23.世界の美しさ
例えるならば、彼女は僕にとって、“窓”だった。
明るい陽射しが差して、さわやかな風が入り込んでくる。そんな窓だ。
自分が閉じた人間だということには、早々に気づいていた。一人でいることが全く苦にならない、むしろ誰かといることが苦痛になるタイプだ。両親もおおらかな人なので(母に関してはおおらかを通り越していると時々思うけれど)、僕はのびのびと孤独を満喫していた。
そんな時に、キャロラインは僕の前に現れた。
いくら母親同士が仲が良くても、その子供まで仲がいいだなんて限らないのに。けれど、それだけの理由で母はスタインズ家の人々をうちの別荘に呼んだのだ。
記憶力には自信がある方だ。だから、僕はキャロラインとはじめて会った日のことを昨日のことのように思い出すことができる。
明るめの茶髪に、白くてやわらかそうな頬。丸めの顔立ちの真ん中で、二つの紫の目が輝いていた。
『ねえ、名前。なんていうの?』
くるくるとよく変わる表情に、僕はすぐさま釘付けになった。
『私はキャロラインっていうの』
『僕は、クリストファー』
『じゃあ、クリスって呼ぶね』
まるでそこだけきらきらと光が当たっているように、眩しかった。
小さい頃、僕はあまり体が丈夫ではなかった。キャロラインは、ほとんど引きこもりのように過ごす僕のそばにぴたりと寄り添うようにしてくれた。
『クリスは本当に、絵が上手だね』
別に取り立てて絵が好きだというわけではない。ベッドの上でできるようなことが、それぐらいしかなかっただけだ。家にある本は早々に全て読んでしまって飽きていた。それに、彼女が手放し言うほどは上手くはないと思う。
けれど、絵が描けてよかったと思う。僕のこの目に映った世界を、ずっと紙の上に留めておくことができるのだから。
体調がいい日が増えてくると、キャロラインは僕の手を引いて外へと連れ出してくれた。
彼女を通して見た世界は、とてもきれいだった。
何度も見た湖も、なんてことない木漏れ日も。
キャロラインがいれば、全て特別に見えた。
彼女がいなければ、僕は今もずっと暗い部屋の隅にいただろう。それを疑問にさえ思わなかったはずだ。
好きになるのは、当然だった。
だってキャロラインがいてくれたから、僕はこの世の美しさを知ることができたのだから。今更もう、彼女のいない世界なんて考えることもできなかった。
そしてそれがこれからもずっと続くのだと、僕は信じていた。
十一歳で貴族学校の入学を許可されると、キャロラインと会う機会は少なくなった。
『これね、お守りだよ』
僕が寮へと向かう時、キャロラインはイニシャルの入ったハンカチを作ってくれた。
ほがらかな性格の割に――こんなことを言ったら頬を膨らませそうだけれど――彼女は刺繍が上手かった。意外にも精緻で整った意匠を刺すのだ。
貴族学校の入学年齢は一般的には十二歳である。一年早く入学した僕は、周りと比べて明らかに小柄だった。
『なんだよ、これ』
入学早々に持っていたハンカチを見咎められて、問い質された。
『どうせ母親が作ったんだろう?』
貴婦人の嗜みとして僕の母もハンカチに刺繍をしてくれた。
『母上が作ったのはこっち』
『これは、お前の母上は芸術家だな』
訊ねた同級生はすっかり面食らってしまったようだった。うちの母の刺繍はなかなかに前衛的である。父が気に入っているからいいけど。
『きっと、姉貴かなんかだろ』
『僕は一人っ子だよ』
『本当に、女の子にもらったのか』
僕は否定をしなかった。こういうのは曖昧にしておいた方が効果的だと分かっていたからだ。
『へぇ……』
お守りの力は絶大だった。
ただのクラス一のチビという評価がその瞬間に、ひっくり返った。「こいつにはハンカチに刺繍をしてくれるような女がいるやつ」になったのだ。一応、嘘ではない。
それからは、成績がよかったこともあって、僕は貴族学校で快適に生活することができるようになった。
『ねえ、そのハンカチくれた人、クリストファーより年上の人?』
同室の彼だけが、探るように聞いてきた。
『そうだけど』
『いくつ?』
『十五。もう少ししたら十六になるけど』
はしゃいでいた他のやつらと違って、そいつだけはなんだか不可解な目で僕を見た。
『じゃあ大変だね。もうすぐデビュタントじゃないか』
言われた言葉の意味が分からなかった。呆気にとられる僕に彼は丁寧に説明してくれた。
『貴族の女の人は、十六歳になると社交界にデビューするんだ。そしたらすぐに旦那様を見つけて、結婚しちゃうんだよ』
社交界。デビュー。旦那様。結婚。
一つ一つの言葉の意味は分かるのに、繋がったそれを、頭が理解するのを拒否した。
『大体みんな、年上の男と結婚するんだよ』
『キャロが、結婚する……?』
『クリストファーもすぐ相手にしてもらえなくなるよ。ぼくらみたいなお子様はお呼びじゃないってことさ』
愕然とした。
言われてみればそうだった。母が結婚したのも十八歳の時だ。そして僕の父はその時、二十五歳だった。
仮にキャロラインが十八歳で結婚するとして、その時僕は十四歳だ。
なんてことはない。同室の彼の目に浮かんでいたのは、純粋な憐みだ。どう考えても相手にならないことは明白だったのだから。
夜会でドレスを身に纏うキャロラインを、思い浮かべてみる。
あの茶色の髪には何色のドレスが似合うだろう。その頃の僕には知識が足りず、具体的には想像できなかった。ただ、きれいな服を着たキャロラインだけが頭の中で微笑んでいる。
そうして美しく着飾った彼女の隣に立つ男を想像する。
きっとキャロラインよりも頭一つ分は背が高くて、精悍な顔立ちをしている。落ち着いたリードで、ゆっくりと手を引いていく。見上げてくる彼女と目が合えば、余裕たっぷりに微笑み返すのだ。
対して、僕はどうだろう。
少しは伸びたけれど、まだ僕の方がキャロラインより背が低かった。こんな子供に夜会の正装を着せても似合うはずもない。服に着られているのがオチだろう。
自室の部屋の鏡に映る僕は、痩せっぽっちで顔色の悪いガキでしかなかった。
何度も何度も、彼女のことを思い出した。絵に描く度に、それは鮮明になっていった。
その頬に触れたことがある。
キャロラインは僕の絵を楽しそうに見て「すごい、すごい」と褒め称えていた。とても神聖なもののように思えていたのに、手を伸ばしたら届いてしまった。
想像したよりも、ずっとやわらかかった。ふわりとした感触は、マシュマロに少し似ている。
『どうしたの? クリス』
きょとんとした紫の目が、僕を見つめる。僅かに首を傾げたら、微かな重みが手にかかってきた。それがたまらなく愛おしかった。
それが全部、他の男のものになるだなんて、信じたくなかった。
彼女はきっと、知らないだろう。
離れている間に僕がどれだけ思いを募らせたのか。
そして、その分だけ僕はキャロラインとうまく話せなくなった。




