ふたりでひとりの夫婦探偵 〜安楽カウチ探偵・空木奈帆の事件ノート1〜
安楽カウチ探偵、という言葉がある。
現場に赴くこともなく、推理もしない探偵。とどのつまり、プー太郎、プー子というやつである。あるいは働く気もないからニートかもしれない。
「今日の晩、何がいい?」
「なんでもいいー」
「ぼんやりでもいいから言ってほしい」
「豚肉か牛肉か鶏肉」
「よかった。ウサギ肉って言われたらどうしようかと」
私はいったん座れば離れられないソファに沈み込みながら、晩ご飯の希望を言う。何一つおかずの候補は絞れていないのに、旦那は納得した顔をしてキッチンに戻っていった。たぶん彼は私が何を出されても満足そうに食べることを見抜いている。何もする気は起きないが、その分文句を言ってはいけないことだけは自分によく言い聞かせているから。
「今日も何とか、平和に終わりそうだね」
「まー……そんなに毎日毎日、殺人やら強盗やら起こっても嫌でしょ。このあたり、そんなに治安悪いわけじゃないんだし」
「そうなんだけどね。あれだけ毎日のように事件があった後、一週間音沙汰がないと、やっぱりもやもやするというか」
うちの旦那はマイペースな男だ。私の体調が悪いとかで不機嫌でも、彼と話しているといつの間にか彼のペースに飲み込まれて、気づけば自分のことなどどうでもよくなってしまっている。思えば、彼に初めて会った時からそうだった。そう思っていたのに、だいたい事件というものは私たちの時間の邪魔をしてくる。
「……っ!」
「……えっ」
「間違いない……『臭い』がする」
旦那が包丁を取り出したところで、そのまままな板の上に置いてキッチンを出て、そそくさとコートを羽織る。
「やっぱり何か、仕組まれてるんじゃない?」
「そんなことはないって、信じたいけどなあ。奈帆ちゃん、鶏肉と野菜は出しといたから、あとの支度は頼んだよ」
「えぇーっ。……えぇーっ」
「そんなこと言っても。君が現場に行くかい?」
「行かない。絶対嫌。100億積まれてもヤダ」
「でしょ? じゃあ、行ってくるから」
「ふぁーい……」
コートを着てそそくさと玄関を出る旦那を見送りながら、私はとびきり大きなあくびをする。思い切り背伸びもして肩もパキポキといわせながら、キッチンに立つ。
「うげー……」
あからさまに嫌な声を私は出す。お腹は空いた。ご飯を食べたい。ちなみにお米は旦那が炊いてくれた。だが私はお肉のパックを開け、野菜と炒め、味付けも考えなければならない。そんな芸当、私にできるだろうか?何せ、これから晩ご飯の支度をする、という時に「こんな事態」になったのは初めてなのだ。嫌がらせとしか思えない。
「ぐぅ……あぁっ」
案の定、パックを開けるのに失敗。攻撃を受けた怪獣のようなうめき声を出して、私は鶏肉をぶちまけた。
「きゃっ」
鶏肉の収拾がついたと思ったら、今度はキャベツを切る時に一緒に軽く指を切ってしまった。もう散々だ。ご飯の用意をするのは私には向いていない。というより、一人で生きるのも向いていない。大学時代に身につけたはずの一人暮らしの生活力は、全てこの世のどこかに置いてきた。探すこともできない。
「もーいいや」
このまま一人で頑張って支度を続けるより、旦那にはさっさと用事を終わらせてもらって、旦那に代わってもらう方がいい。大惨事になる予感しかしない。ここで死ぬよりましだ。ソファに寝転び直し、どうやって時間をつぶそうか考え始める。人間とは案外都合よくできていて、しばらくご飯にありつけないとなるとそれはそれでいいかとなる。ご飯を取り上げられたわけでもなし、待っていれば絶対においしいご飯が出てくる。そう認識すると、急に眠気が襲ってきた。しかし起きろとばかりに、旦那から電話がかかってきた。
『とりあえず着いたよ。110番と、高見さんにも連絡した』
「他殺なの?」
『たぶんね。今回は分かりやすい』
「犯人が近くにいないか、注意してね」
『気をつける』
現場に着いた旦那の口数が少ない時は、それだけ凄惨な光景が彼の目の前に広がっている。気の毒だが、視覚を共有とかできなくてよかったな、と私は思ってしまう。
『いったん深呼吸するから離れるね』
「うん。無理しなくていいからね」
『……そういえば、すぐ電話に出たってことは。晩ご飯の用意、してないね?』
「……やっぱり私には向いてない仕事だと思います」
『すぐ解決しないかもしれないけど。いいの?』
「がまんするー……」
しばらく沈黙が流れる。この間も電話はつないだまま。夫婦間だと電話代は定額、というプランに入っていてよかったとつくづく思う。血が流れている現場だと、旦那はこうして休憩時間を作るのだが、今回はいつもよりも気持ち長かった。よほど凄惨な現場だったのだろう。それなら、私も早く協力しなければならない。
「周りに気をつけて」
『分かってる。ただ……あまり計画的じゃなさそう。痴情のもつれで衝動的に殺した、って感じがする』
「なるほど……じゃあ、任せるね?」
殺人のような派手な犯罪であるほど、犯人が様子見に舞い戻ってくる確率は高いという。バレてはいないか、あるいはすでに警察が到着していたとしても、どこまで進展しているかを確かめたくなるらしい。事件の第一発見者がまず疑われるのも、そこからきているのだろう。もし犯人と旦那が鉢合わせでもしたら。凶器でも持っていれば、旦那も無傷では済まないだろう。
私は家のソファに寝転んだその状態で、そっと目を閉じる。辛い現場を目の当たりにしている旦那のことを思う。すると曇り空にやがて一筋の光が差すように、真っ暗な私の視界に光が集まり、ぱあっと明るくなる。それが、『旦那に頭脳を共有できた』証拠だ。
『君の頭脳を借りるよ。奈帆』
「早く終わらせてよ。お腹空いた」
『はいはい』
傷口の形、凶器の大きさ。残った所持品から背景の推測。追加で見つけられそうな証拠品の予想と捜索。犯人がとるであろう次の行動、さらにその先の考え。それら全てを同時並行で考え、頭の中で組み立て直す。通報を受けた警察官が出動し、遠くからサイレンが聞こえてくるころには、それらの作業はすべて終わっている。今回は推理を終え、証拠品の中で特に犯人の臭いが強い物を見繕って、臭いを旦那に覚えてもらってなおお釣りが返ってきた。また気分が悪いと言った旦那が少し現場から離れたところで休憩している間に、警察が到着した。
『ああ……もう『終わった』んですか』
『あとはお任せします。僕は犯人を追います』
知り合いの警視庁捜査一課の刑事、高見さんがため息混じりに旦那に声をかけるのが電話越しに聞こえた。すでに警察が保管するべき証拠品の数々の陳列は終わっている。これだけやれば、もう警察関係者でなくとも犯人は特定できる。旦那が走り出してくれた。
『まだそう遠くには逃げてないみたい。近くのコンビニで変装道具を漁ってる。そんな感じかな』
「じゃあ、ご飯も早く食べられそう?」
『僕にも休憩させてね?』
「散々休憩したじゃない」
『あれは別に息が切れてとかじゃないから』
私が頭脳を提供して推理を終えれば、あとは体力と五感に優れている旦那の仕事だ。後で聞くに「生ゴミに似た不快な感じ」という臭いをたどって、旦那はあっという間に目的地にたどり着いた。コンビニに入り、一番奥の惣菜パンのコーナーで物色している、ニット帽をかぶった男が犯人だと突き止めた。
「お前は……!」
『はあっ』
ここで旦那が力で負けることはない。仮に凶器を持っていたとしても、柔道有段者の彼は犯人が手を動かす前に大外刈で床に叩きつける。唐突な衝撃を与えられた相手は大抵一発で意識を飛ばす。強引ではあるが、今のところ私たちが関わった事件はだいたいこういう形で解決している。
『終わったよ。あとはこいつを警察に引き渡して、帰宅だ』
「ありがと、ご苦労様。じゃあご飯を……」
『はいはい』
私が中高と首席で卒業し、日本最高峰と名高い帝都大法学部に入学、二年生で司法試験に受かり首席で早期卒業していたころは、まさか自分がこんな人生を送ることになるとは思っていなかった。検察官として働いていた半年の間、旦那に会うことがなければ。私はきっと、真面目で融通の利かない女のままだった。
「ただいま」
「おかえりー」
「そんな急かす目で見ないで。僕にも休憩させてよ」
私が提供するのは頭脳。旦那が持つのは極度に強化された五感。警察だけでは手こずる相手は、私たちのどちらかだけがいてもどうにもならない。夫婦揃い踏みして意味をなす。
――だから私たちは。夫婦二人揃って初めて、「安楽カウチ探偵」だ。