21.十六歳の私
「いったあ」
「大丈夫? これ以上ぼんやりするようになったら日常生活に支障があると思うけど」
誰のせいでこんなことになったと思っているのか。当の本人はいけしゃあしゃあとそんなことを言う。
クリスは薄桃色の便箋を手に、長い足を持て余すようにして机にもたれかかっていた。
じんじん痛む頭を押さえて覗き込めば、見慣れた自分の字が便箋の上で躍っていた。
けれど、今より大分字が幼い。
「『お休みに帰ってくる時にはぜひ教えてくださいね。早くあなたに会いたいです』」
クリスが持っていたのは、一通だけではない。
色とりどりの封筒と何通もの便箋が、彼の手の中にあった。
「これは……」
「おれが寮にいる間に、あんたが書いていた手紙」
おぼろげながら記憶はある。
書き始めたのはいいけれど、どうしようもなく恥ずかしくなってしまったのだ。あんなに気安く話していた幼馴染相手に、改まって手紙を書くことに。
「これ、どこで見つけたの?」
結局途中まで書いたはいいが、出さなかったことは覚えている。せっかく選んだ便箋がもったいなくて、捨てられなかったことも。
「借りた本の函に入っていた。九巻目に」
「あっ」
クリスが寮にいたあの頃、ちょうど読んでいたのは九巻だ。そうか、そんなところにあったのか。
「その、見せてくれる?」
何も言わずに、クリスはすっと便箋を差し出してきた。
そこに、十六歳の私がいた。
『庭のお花、あなたが描いたらきっと素敵だと思います』
『寒くなってきましたね。風邪をひいたりしていませんか』
『昨日の満月がとてもきれいでした。あなたのところからも見えたでしょうか』
手紙と呼ぶにはつたなすぎる。ほとんど日記のような、他愛のない内容だ。こんな手紙、もらったってクリスもきっと困ったに違いない。
「おれは、あんたが本当にオースティン卿が好きなら、もうしょうがないって思ってた。どう考えても勝ち目もないしな」
切れ長の目元がふっとやわらかくなる。もたれかかっている分だけ、今はクリスの方が目線が低い。小さい頃のように、青い瞳が私を見上げてくる。
「でも、これを読んで気が変わった」
水色の便箋をひらりと振って、クリスは笑った。
ああ、そうだ。
あんなに傷つけてしまったのに、彼はまた私に会いに来てくれた。そのきっかけがこの手紙だったのか。
出せなかった手紙が、あの頃の私が、クリスをここまで連れてきてくれた。
「『何でもない時に誰かの顔が浮かんでくるのは、その人が大事な人だから』なんだろ?」
花を見ても、月を見ても、思い出してしまうほどに。
「キャロライン」
大きな手がこちらに伸びてくる。
「教えてよ、本当はおれのこと、どう思ってるのか」
長い指が、輪郭をなぞるようにそっと頬を撫でる。たったそれだけの仕草がひどく色っぽい。
「クリス、その」
これを言ってしまえば、もう、最後だ。その目と向き合うのが怖い。
「往生際が悪い。動かぬ証拠がここにあるのに、まだはぐらかすの」
私はずっと、クリスのことを想っていた。この手紙はその証にほかならない。
けれど、彼はきっと誰かほかのご令嬢と結婚するはずなのだ。私なんかでは、この人と釣り合わないはずなのに。
「だって、婚約」
「ちゃんと申し込んだよ。スタインズ家の叔父さん宛てに」
「えっ!」
そういえば、「見せていない身上書がある」と叔父は言っていた。それがまさか、クリスだったのか。
「おれはずっと、成人したらあんたに結婚を申し込むって決めてたんだ」
「う、うそ……」
「ばかも休み休み言ってくれる? こんな大事なところで嘘つくわけないだろ」
それも、そうだ。
「あーもう、またこうなったじゃないか」
私がはっとすると、目に見えてクリスが狼狽えた。いらだちを誤魔化すように、わしゃわしゃと髪を掻き上げる。
「ちゃんと言うから。あんたも、ちゃんと聞いて」
覚悟を決める様にその手をぐっと握る。
「う、うん」
いつも涼やかに見える青い目が、熱を孕んでいるのが分かる。その目に射抜かれたようになる。自分の心臓の音がうるさくて、息の吸い方まで分からなくなってしまいそう。
「おれは、ずっと早く大人になりたかった。あんたの前を歩かなきゃ、あんたの視界には入れないから。けど不思議だよな。おれの背が伸びた分だけ、あんたはこっちを見てくれなくなった。だからすごくいらいらした」
クリスはもう、自分の心を隠そうとしなかった。
ただ溢れるままにぶつけてくる。その真摯な声が、微かに震える手が、語られる全てが真実だと教えてくれる。
「ちゃんとあんたより大きくなったら、堂々と隣にいられると思ったのに」
クリスがすっと横を向く。ずっと近くで見ていた、彼の横顔。
私がよく知った男の子は、ちゃんと格好いい男の人になっていった。
でも私自身はちっともぱっとしなくて。
その分だけ、私はどうしたらいいのか分からなくなった。
「ずっと、あんただけ見てきたよ」
駄目押しのようなその一言に、本気で息が止まりそうになる。
「へっ」
「だから、おれがいいって言って、キャロ」
クリスが真っ直ぐに私を見つめる。あの日と同じ。その目の中心に私だけが映っていた。
「そしたら、おれの全部、あんたにあげる」
けれど、変わったこともある。頬に触れるその手に、私は自分の手を重ねる。その手はもう、子供のものではない。
「手、大きくなったね」
クリスがぐっと眉をしかめる。睨みつける様に、その目が険しくなる。
「なんで泣くの」
「うれし、かったから」
ずっとこんな日が来ればいいなと夢見ていた。でもそういうものは私に与えられるものではないと、心のどこかで諦めていた。
だけどちゃんとあったのだ。
「私も、ずっとすき」
私達はずっとお互いのことを考えながら、ただすれ違っていただけなのかもしれない。
「クリスのことが、すきだよ」
どのみち無理だったのだ。クリスじゃない、他の誰かを好きになるなんて。
この心はずっと、彼でいっぱいだったのだから。違う人なんて入る余地は、どこにもなかった。
「大きくなったよ」
するりと指先が目尻を拭っていく。
もう片方の手も、この頬に触れる。その大きな手に包まれてしまったようになる。
すっと立ち上がったクリスが私を見下ろす。
「あんたを幸せにしたくて、おれは大人になったんだ」
とろりと視線が絡み合う。今度はもう、拒む理由はどこにもない。
「好きだ、キャロ」
この心を全て攫っていくような囁き。ふわりと吐息が頬を掠める。
ずっとこの時を待ち望んでいたのだと、私は幸せなキスの予感に目を閉じた。




