない?』
母が椅子から立ち上がって身を乗り出しているのが目に見えるようだった。
『エステルはさ、運命ってなんだと思う?』
唐突にアリシア様は母にそんなことを問うた。
『なんだろ……なんかこう、天から降ってくるとか、赤い糸とか、そういうのじゃないかしら』
我が母らしい、なんとも掴み所のないぼんやりした返事だった。
『私はね、何を好きになるか、だと思うんだ』
対して、アリシア様は凛とした声でそう言った。
『これを好きになれば幸せになれるって思っても、好きになれるとは限らないし。逆に、これを手放せば楽になれるって思っても、手放せるものでもないでしょう?』
キャロラインはどちらかというと彼女の父親に似ていて、おっとりした質だ。
アリシア様はそれとは違って、少し近寄り難い雰囲気があった。どうしてうちのあの母親と仲がいいのか疑問が湧くほどに。
そんなアリシア様の言葉はひどく説得力があった。
『クリス君もキャロも、まだ子供だからこれからきっと色んな人と出会うよ。他の人を好きになるかもしれない。その時に足枷になっちゃうのは、やだよ』
キャロラインが、他の人を好きになる。
それはショックではあったけれど、不思議とすとんと落ちてきた。
『だから、私達が何か決めるのはやめにしよう? 私達は私達、二人は二人だよ。そっと見守るだけにして、あとは本人達の自由に任せようよ』
言い含められた母が、椅子に大人しく椅子に座り直す気配がした。
『それは、そうね……』
『もし大人になった二人が本当の好き同士になれたら、それはすごく素敵なことだと思うから』
同時に自由というのは残酷だと思った。
けれどだからこそ、僕はキャロラインを好きになることができたのだ。誰に強制されることもなく、僕だけの意思で。
もしもキャロラインが、他の誰でもない彼女自身の意思で、同じように僕のことを選んでくれたら。
それはどんな宝石よりも尊く、素晴らしいもののように思えた。
キャロラインの両親が亡くなったのはそのすぐ後だった。
葬儀の時の彼女は見ていられなかった。
涙を流すこともなく、ライナスの隣で気丈に顔を上げていた。状況を飲み込めない弟と違って、彼女のそれは痛々しいほどだった。
葬儀の後、スタインズの屋敷で僕はキャロラインを探した。辺りを見回しても姿は見当たらない。
机の下に隠れるようにして、彼女は泣いていた。
いつも明るいキャロラインのそんな顔を見たのははじめてだった。
『ずっと今日のままでいられたらいいのに』
そう言って、キャロラインは抱き着いてきた。震える背中に触れれば、いやでも伝わってくる。両親を亡くした彼女の悲しみも不安も。
四つ年上とはいえ、キャロラインも子供だった。どうしようもない現実の前に、僕らは等しく無力だった。
『怖いのなら、僕が幸せな明日を祈るよ』
僕は、同じように小さな手を握ってそう言うことしかできなかった。
ああ、やっぱり僕は大人にならなければならない。
大人になれば、彼女の手を引いて、守ることができる。
キャロラインがもう泣かないですむように。
安心して、明日を望むことができるように。
僕は一刻も早く、大人の男になりたかった。




