白雨の過去
昔と変わりない微笑みから覗く可愛らしい八重歯に華娘は愛おしくて堪らなくなり、思わず小さく笑ってしまう。
女あるいは去勢された宦官しかいないこの後宮に侍女がやって来た。これだけならまだしも、白雨と名乗る侍女は完璧な女装をしていて、それも華娘の初恋相手となると言葉にし難い感情に陥いるのは必然的。
皇帝以外への恋情は禁忌であり死罪に値する、しかも淑妃という位の立場であろう者が皇帝を差し置いて武官に思いを寄せるなど更に重罪となるだろう。
笑っていられるのも今のうちかもしれない。
白衛は幸いにも女装をしているため朱雀宮にいる女官は女だと思い込む。現状穏やかに話していても宦官でもないわけだから、ただ女と仲良く話している光景が他者の目に映るだけだ。
恋というものは末恐ろしい。屋敷にいた頃は穏やかに密かな恋情をただ独りに寄せるだけだったのに後宮に入内してから殺伐としたものに一変した。静かに実っていく恋を想像していた華娘には後宮の側室たちの皇帝争奪戦の空気があまりにも不快で嫌悪感が増した。
一体どうしたら牢獄のようなこの場所から解放されるのだろうか。自然に囲まれた楊家の屋敷に帰りたいと何度朱雀に祈ったか。
華娘は目の前で落ちた書物を拾っている白衛を見つめて静かに視線を足元に落とす。可愛らしかったあの頃と比べると今では美しいほどに凛としていてそれでいてどこか寂しい。華娘よりは背が低いがその差もほんの僅かだ、それなりに成長期に突入しているしこれからもっと大きくなっていくと思う。
「どうかされましたか華娘」
視線を上げると心配そうな青い瞳と目が合った。久しぶりの気不味さに顔を背けるとさりげなく質問をする。
「皇帝の護衛だなんて随分立派な役にありつけたのね。まだ貴方は若いのに知恵や名誉を得るために相当な苦労をしたはず……今までに何があったのか、貴方の過去を知りたい。無理にとは言わないわ、話してくれる?」
白衛は眉間に皺を寄せ一瞬だけ逡巡したのちに頷いた。
「構いませんが、少し長くなります。お茶を用意しますか?」
「いらない」
華娘が断じると白衛は拾い集めた書物を机に置きすぐに話し出した。
まず最初に華娘が後宮へ入内する所から話は始まる。楊家の娘が後宮へ入内するのを知らなかった鍾家の当主、いわば白衛の父が怒りを露わにしたらしい。「私の息子と婚姻を結ぶべきだった」と言い張り、後宮から華娘を取り戻そうと試みるがそんな事ができる立場ではなく、下手すれば謀反とみなされ首が飛ぶ、結局失敗となる結末だった。
両家には西の国の血統が混ざっているため、国外との縁が強い。ましてや士大夫の位を築き上げている両家が婚姻など何らかの形で絶対的な縁を結ぶとなるとこの土地での勢力は増していき最悪下手な行動を起こせば皇帝に敵軍と見られてしまう。戦争は望んでなどいないため、華娘の父がおとなしく楊家の娘として皇帝に仕えさせる方がこの家の名誉であり得策だと判断し、華娘を送り出したと父は鐘家に説明したらしい。
楊家と縁を結んで勢力を上げていこうと考えていた鐘家は急な計画変更に思い悩んだ末、白衛を宮廷に仕える武官にしようと教養を施した。もとより有能な息子であった白衛は約一年間で剣術共に勉学にも励み科挙を受け合格した。十四歳という若さでやってきた少年に周囲は皆、異様な目を向けてきたらしい。
「確かに十四歳は若すぎるわ。科挙なんて簡単に受けれるものじゃないもの」
「悪戦苦闘しましたよ……二度とあの場に行きたくない…」
白衛はどこか遠くを見ながら言った。その行動力はどこから湧いてくるのか、一体何が白衛の支えになっていたのかは分からない。
「けれど……武官になるだけじゃ皇帝の護衛になんてならないんじゃない?」
「ここからですよ」
武官になった白衛はとある外交の際に一時的に皇帝を護衛する禁軍に入った。外国との会議が行われている最中に不審な人物を見かけた白衛はその者を捉え尋問したところ、相手国が雇った刺客だと判明したらしい。優秀な若い武官として皇帝に名を覚えられたのか知らないが、そのまま禁軍に属するようになったそうだ。
華娘も夜伽を通して分かった事が幾つかあるが何より現皇帝は弱々しい。周りを強い者で固めたがる傾向にあるのは宰相の配慮なのだろうが容姿が細身なために軽んじられるとこがある。
禁軍に属して約二年。信頼を経た十六歳の白衛は皇帝から厄介な命を下されたのだ。
「女装をして後宮に潜り込み淑妃様をお守りしろと……けれど俺の一族は少し厄介でして…」
固い表情になった彼はため息をつくと拳に力を入れて何かを話そうとしたその時、遠くの方から静麗が華娘を呼ぶ声が聞こえてきた。
いつも東屋にいるのは静麗が一番理解しているため一直線にやってくると隣にいる白衛をみて数回瞬きしたのちに「あっ!」と声をあげた。
「新しい侍女の鐘白雨さんですね。昼餉の前に来ると思っていたのでにゃんを呼び戻しにきたのですがその必要はなかったようで」
静麗は笑みを崩さず話しかけると先ほどまで男声で話していた白衛は咳払いをし女声に変わって微笑み返しているが、目が笑っていない。
「東屋の前を通りかかった際に淑妃様がお見えになったのでご挨拶をしておりました。未熟な侍女でございますが静麗様、よろしくお願い致します」
「えぇ、頼もしいですよ。私一人じゃ華娘様の身の回りのお世話なんて到底無理ですし」
「静麗が進んでやっている事でしょう?他の侍女や感情に任せてしまいなさいよ」
静麗は拗ねたように頬を膨らませるとまたいつもの小言を言い始めた。
「他の侍女がもし毒でも盛ってしまったらどうするんですか‼︎」
他の侍女といっても静麗が毒を盛らないとは限らない。そこを指摘しないだけ華娘は彼女を信用している。
「白雨も来たことだし一緒に昼餉をとりましょう」
「ですが淑妃様と一緒に食事など…」
「私、この後宮の堅苦しい雰囲気が嫌いなの。だから白雨、なるべく肩の荷を落としていいのよ」
そう言って微笑むと白衛は一瞬だけ泣きそうな表情になったがすぐに拱手すると歩き出す華娘の後ろについて行った。