19.青い鳥
「好きな人が、いたんです」
「うん」
アラン様は取り立てて何か口を挟むことはない。静かに相槌を打ってくれるだけだ。
「小さい頃からそばにいてくれた人で、大切な幼馴染でした」
口にしてみれば、たったそれだけのことだ。けれど、認めるのは随分と勇気がいることだった。
あまりにもそばにいたから、気づくのに時間がかかった。
そして気づいてしまったら、この関係が壊れるのが恐ろしくなった。だからずっと心の奥に隠していた。
まるで一番大切な手紙を、文箱の底に仕舞い込んでしまうみたいに。
「それは、ラザフォード侯のことかな」
温かみのある橄欖色の目。この目は本当に、なんでもお見通しのようだ。
私は頷いた。
「私は、彼と自分は釣り合わないって、ずっと思っていました」
クリスの背が伸びて、私との差が開くほど、そう感じざるを得なかった。彼はちゃんとした侯爵家のご令息で、私は没落寸前だ。
「だから、ほかの人を好きになれば忘れられるかと思ったんです」
誰もが誰も、好きな人と結婚できるわけではない。それくらいの分別はある。
だから、その相手は文通の相手であっても婚約を申し込んでくれた人であっても、誰でもよかった。
クリスでないなら、誰だって同じだと思ったから。
「私は、あなたを利用しました。でも忘れられませんでした」
何を見てもクリスを思い出した。そんなつもりはないのに、彼と比べてしまう。それぐらい私の中でクリスは多くの事柄と結びついていた。そのことを、自覚させられた。
「申し訳、ありませんでした」
心に誰かを置いたまま他の誰かと付き合うことは、きっと不貞に等しい。謝って許されることではないだろう。それぐらいひどいことをした。
「何も謝ることじゃない」
アラン様はそっと手を伸ばしてきて、私の頭をぽんぽんと撫でた。
「あなたがラザフォード侯を好いているのは最初から分かっていたよ」
「えっ」
私が目を瞬くと、アラン様は得意げに片方だけ口角を上げてみせた。
「見ればすぐに分かるよ。あなたの目はずっと彼を追っていたから」
頬に血が上って、かっと熱くなる。私の態度はそんなにもあからさまだっただろうか。
「もっとも、あなただけ、ということもないけどね。向こうも相当に分かりやすいし」
「それは、どういうことですか?」
「だからラザフォード侯は苦労するということさ」
前にも似たようなことを喫茶で言われた。その時もこうしてはぐらかされた。
「私はそれを知った上であなた達の間に割り込んだ。こういうことをする者は馬に蹴られても仕方がないと昔から言われている。あなたが気にするようなことはなにもないよ」
そういうことわざがあるのは知っているけれど。アラン様が言った言葉の意味が分からない。私が首を傾げてもアラン様はなんとでも取れる笑みを浮かべるばかりだ。
「ここから先は他人が言ってはいけないことだから。気になるならご本人にお聞きしてくれ」
ご本人。つまり、クリスに聞くしかないということか。
果たして真正面から尋ねて彼は教えてくれるだろうか。
「それでは、お姫様を騎士のところに帰さないとね」
遠くに控えていた使用人達を、アラン様が呼び戻す。
「キャロライン嬢を屋敷までお送りしてくれ」
男爵家の馬車に乗る直前に、アラン様が問うてきた。
「まだ何か気になることがあるかい?」
私は本当に分かりやすいらしい。思っていることがすぐに顔に出てしまう。
「あ、大したことではないのですが」
ただ気になっていたのだ。
「アラン様がキット様でないのなら、あの方の正体は一体、誰なのでしょう」
「ふむ」
アラン様は顎に手を当てた。
「不思議なものだね。人の目は見たいものしか見ないというのに、一番見たいものが眼前に現れたら、逆に目を逸らしてしまうことがある」
そのまま少しの間彼は考え込んでいた。そして、何か思いついたような顔をするとおもむろに口を開いた。
「青い鳥の話は知っているかな?」
有名な童話だ。兄妹は幸せを象徴するという青い鳥を探して、様々なところを旅する。けれど結局捕まえられずに自分達の家へと戻る。すると、家にいた白い鳥が青い鳥になっている、そんなお話。
この話が意味するのは、幸せは自分の身近にあるというメッセージだったはずだ。
そっと肩を叩かれる。今までの色恋じみた仕草と違って、それは親愛に近かった。
「みっともないことこの上ないが、男というのはとかく主導権を取りたがるものなんだ」
それはアラン様にも当てはまるのだろうか。決してそんな風には見えないのに。
「だから、往々にして自分自身を現実より立派に見せようとする。世慣れした態度を取ってみたり、大人のフリをしてみたりね」
見上げれば、またにこりと彼は微笑んだ。
「キャロル」
愛称が耳元で囁かれる。
「あなたは聡明な人だ。その目を真に開けてみれば見えるはずだよ。虚飾を取り払った、彼の本当の姿が」
「本当の、すがた……」
「さて、私から言えるのはここまでだ。健闘を祈っているよ」
ひらりと手を振って、アラン様は美しく礼をした。
「ありがとうございます」
最後まで、本当にアラン様は紳士だった。私の夢見た理想のおじ様のままだった。
書斎の扉をそっと開く。
そこに置いてある大きな机。私は父がここに座っているのを見るのが大好きだった。
机の下から椅子を出して隠れる様にして座る。小さい頃はここがまるで秘密基地のようで、お気に入りの場所だった。
今はもう随分と窮屈になってしまった。膝を抱えてぎゅっと身を縮める。その分だけ私が大きくなったということなのだろう。
両親の葬儀の後も、私はここにいた。
馬車の事故による突然の死だった。
ちょっとした視察のつもりで、元々は私も一緒に行く予定だった。けれど、直前でライナスの風邪がうつってしまって、二人で留守番となってしまった。
『大丈夫。すぐに帰ってくるからね』
そう言ったのに、父も母も永遠に帰って来なかった。熱に浮かされた頭を撫でる母の手の感触が、私の記憶に残る最後だ。
『可哀想に。上の子はこないだデビュタントを迎えばかりで、弟はまだあんなに小さいのに』
叔父が取り仕切る葬儀の間、私は少しも泣けなかった。何が起こったのか分からないライナスの手を握りしめて、弔問に訪れる人の前で立ち尽くすことしかできなかった。
全部が終わって屋敷に帰った後、私は書斎を訪れた。
そこは、両親が生きていた頃と何も変わらなかった。読みかけの本も書き終わった書類もそのままで、まるで帰りを待っているかのようだった。
ばかみたいだ。もう二人とも、この家に帰ってくることはないのに。
ぽつりと、涙が流れてきた。
やっと身に沁みたのだ。やさしかった両親はもういなくて、私は可哀想と称されるような境遇に陥って、それでも生きていかなければいけないということが。
泣いているところなんて、誰にも見られたくなかった。
だから机の下に入り込んだ。これ以上誰にも何も言われたくなかった。心配されるのも、同情されるのも嫌だったから。
書斎の扉が開いたのは、その時だ。ぱたぱたと軽い足音がする。見つからないように私は息を潜めた。
『こんなところにいたの』
けれど、この青い目は特別なのだ。
薄暗い部屋の中で、その目だけがきらきらと輝いていた。




