15.あなたじゃないなら
文通屋からどんな風にして家に帰ったのか、うまく覚えていない。
「ねえ、本当なの」
放心したように過ごしていたら、当の本人がやって来た。私が座るカウチの前に、見上げるほどの長身が立ちはだかる。
私自身が、まるで彼の影にすっぽりと覆われたようになる。
「どうしたの、クリス。今日はお土産ないの?」
「はぐらかすなよ、キャロライン」
努めて明るい声を出したら、青い目が曇った。
「オースティン卿と婚約するって、本当なのかって聞いてる」
肩に手が置かれる。それは思いの外強い力で、食い込んでくる。
「本当だよ」
こんなことで嘘をついても仕方がない。社交界にいればいずれ分かる話だ。
「どういうつもりだよ」
「どういうって言われても……」
散々私のことを行き遅れだと言ったくせに、クリスは責め立てるように言った。
「私もそろそろ結婚しても、いいかなって」
「いいかなって、なんだよ」
項垂れたクリスの顔を銀色の前髪が覆う。彼の手が震えているのが分かる。同じように、声も少し震えていた。
「クリス?」
その顔を覗き込もうとしたところで、ぐっと、肩を押された。
「あんたは何も分かっていない!」
突如世界がくるりと回った。
「きゃっ」
カウチに押し倒されたのだと理解したのは数瞬後。
眼前に見慣れた天井が広がって、その中心にクリスがいた。
「結婚するってことは、こういうことをするってことだぞ」
「分かってるよ」
真剣な色を宿した彼の目と向き合うのが辛くて、私は身を捩って顔を背けた。
貴族が結婚をするのは、家を継ぐ子を儲けるためだ。だから、当然閨事が求められる。愛だとか恋だとか、ましてや運命なんてものは二の次だ。
「ちゃんと、できる」
脳裏によぎったのは、あのキスだった。
あの熱さを、あの感触を、私は頭の中から追い出すことができない。むしろ忘れようとする度に、鮮烈になっていく気さえする。
結婚すれば、それよりもっと先のことをすることになる。よくぼんやりしていると言われる私でも、それぐらいのことは分かる。
「ふうん」
クリスは鬱陶しそうに前髪を払うと、私の頬に手を当てて、強制的に見つめ合わせた。
「なら試してみようか。本当に、できるか」
こつん、と額が触れ合う。
ふわりと、鼻先にさわやかな柑橘と奥行きのある木々の匂いが香った。
ああ、またこの目だ。
潤んだ青い目が、私を一心に見つめる。
視線が絡み合えば、手に取るように分かった。彼が今から何をしようとしているが。
「だめっ」
気づけば叫ぶように言っていた。胸板に手を当てて、押し返す。もっとも、そんなことをしても確かな男の体はびくともしなかったけれど。
「ほうら」
すっと肩から手をどけて、クリスはばかにしたように鼻で笑った。
「やっぱりあんたには無理なんだよ。いい加減諦めて、おれと」
機嫌を取るように頭に伸びてきた手を、私は弾くように払った。手と手が触れ合って、ぱんっと高い音がした。
「やめて」
そう応えた私の声は、強い拒絶を宿して想像以上に冷たく響いた。
「なん、だよ」
クリスが分かりやすく狼狽えた。
一回なら、間違いだと笑い飛ばせるかもしれない。けれど、二回目はだめだ。
「クリスじゃないなら、誰でもいい」
それに、今彼はお酒を飲んでいない。まったくの素面だ。キスしてしまったら、クリスはきっとそのことを覚えているだろう。
「誰とだって、できるよ」
私が当然のようにクリスの隣に座って居られたあの頃とは、違う。
彼は見違えるように格好良くなって、大人になった。
私はただ惨めに落ちぶれて、行き遅れている。
手を伸ばすことなんてもう、できないじゃないか。
だから、クリスはだめだ。
「キャロラインは、」
かろうじてそう問うたクリスの声が掠れた。
溢れ出しそうな青い目が揺れている。
「おれのこと、どう思ってるの」
突き刺さるほどの沈黙が落ちる。ばくばくと脈打つ自分の心臓の音しか聞こえない。息をするのも痛いほどだった。
この関係について、どちらかが名前を付けなればならないのなら、私が付けよう。
「なにって、大事な幼馴染だよ」
そう言って、精一杯笑ったつもりだった。ちゃんと笑顔に見えていたかは、分からないけれど。
今までも、これからも、ずっとそうだろう。
これより先に踏み込む術を、私は知らない。
「……そっか」
静かな低い声が返事をした。紙のように、顔色が真っ白だった。表情の抜け落ちた相貌は、ただただ整っていてどこか造り物めいていた。
ぎこちない動きでカウチから立ち上がった彼は、大きな音を立てて扉を閉め、部屋を後にした。
飾っていた花束から、ひらりと花びらがひとつ落ちた。
クリスがくれたあの花束だ。
もらった時はあんなに沢山の花が色鮮やかに咲いていたのに、枯れた葉や花を少しずつ減らしていったら、今もう花瓶に残っているのは一輪だけだ。
これではもう、花束とも呼べないだろう。
水を換えても切り戻しをしても、花がまた咲くことはない。分かっていたのに、私は未練がましく花瓶に入れたままにしていた。
物事には必ず、終わりがある。
季節は止まることなく流れていく。どんなに長く咲いていた花も、永遠ではない。
私はその花をごみ箱に捨てた。




