18.求婚
「うちの庭はどうかな、キャロル」
目の前には、男爵家の庭が広がっている。真ん中に立てば、左右対称なのがよく分かる。よく整えられた美しい庭だ。
「とてもきれいですね」
「気に入ってもらえてよかった」
庭がよく見える四阿に案内された。控えていた侍女が紅茶を淹れてくれる。エステル様がくれる茶葉もいいものだけれど、この紅茶はそれよりも香りがいい。
お茶を飲みながら話したのは、他愛のない世間話ばかりだった。緑の目が、少しだけ、探るように私を見つめてくる。
いきなり不躾に問うようなことを、この方はしない。
「お茶のおかわりはいかがかな?」
代わりにアラン様はそう訊ねてきた。私は首を横に振る。
満たされていたカップが空っぽになると、途端に手持ち無沙汰になった。
アラン様が、すっと立ち上がる。そして、手近な花壇の花に大きな手を伸ばした。
「この薔薇は私が気に入って育てているものでね」
ピンクとオレンジが混ざったような、複雑でやわらかい色の薔薇だ。薄い花びらが幾重にも重なり合うようにして咲いている。
「珍しい色ですね」
「そうだね。比較的新しい品種だから」
アラン様ははさみで薔薇の花を一本切った。そのまま、慣れた手つきで棘を取っていく。
「キャロル」
上質な天鵞絨のような声が私の名をなぞる。
アラン様が私の前に跪く。そうして差し出されたのは切り取られたばかりの薔薇の花。
ああ、なんて優雅な仕草だろう。まるで観劇の中の世界にいるみたいだ。
「ここをあなたの屋敷にするというのは、どうだろう」
投げかけられた言葉の意味が分からないほど、子供ではない。
私は、この今、アラン様から求婚されている。
「返事を急ぐ気はないよ。あなたの心が決まるまで私はいくらでも待つつもりだ」
見上げてくる緑の瞳は澄んでいて、その言葉が嘘のようには思えなかった。
「一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「一つと言わず何個でも」
にこりと音がしそうな笑みで微笑んで、アラン様はそう返す。
「私、ずっと文通をしていたんです」
私は今から、水面に石を投げこむ。
映った月を壊してしまう。
これを知ったらもう、知らなかった私には戻れない。
「ああ、知っているよ」
静かな返答からは動揺は読み取れない。アラン様ぐらいになれば、私が何を問うかぐらい予測できたのかもしれない。
「あなたが、キット様ですか」
形のいい眉がぴくりと動く。僅かにアラン様の顔色が曇る。
けれどそれはほんの一瞬のことだ。すぐに元の顔に戻った。
「そう、私がキットだ」
私が想像した通りの人は、今も眼前で微笑みかけてくれる。
「あなたはとても可愛らしい字を書くね」
伸ばされた手が、一房髪を巻き付けていく。気障な仕草だと思うのに、アラン様がするととても様になっている。
「そうでしょうか」
「あなたの手紙を読むのが、私の毎日の楽しみだった」
「私もです」
手紙という文字だけの世界で、キット様は寄り添ってくれていた。実際に会ったことのある誰よりも、彼が私の一番近くにいたとはっきりと言える。
「それでは」
もう一度、私の目の前に薔薇の花が差し出される。
ふわりと漂う、神秘的な香り。いつも香っていたアラン様の香水の匂いと同じだ。この薔薇の香りだったのか。
「はい」
私はその花を手に取った。
丁寧に棘が取られた薔薇は、手を傷つけることはない。ただ私の手の中で美しく、凛と咲いているだけだった。
「書類を持って来させよう。構わないね?」
「はい」
アラン様が侍女の一人に命じる。すぐに一枚の羊皮紙とペンが届けられて、テーブルの上に広げられた。
婚約証明書だ。これに互いの名前を書いて国王陛下に提出し、三ヶ月の婚約期間をおけば私とアラン様は晴れて夫婦の身となる。アラン様はいつからこれを用意していたのだろう。
先にアラン様が名前を書く。さらさらと、ペンを羊皮紙に走らせる音がする。
「嬉しいな。あなたのような人と一生をともにできるだなんて」
次に私が署名をする番になる。
この時はじめて、私はアラン様の字を見た。
違う。
一目見てそう感じた。
流れるような美しい筆致だった。けれど少しだけ末尾を跳ね上げる書き癖がある。
だって穴が開くほど何度も何度も読み返したのだ。私がキット様の字を見間違えるはずがない。
「キャロル?」
ペンを取ったまま微動だにしない私を見て、アラン様がそっと立ち上がる。そのまま顔を覗き込んでくる。
――明日の貴女が幸せでありますように。
「明日の」
手紙の最後に添えられた言葉。
「アラン様は、明日の私の幸せを願ってくださいますか」
唐突な問いかけにも、彼は動じたりしなかった。ぴたりと頬に手が触れる。
「明日のことなんて、今は忘れてしまえばいい」
この手はきっと、望んだ明日を手に入れられる手だろう。それだけの大きさと強さを持った手だ。
「私を見て、キャロル」
深い森のような瞳。その目に映るのは、真摯な愛情だけだった。
「今日のあなたを、必ず幸せにすると誓うよ」
これに身を任せれば、どれだけ幸せになれるだろうと思った。
けれど同時に、決してそうすることはできないのだと悟った。
何も言わずに私はただ彼を見つめ返した。それだけで十分だった。
「私は少し、あなたを侮っていたようだ」
アラン様は一つ息を吐いて、自嘲したように笑った。そして、広げていた羊皮紙をびりっと半分に割いた。
これではもう、この紙は何の意味も成さないだろう。
「嘘を吐いて悪かったね。試したつもりはなかったんだけれど」
私の向かいの椅子に腰を下ろして、アラン様は頬杖をついた。ちらりと、ただの紙切れになった羊皮紙を見遣る。
「いえ、私も嘘を吐きました」
謝らなければいけないのは私の方だ。
「私の話を聞いて頂けますか」
「もちろん」
私はずっと、嘘を吐いていた。
アラン様にも。
そして、私自身にも。




