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小碓武VS伊吹尚弥⑶ 幻影之右

 ファントム・パンチ


 かつて、あのモハメド・アリやフロイド・メイウェザー等、歴代世界王者の中でも屈指の名ボクサーが得意としたパンチで、相手を引き込みながら放つ、超高速の右ストレートのカウンターだ。


 俺も得意とするロックアウェーというリターンカウンターと似たパンチだが、メイウェザーの試合を観ると、信じがたい事に相手が放った左ジャブの引きよりも早くリターンの右ストレートを叩き込んでいるのだ。


 そんな人間離れしたスピードのパンチを伊吹は俺と同じぐらいの年齢で習得しているのか?


「カネシロはコイツで一撃だったぜ。意識があるのは流石だが、テメーも立てねぇだろ?」


 オイオイ待てよ。


 本当だとすれば中学の時、既にファントム・パンチを使いこなしたって訳か?


 そんな事は有り得ないと、この身で喰らわなければ信じていない話だろうが、この体が伊吹の言葉を真実と受け止めてしまった。


 つまり、俺は伊吹に飲まれてしまった。


 俺ではコイツに勝てない。


 その事を脳が理解してしまうと、身体がこれ以上動かなくなってしまった。


 澪の忠告を無視せず、彼女の言う通り大人しく通報をしていれば良かったのか?


 俺がそんな後悔の念に捕らわれた時だった。




「タケル……武! 起きろ! 目ぇ覚ませヤァっ!」


 それは失神から目覚めた麗衣の声だった。


「武……あたしの下僕なら起ちやがれ! あたしと……勝子の為に起ちやがれえっ!」


 麗衣の声で俺は考えるよりも先に、ご主人様の命令には絶対服従という条件反射で体がビクンと跳ね上がり、自分でも嘘のようにシャキッと立ち上がった。


「……はあっ?」


 冗談の様に立ち上がった俺を見て、しもの伊吹も理解出来ないと言ったような表情で首を傾げていた。


 俺はその間抜けな顔を見て、伊吹に対する恐怖心が急速に薄れて行く事を感じた。


「俺に取っちゃ、ご主人様の命令は絶対ってことだぜ! テメェには分からねぇだろうなぁ!」


「テメー頭がおかしいのか?」


 当然の事ながら伊吹は理解に苦しんでいたが、分かって貰おうなどと思わない。


「武! 伊吹を倒せるのはお前しか居ねぇ! 伊吹をぶちのめせ!」


 あやうく勝子の命令を放棄するところだったが、もう一人のご主人様である麗衣の命令も加わり、俺は益々伊吹を倒さなければならなくなった。


「女の声で立ち上がるだと? こんなラブコメみたいな馬鹿な展開あるか?」


 呆れながら伊吹は牽制気味に軽くジャブを打つ仕草で肩を動かすと、頭を振りながら右ストレートを打ちながら飛び込んで来た。


 正面から真っすぐ飛び込むとカウンターの餌食なので、フェイントとヘッドスリップを交えて飛び込んで来た訳だが―


「な……に……」


 俺は伊吹のヘッドスリップを読み、外側に放った右ストレートが伊吹の顔面を捕らえていた。


 飛び込んできたところにカウンターが決まり、伊吹とは言えダメージは免れなかった。


「ご生憎様。このクソったれた世界はラブコメで出来ているんだぜ!」


 俺は至近距離から外へジャブを打つと、伊吹はガードを上げて俺のパンチを外に払った。


 でもこのジャブは誘いだ。


 外へ意識を向けさせたところで、右ストレートを放つと、これも伊吹の顔面を打ち抜いた。


「ぐっ!」


 敢えて外へジャブを打ったのは外を意識させる以外にも、ヘッドスリップとサイドステップを封じる意図があった。


 恐らくサイドへ逃れようとしていた逃げ道を左ジャブで断ち、左側にヘッドスリップもしにくくなり、必然的にガードで防がざるを得なくなる。


 そして、外側にガードをする事で中が空く為、インサイドへの右ストレートが当たりやすくなるのだ。


 しかも、俺が打った右ストレートは肩が先に動かす前に前足に体重を乗せたノーモーションのパンチで、これも魔裟斗が使っていたパンチで総合格闘家の金原正徳も得意とするパンチだ。


 足を回して、腰が回って、体が回って、最後に手を回す教科書的な右ストレートの打ち方では肩を回す時のモーションで見抜かれてしまう。


 だから、縦の動き、前足に体重を乗せ、最後に横の動きを入れたノーモーションのパンチを放ったのだ。


 似たパンチである先程放った空手の追い突き風のパンチ程距離は伸びないが、今のパンチの方がモーションを読まれづらいのでパンチを命中させやすい。


 只、このパンチの弱点は体重が前にかかり、後ろ足が前に行ってしまう事だ。


 その為、完全に伊吹のショートパンチが届く間合いに入ってしまった。


 でも、こちらの攻撃の間合いでもある。


 俺は前に出た右足の反動を利用し、上半身を後ろに反らしながら、太腿と脹脛を畳んで引き上げた左の膝蹴テンカオりを伊吹のボディに突き刺した。


 これは最近、ジムでプロキックボクサーとのスパーリングで相手を悶絶させた、とっておきのコンビネーションだ。


 だが、俺の必殺の膝蹴テンカオりも伊吹には効いちゃいなかった。


「ハッ! こんなモンかよ!」


 俺が咄嗟に脇を締め、簡易バンテージを嵌めた手を耳の後ろに当て、側頭部から後頭部をガードすると俺の腕を砕かんばかりの強振された左フックの衝撃が腕中に走った。


 怯んだら敗ける。


 そう思い、俺は返しの右ストレートを打とうとするが、目の前から伊吹は消えており、左サイドから放たれた伊吹のライフルの様な右ストレートが俺の鼻を打ち抜いた。


「ぐうっ!」


 ポタポタと垂れる鼻血が地面を濡らす。


 伊吹は左フックを当てた勢いを利用しながらサイドに移動し、こちらがすぐに反撃出来ないポジションを取ると、俺の視界の外からすかさず右ストレートで攻撃を仕掛けてきたのだ。


 ヤバいな。


 鼻血を出血してしまったので、自然と呼吸が苦しくなるので長期戦が厳しくなる。


 それに只でさえ地力に差があるのだ。


 普通に戦っていては絶対に勝てない。


 如何すれば良いのか?


 勝子ならばこんな奴を前にしたら、如何やって戦うだろうか。


 そんな事を考えていると、俺は如何しても腑に落ちない事があり、伊吹に聞いてみたい事があった。


「なぁ、お前は如何してこれだけの実力がありながら、勝子を銃で撃ったんだ?」


 俺の問いかけを受け、伊吹は一旦攻撃の構えを解いて答えた。


「あ? 何を聞いて来るかと思えばツマラねぇ質問だな。アイツとじゃあ遣り甲斐がねぇと思ったのと、お前を見定めるためだ」


「俺を見定める?」


「仲間が撃たれてビビる様な臆病者チキンを兄貴が興味を持つはずもないし、俺と組む価値もない。そう言った意味ではお前は及第点だったぜ」


 俺は以前、勝子が俺の事を羨ましいと思い、ボクシングに復帰する決意を述べていた事を思い出した。


 あの時、アンタに負けないと言い、高校選手権国体優勝。全日本選手権で3位という具体的な目標まで上げ、口先だけでなく、毎日誰よりも練習をしていた。


 その勝子の目標も……夢も……叶わなくなったのは俺への関心のせいだと言うのか?


「そんな事で……そんなくだらない事でアイツの……勝子の夢を奪いやがったのか!」


「夢? 何の事か知らねーけど、どうせ素手で戦っても周佐なんざ俺の相手じゃねぇよ。それより、俺が興味あるのはお前だよ」


「お前なんかより勝子の方が万倍は強い。勿論俺よりもな……それを今、アイツの弟子だった俺が証明してやるよ」


 俺はスイッチして右手と右足を前に出したサウスポースタイルに構えた。


 不意にスイッチした俺の構えを見て、伊吹は笑い出した。


「テメーの喧嘩動画は上がっているヤツは全部見たけれどよぉ、サウスポーで戦った経験なんかねーだろ? 見え透いたハッタリか、付け焼刃のサウスポーが俺に通用すると思うか?」


「そんな事を言う割には俺の喧嘩動画をそんなに熱心に観るなんて随分俺の事を警戒しているじゃないか?」


「そうだな。大抵のヤツは決まった攻撃パターンがあるが、お前は喧嘩の度に毎回何かしら違った事をやるし、得体のしれない強さに興味があるのは事実だし、そういう意味じゃあ警戒してたのかも知れねーな……」


「随分素直じゃないか」


「実際、結構楽しませて貰ったからな。テメーの強さは認めてやんよ。だが、サウスポーも只のハッタリだったら病院送りじゃ済まねーかもなぁ!」


 MMAでは組技をかけやすくするために他の打撃系競技と違い利き腕を前に構えるのが基本の為、MMAを習う際にサウスポースタイルへのスイッチも学び、最近はボクシングの練習でも取り入れていた。


 確かにサウスポースタイルの練度はまだまだ低いし、伊吹から見れば付け焼刃も良いところだろう。


 だが、今の俺には勝子と練習した()()()ぐらいしかコイツのファントム・パンチを破る方法は思いつかなかった。


「精々俺を失望させるなよ」


 伊吹はダンスの様に軽やかなアリステップを踏み、俺の周りでサークリングを始めた。


 下手に攻めれば伊吹の間合いに引きこまれ、ファントム・パンチによるカウンターの餌食になるだけだ。


 だが、()()()を当てるには危険を承知の上で勇気を持ってこちらから仕掛けなければならない。


「武……負けるんじゃねーぞ!」


 麗衣の声援は俺に百倍の勇気を与えた。


 俺はサークリングを描く伊吹に対して、メキシンカンのステップで直線的に間合いを詰め、進路を塞ぐと、サウスポースタイルからのいきなりの左を放った。


 しかし、直線的に間合いの詰めること自体は典型的なアウトボクサー対策であり、伊吹も慣れているのか?


 スウェーバックしてあっさりと俺のパンチが躱されると、パンチを打った勢いで俺の頭は前足の上に移動した。


 つまり、相手からすればカウンターを当てるには絶好のポジションに俺の頭はあった。


 伊吹はすかさずファントム・パンチによるカウンターを返す()()を感じた。


 待ってたぜ!


 俺はヘッドスリップしながら、渾身のオーバーハンドライトを振るうと、伊吹のファントム・パンチと拳が交錯した。


 あたかも石で掠られ、焼けつくような熱さで頬の皮に熱線が走ると、拳が頬を穿ち粉砕し打ち砕かんばかりの音がロビー中に響き渡った。


「な……に……?」


 焦点がずれた伊吹の口がそんな風に動いた様に見えた。


 顔面を打ち抜いたのは俺の拳の方であった。


 パンチが空転した伊吹の首がねじれ、腕を空転させ、目と体が大きく泳ぐと、伊吹は糸が切れた人形の様に崩れ落ちた。


「如何だ! コイツはお前が馬鹿にした勝子から教わったカウンターだ!」



 クリスクロス。



 カウンターのカウンター返しという超絶技を前に、伊吹ですらひとたまりも無かった様だ。


 このクリスクロスは俺が何時からか呼ばれていた異名にあやかり、後にこう呼ばれるようになる。



 ファントムを超える幻影イリュージョン




幻影之右イリュージョンライト

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