彩色のこころ
初投稿です。
とある大学の学園祭で執筆したものとなりますが、一般の方の意見も欲しいということで投稿することにいたしました。
評価・感想などいただけるととても喜びますのでぜひお願いします。
若潮通り。大八車が国内から年貢として集められた食糧を運び、海外の要人を載せた駕籠がそれらを邪魔くさそうに避けて進んでいる。それがこの南北に走っている海沿いの通りのいつもの光景だ。
「そこの坊ちゃん! 活きのいい魚が入ってるんだ今日の晩飯にでも……」
「また今度お願いします!」
魚屋の店主を慣れた口先で捌きながら、一人の少年が人々の隙間を縫って駆けていく。
通りを進んでいった突き当たりにある商店『芳香堂』へと入った少年はそのこじんまりとした店内に響き渡る声でこう言った。
「御家流白羽屋より使いで参りました、玄と申します」
棚にぎっしりと並べられた箱やら瓶やらが震える勢いの大声に驚きながら一人の女性が店の奥から暖簾をかき分けて出てくる。
「見ない顔だ、それに白羽屋の人間のくせに男じゃないか。今まで来てた見習いのおなごはじきに初舞台かい?」
少年――玄は驚いていた。なぜなら女性はここ、佐曽羅の町ではめったにお目にかかれないほど鮮やかなブロンドの髪、つまり異国人だったからだ。
会話の中で聞いていた「はろん」が彼の頭の中でカタカナに変換される。
「彩夢のことですか。彼女ならもう舞台中の手伝いはしてますし、夏頃には色香師としてデビュー予定です。僕もいつかは彼女の色香術で……」
「そうかいそうかい。そういうあんたは役者を志してるんだね」
「はい。お姉さんは佐曽羅に住んでいらっしゃるんですか?」
「ここに来たのが十代の頃で、もう十何年は経つかねぇ……白羽屋には月に一回はお邪魔してるから、あそこで色香劇を見たのは数えきれないほどだね。あんたが出てくるのを楽しみにしてるよ。ほら、注文の品の受け取りに来たんだろう? これ、割れ物なんかもあるから帰りは慎重に帰るんだよ」
そう言ってハロンから渡された紙袋の中に入っているのは異国でしか入手できない香料だ。
「そうだった。というか、あんまりもたついてると家元に怒られてしまいます」
「あの婆さんも元気みたいだね。帰ったらあんた、白羽屋もなかなか美形の男子を寄越すじゃないか、って婆さんに言っといておくれ」
自分でそんなこと言えるわけないじゃないか、と玄は心のうちで思いながらも美形と言われたことにくすぐったい気分になりながら芳香堂を後にした。
若潮通りから見て町の反対側、つまり佐曽羅で一番内陸側の大通り、玄月通りに白羽屋はある。内陸には神社仏閣が多いとされているが、白羽屋はその区画からは離れているためあまり人は見られない。
玄は自分と同じ字がついてることもあってか、佐曽羅の町では寂れた部類に入るこの通りの雰囲気が好きなのだった。
「ただいま帰りました」
裏口の玄関を入ると、その音を聞きつけた女中たちが出迎えてくれる。
「あら、おつかいご苦労様です。ですけど、もうすぐ昼の部が始まってしまいます。見るんでしたよね?」
「そう。葵さん、ありがとう」
すぐさま荷物を渡すと、急いで二階にある関係者しか立ち入れない客席の一角に行く。
白羽屋の客席にはせいぜい五十人ほどしか入らない。だから昼の部は八割ほどが埋まり、夜の部になると決まって満員になる。しかし、一流の小屋と比べるとその規模は極めて小さいといえる。
玄が席に着くとすぐ暗転する。しかし、開演しても玄の視線がなかなか舞台の方には向くことはなかった。その眼は二階席のこの位置からしか見えない焚き場とよばれる場所、つまり色香師のいる空間へと熱心に向けられていたのだった。
闇に溶け込む紫色の装束を身にまとった家元とその孫にあたる彩夢。白羽屋の色香術はこの家系に継承されている。
色香術とは、この国に古くから伝わる魔術の一種だ。その源流をたどると香りを扱う芸能である香道に行き当たる。色香師の作り出す香りには色がつき、上位の色香師になればなるほど香りに色だけではなくイメージ、音、風景、感情までもがついていくと言われている。
今回の題目は奉公に出される娘とそれを止めようとする青年の恋と葛藤を描いたものだ。春の日、青年と娘が駆け落ちをする場面、香炉から発せられた桃色の香りが小屋全体に広がっていく。観客の頭の中には満開の桜景色が想起されているはずだ。
観客の頭の中にイメージが共有されることで感情移入しやすくなる。これこそが色香小屋の演劇が佐曽羅で大人気を博している理由だろう。
涙を流す客がちらほらといる中で、終演と同時に玄は舞台裏の楽屋へ向かう。
「失礼します、昼の部お疲れさまですお二方。今日も素晴らしい術でした」
それを聞いた家元が嬉しそうに答える。
「彩夢が手伝いで焚き場に上がるようになってから、色香術の精度が増している気がするんだ。もしかしたらこの子は素晴らしい色香師になるのかもしれないね」
「今からそんなこと言わないでください。お婆さま」
彩夢なら間違いないだろう。玄も心の中でそう思っていた。
小さい頃から何をやっても彩夢はできる子だった。玄と彩夢は歳が近かったこともあり、幼少期はよく遊ぶ仲で、何か並んでやるたびに玄は彩夢の後手を踏んでいたのだった。
しかし、最近は家元の後継者と見習いの雑用という立場の違いから自然と二人きりの会話は減ってしまった。
「使いの品は葵さんに渡しておきましたので。それでは、失礼しました」
そういって楽屋の暖簾をすっとくぐって廊下へと出た後も、玄の脳裏には家元に褒められて頬を赤らめた彩夢の表情が残っていた。
そんな彼女の色香術が広がる小屋の中で主役を務めるのが玄の胸の中にしまったひそかな目標なのであった。
昼の部も終わり、日が暮れてから開演する夜の部までの時間も玄にとっては束の間も同然だ。
やっと演技の稽古に当てられるかと思えば、客席の清掃、今ある香料の整理や洗濯など仕事は山積みになっているのだった。
「家元、どうしましたか?」
突如呼び出された玄は、残りの洗濯を一緒にやっていた女中に任せるとすぐに家元の部屋に行った。
「あの商人のところに沈香の香木を取りに行って欲しい。夜の部に使うからまだ時間には余裕があるけど、終幕であれがないと困る」
夜の部の演目は『竹取物語』だった。ラストシーンといえばかぐや姫が月に変える場面、そこで使う香木がないとどうしようもない。
「もちろんです。すぐに行ってまいりますね」
玄は二つ返事で快く引き受けたものの、内心では今日も稽古の時間を確保できないことに落胆していた。
本日二度目となる若潮通りでは朝市の活気の良さは既になく、人はぱらぱらと見られる程度で、店じまいをした商店の薄暗さが際立っていた。
しかし、いつもと異なった顔を見せる通りに玄の胸は少し踊っていた。大通りとは対照的に、路地の入り口からは灯りがこぼれている。朝には存在さえ気づかないようなこの路地は、夜になると多くの居酒屋がある飲み屋街となることで有名なのだ。
灯りとともにこぼれてくる笑い声に玄の好奇心は掻き立てられずにはいられなかったが、用があるのは芳香堂なんだと自分に言い聞かせ、進んでいく。
芳香堂はこの時間にもかかわらず明るかったため、遠くからでも目立っていた。
玄が店内に入るとハロンは棚にある大量の瓶の整理をしていた。
「いやー、朝の包みに入れ忘れてたみたいでね。少ししたら白羽屋まで届けに行こうかと思ってたんだ。申し訳ないからサービスも付けておいた、これからもごひいきお願いしたいからよろしく頼むよ」
玄は間違いなく沈香が入っていることを確認すると、ふとハロンに質問してみた。
「なんで芳香堂だけ夕方でも開いてるんですか?」
「ここは夜は酒場をやってるからね。その準備で夕方から私はこの店にいるのさ」
朝は香料の取引と販売、昼は演劇を見たり町を散歩したり、そして夕方から翌朝まで酒場の切り盛りをしている、と言うハロン。
一体いつ寝ているんだろう。そんなことを玄が考えていると、まるで見透かしたかのようにハロンがにやりと笑う。
「子どもは余計なことを勘ぐろうとしないもんだよ」
なんだか朝よりも陽気な感じがするハロンに頑張るんだよ、という謎の励ましを受けながら肩をバンバン叩かれ、芳香堂を出る。
日の落ち具合からして夜の部まであと三時間ほどはある。玄は
興味本位でちらっと覗いてみるとまだ日は暮れていないにもかかわらず、酒の匂いのきつい男が千鳥足で歩いているのが見える。
そのまま観察していると酔っ払い男の足つきはどんどん不安定になって、やがて路地の脇に倒れこんでしまった。その幸せそうな顔が玄の心を緩ませたのか、玄は吸い込まれるように路地の方へ入っていく。
提灯で照らされた看板の数々に目を奪われながら歩いているのは夢でも見ているかのようであった。暗くなってからは小屋の周り以外を出歩かない玄にとって、ここは慣れた佐曽羅の町ではなく、知らない異国に迷い込んできた気分だった。
異国という感想は決して根拠なく出てきたものではなかった。実際に背の大きく鼻の高い異国人の割合が明らかに高い。
異国の人は良い人ばかりじゃないから気をつけなさい――そんな風に小さい頃から女中さんに言われてきた。玄はその言葉を思い出した瞬間にざわざわと胸騒ぎがして、なんだか早くここから立ち去った方がいい気がした。
足早にもと来た道を戻っていくと、どこか見覚えのある少女とすれ違った。慌てて振り返ると菖蒲の花をモチーフにしたかんざし、彩夢のものだ。
「彩夢!」
まさかとは思いつつも呼び止めると、少女は肩をびくっとさせるも、さらに足早になって行ってしまう。ばたばたと通行人に当たりながら進んでいくのを見て玄はすみませんすみませんと謝りながら追いかける。
徐々に距離を詰めていき、肩をつかんで顔を確認するとやはり彩夢だった。
「やっぱり……こんなところで何してるんだよ、夜の部の手伝いもあるんだろ」
「外出の許可は取ってるから大丈夫だし、ちゃんと時間には帰るつもりだよ。それよりも、ここにいたことは家元には内緒にしておいて、おねがい」
「それはいいけどさ……だとしてもこんな場所、女の子一人じゃあぶないよ。とりあえず外に出よう」
秘密にして欲しいと必死そうな顔を見せられた玄は彩夢に対してあまり強くは言えなかったが、それでも腕をつかんで大通りに出る。
無造作に掴んだ彩夢の腕は着物越しでもひんやりと冷たくて細かった。
人のいない若潮通りを歩きながらちらちらと彩夢の様子をうかがう。
こうやって横並びで歩くのもひさしぶりで、玄は明らかに気を使ってるのがわかる。一方の彩夢はそんなこと歯牙にも掛けない様子ですたすたと歩いている。
「玄の方こそなんであんなところにいたの?」
先に口を開いたのは彩夢の方だった。
「芳香堂に香木を取りに行ってたんだ。午後にくるのは初めてだったから路地が気になって。そういえば、前までは彩夢が使いに行ってたんだろ、なら彩夢がここら辺を出歩くようになったもその時ってこと?」
「そう。あそこって異国みたいでなんだか心が踊るでしょう。」
暗い空につられて深く青に沈んでいく海の方を眺めながら彩夢が言う。
嘘だ、理由はそれだけじゃない。
玄がそう考えるのには理由があった。
小さい頃、各々の家が家継ぎの教育の進度を確認するために、他の家の子と色香術を見せ合うことがあった。他の子の方が上達が早かったことにショックを受けた彩夢は帰り道、家元と玄を前に精一杯強がったのだった。
『私、白羽屋が一番の色香小屋だって言われるように頑張るから』
その言葉はそれ以降の玄の心に深く残った。しかし、その言葉は彩夢の涙を堪えた声で残ったのだった。
その時の声に近いものを玄は今の彩夢から感じていた。
「違う、それだけじゃないはずだ」
「……」
少しの沈黙の後、彩夢が話し出した。
「将来のこととか考えたらこのままでいいのかなって思うの。ああいう場所にいる大人も昼間は必死に働いてるわけじゃない? 皆頑張ってるんだって思うだけで私も励まされる気がして」
「彩夢は色香師としての道があるんだし、将来のことで焦る必要はないだろ」
「いや、むしろ焦らなきゃ。まだ悩む必要がないのは玄の方だと私は思うけどな」
「そんなことない。俺なんて将来のこと何も決めてないし、数年後自分がどうなってるかなんて想像もつかない。それなのに今演技の稽古が満足にできてるかといえばそんなことない。今を生きるので精一杯で」
「私は玄がうらやましいの」
玄が予想だにしていなかったセリフが彩夢の口から飛び出る。
「役者なんていつ花開くかわからないでしょ。玄はある日一気に成功して生活が変わるかもしれない人間。私はこれから劇的に何かが変わる可能性がない人間なの」
それは小さい頃から期待をかけられた彩夢だからこそわかる、冷静な見立てだった。
「実は、もう一つ理由があるんだ」
不意に彩夢が玄の方に振り返る。
「私、異国を旅したいと思ってるの。おつかいに行ったときにハロンさんから色々聞く度にわくわくしてて。行きたいんだって気づいた。異国では、色香術は旅芸人とかがやるみたい。私も異国ではそうやって一人でお金も稼いで生活する。ハロンさんも今の実力で十分だろうって」
玄を見つめる真っすぐな眼差しはその発言がただの思い付きでないことを物語っていた。
次々と明るみになっていく彩夢の本音に玄は何も言うことができなかった。
彩夢はふぅ、と深く息をつくとすっと切り替えて言う。
「もうすぐ日が暮れちゃう、帰らなきゃ。……今日の話は誰にも言わないでね」
照れてるのを隠すかのようにはにかむ彩夢の顔が暗がりにわかる。色香術をしている時の暗がりに見えるその真剣な面持ちとは違う顔がひさびさに見れたことを玄は少し嬉しく感じたのだった。
「玄ちゃんは聞きましたか? あの話」
「あの話って、どの話ですか? あとちゃん付けはいい加減やめてください」
数か月後、洗濯中に女中の葵が玄にこそこそと耳打ちしてきた。葵はその持ち前の愛嬌で情報をかき集める小屋一の噂好きで知られている。
「彩夢ちゃんがここを出ていきたがってるって話ですよ。反抗期なんですかね、確かに今までこれといった反抗期もありませんでしたし。家元怒ると怖いですし。でも、おばあちゃんに対して反抗期ってあるんですかね?」
「どうでしょうね」
あれ以来、玄は彩夢と話していなかった。しかし、それがいつも通りなのである。
「でも彩夢もそろそろ一人前の色香師として舞台に上がるじゃないですか。そんな時期に出ていきますかね?」
「火のないところに煙は立たないんですよ。こんな時期だからこそ噂が上がるのが怪しいっていうか。それに、初舞台の宣伝がまだ全然されていないんですよ。だから女中の間では、彩夢ちゃんは他の大きな小屋で初舞台を迎えたいと思ってるんだ、とかってもっぱらの噂です」
「彩夢に限ってそんなことは絶対ないと思いますけどね」
彩夢の白羽小屋の後継者としてのプライドを知ってる玄は少しムキになって答える。
「私もさすがにそれはないと思ってますけどねー。もしかして、玄ちゃん何か知ってます?」
今まで純粋に会話を楽しんでいた葵の目がすぐに疑念と好奇心の目に変わり、玄は詰め寄られる形となった。
「最近玄ちゃんが彩夢ちゃんの方を見ている時間がさらに多くなったなー、とは感じてたんですよ。これはさらなる聞き込みが必要かもしれません……」
「え」
「洗濯も終わったことですし、さっそく行ってきますね!」
一人で熱くなりはじめた葵は、固まった玄を尻目に行ってしまう。
「さらに、って言ってたね」
後ろを振り返ると、誰もいなかったはずの洗濯場の入り口に彩夢が立っていた。
『さらに』って何の話で出てきたっけと会話をたどるとすぐに行き当たり、玄は耳が熱くなるのを感じる。
「いやそれは! あんな話聞いたら目で追っちゃうしさ。その前のも、色々気になってただけで」
聞きながら彩夢が隣に座ると、玄の語気は途端に弱っていく。
「ふーん、そうなんだ」
彩夢はまったく信じていない様子でからかって玄の反応を楽しんでいる。
「本当なの、あの話」
「そうだよ」
玄の質問にも平然と答える彩夢に、玄は完全に動揺していた。
「玄は、私に行ってほしくない?」
核心に触れられて、玄は息が詰まるのを感じた。
自分は彩夢に行ってほしくないのか? 確かに彩夢の術で舞台に立つのは目標だった。でもそれで彩夢を引き止めるのって結局自分本位じゃないか。行ってほしくない理由は本当にそれだけなのか?
様々なことが玄の脳裏によぎるも言葉にできず、もどかしい。いっそすべて吐き出してしまえたらいいのに、と玄は思った。
「異国に行って、知らない物や人を見たりそれに触れたりして。そうしたら新しい自分が見えてくるかもしれない。今の自分を変えられるかもしれない。だから私は行くことに決めた。それなら早ければ早いほどいいと思うの」
彩夢はいつも上を見ていた。そしてそこに向かうことができる人だった。今までは彩夢を見ているだけだったけど、そうじゃない。自分の方が追いつかなくちゃいけない。
「僕は応援したいと思ってるよ。出発はいつ?」
「来週初めの船で行く」
「……!」
思ったよりも早すぎる出発だった。
「彩夢はここに帰ってくるって僕は思ってるから」
それが玄がやっとのことで口に出せる言葉だった。
目を瞑った彩夢の横顔を見やっていると、玄の方を向いた彩夢と至近距離で目が合う。
「今週末の夜公演、見に来てね。席はいつもの場所で」
次の日、玄は芳香堂でいつものように香料を受け取ると、ハロンに呼び止められた。
「このあと、時間はあるかい?」
ハロンに連れられてやってきたのは
「昨日の午後にあんたにいつ出発するか話したってのを聞いてね」
「彩夢は、ハロンさんのところによく来るんですか」
「まぁね、あの子が来るようになってからずいぶん経つね。最初は色々聞きたがりな小娘だと思ってたけど、最近はなんだか私の方も実の娘みたいに思えてきちまったよ」
ハロンはそう言いながら彩夢が初めて来た日のことを思い出していた。
『本日から使いでやってきました、白羽小屋の彩夢と申します。注文の品を承りに来ました』
丁寧な言葉遣いから受ける上品な立ち振る舞いとは裏腹に、その姿にはまだあどけなさを感じた。
ある日、ハロンが佐曽羅に来るまでに住んだことのある異国について話すと、彩夢は目をキラキラさせながら聞いた。この時だけは、彩夢が年相応に見える気がして、ハロンは異国のことについてよく話すようになったのだった。
「あの子は色香術が嫌いなわけじゃないんだ。旅することになったって術は辞める気はないって言ってる」
それを聞いて玄は少しだけホッとしたのを感じた。
「あんたは色香術好きかい?」
「もちろんです」
「……なら良かった」
ハロンはその返事を聞いて笑みを浮かべる。
「ただ、あんたには笑って見送ってやってほしいのさ」
優しい目をしている、玄はハロンを見てそう思ったのだった。
平日の昼の公演では客席を埋めることができない白羽小屋でも、週末の夜公演となれば話は別だ。席は日の暮れる前に完売し、立ち見席まで埋まる。
いつも見ている小屋とはかなり変わった小屋を玄は新鮮に感じていた。
開演前は普段立ち寄らない楽屋に行くと、家元は準備でそこにはおらず部屋には玄と彩夢二人となった。
「どうして今日の公演には俺に来てほしいって言ったの?」
「今日はね、お婆さまがこれがここでの最後の舞台になるかもしれないからって、後半にかけての術を私に任せてくれたの」
「それは楽しみだ」
これは本心からの言葉だった。ただ、同時に最後という言葉が玄の心に改めて重くのしかかる。
「いつかこの色香術で玄が舞台に立つんだとしたら、その前に見せておいた方がいいかと思って、ね?」
さらっと放たれたその言葉で玄の気持ちがどれほど楽になったのだろうか。
客席は足元が見える最低限の灯りまで暗くなり、いよいよ舞台が始まる。
普段は俳優の技術などに目を向けている玄も、今日ばかりは彩夢の様子や自分がこの舞台に立っていたらどう演じるか、など感傷的な見かたをしてしまう。
主人公の男はとある女と出会い駆け落ちをするも、見つかって引き離されてしまう。恋に破れて旅する道中、かきつばたの花を見て女性のことを思い出すシーンで物語は終わる。
観客全体が悲劇を予想し寒々とした悲しみの感情を持っていた。
しかし、舞台に広がったのはそうではない、気品ある若紫色のイメージ。男は女との恋を自分の中で捉えなおし前向きなものにしようと確固たる意志を貫いたのだった。
それを感じた瞬間、玄は彩夢の方を見た。その表情を見て、玄は作中の男に似た気高さを感じた。
これは彩夢なりの自分への言葉、不器用で恥ずかしがり屋でそれでも自分のしたいことを貫く幼なじみからの言葉、そう玄は感じたのだった。
翌日、出発の日である。
日が昇るか昇らないかという明け方。水平線上が橙色に染まっている。
桟橋には海外からの輸入品を載せた貨物船が停まっている。しかし、船員は荷下ろしで倉庫に出払っているため、そこにいるのは二人だけだった。
家元や他のお世話になった女中たちに見送られながら小屋を出てから、会話は起こらなかった。ここまで無言のまま来てしまった以上、急に普段通りの会話をし出すのも気がひけるような気がした。最も普段通りの会話と呼べるようなものは二人の間になかったのだが。
「元気でな。体調と怪しい異国人には気を付けるんだぞ」
「何それ、お母さんみたい」
と彩夢は笑ったが、母親のいない二人にとってその言葉はなんだか現実味のない話に思えるものだった。
「ありがとうね」
「俺は……また彩夢に会いたいって思ってる」
「絶対どこかで会えるよ」
彩夢の手を握った瞬間、水平線からぱーっと光が一気にあふれ出した。
すこし滲んでいた玄の目にはその光がぼやけて視界全体に広がったように見えた。
「もうすぐ出航だけどお嬢ちゃん、乗っていくんだろ?」
積荷は降ろし終わり、船頭らしき男が彩夢に話しかける。
彩夢の乗り込んだ船が小さくなっていくなか、玄が微かに感じたその香りはほのかな桜色。季節外れの桜の木を玄ははっきりと思い浮かべたのだった。
これから『小説家になろう』限定での作品も書いていこうと思っていますので、ぜひブックマーク・お気に入り等お願いいたします。
評価・感想もお待ちしております。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。