小碓武VS伊吹尚弥⑵ ファントムの由来
伊吹に尻餅を着かせたこのコンビネーションはかつて魔裟斗が強豪ムラッド・サリをKOした時のコンビネーションの再現だ。
俺は放った左ジャブを引き始める前に右ストレートを放ち、更に右ストレートを引き始める前に、左フックを返しており、通常1・2・3のタイミングで打つパンチを1・1.5・2のタイミングで超高速のワンツーフックを放ったのだ。
それでもワンツーを躱し、左フックの相打ちに持ち込んだ伊吹は流石と言えるが、右ストレートを引き戻さないタイミングから放ったこちらの左フックの方がコンマ数秒の差で早く命中し、地面に立つ者と座る者とを分けた。
「中々ヤルじゃねーか。ダウンはおろか、パンチを喰らうのだって随分久しぶりだぜ」
伊吹はダメージなど無かったかの様子で直ぐに立ち上がると、右手を顎の前に、左手を前に出し、重心を前足に乗せたクラウチングスタイルに構えた。
ようやく下げていた腕を上げ、ガードを上げたので本気になったという事か?
「良いぜ。お前のスタイルに合わせて、もう少し遊んでやるよ」
「ハッ! ダウン取られながらよく言えたものだな!」
俺が間合いに踏み込もうとすると、伊吹は左肩を動かしたので、俺はカウンターを警戒し自然と足が止まってしまった。
そこを見逃さず、伊吹は踏み込みながらいきなりの右ストレートを強振した。
俺は反射的に左手でブロックすると腕がジンジンと痺れた。
コイツをまともに喰らうとヤバいな。
俺がそう意識するのも束の間、左に繋げず、再び右ストレートを放ってきた。
キックボクシングではあまり見かけない右のダブルだが、右ストレートを意識させられていたので咄嗟にパリングで防ぎ、すかさず右ストレートを返した。
格闘技経験者は相手の攻撃と同じ攻撃を反射的に切り返す事も多い。
だが、伊吹の右ストレートは誘いだった。
伊吹は俺の右ストレートに合わせ、左フックを返して来やがった。
俺に右ストレートを打たせるのが目的で二発目の右ストレートは敢えて軽めのパンチだったのだ。
俺は伊吹の左フックの勢いに逆らわず、脱力した状態で首を捻るスリッピング・アウェーでパンチの威力を殺すと、返しに俺も右フックで返した。
しかし、文字通り、暖簾を腕で押した様に手応えも無く、伊吹も俺と同じく首を捩じるスリッピング・アウェーで俺のパンチをふわりと流した。
伊吹が左ボディアッパーを返す構えを見せたので、俺はバックステップして間合いを切り、伊吹との距離を取った。
「ハハッ! まさかキックボクサーがスリッピング・アウェーを使うとはなぁ! つくづくテメーには驚かされるぜ!」
伊吹の表情を見る限り、言葉ほど驚いた様子はない。
「お前も左フックもワザと軽めに打って、身体を捩じり切らない状態でスリッピング・アウェーをし易い状態を保ちながら、俺の左フックまで誘って、最後のカウンターの左ボディが本命だったってところか?」
「ご名答。まぁ悟られて逃げられちまったがな」
やはり今までの試合や喧嘩で相手にしてきたアマチュア連中とは桁が違う。
フェイント一つでも判断を見誤れば命取りになりかねない。
「楽しいなぁ、小碓♪」
「俺はそんな気分じゃねーぜ」
コイツに対する怒りと恐怖もあって楽しめる気分にはなれないが、喧嘩を楽しんでいる伊吹に飲まれない様に、今度はこちらから攻めて行った。
牽制の左ボディストレートを打ち、伊吹のガードを下げた瞬間、素早く膝と腰を使って上体を捻り、右ストレートを打つと、伊吹はひょいとヘッドスリップして軽く躱しながら、右ストレートを返して来た。
「ぐっ!」
躱しきれない為、俺は敢えて頭を下げ額でパンチを受け止めると頭が鐘を突かれた様にガンガンと響いた。
こんなパンチを急所に喰らったらKOは必至だ。
幸い、追撃をかけてこなかった伊吹は間合いを切ると俺の周りを廻り、蝶のように舞う鮮やかなアリステップでサークリングを描き出した。
「如何した? 蹴りを使っても良いんだぜ?」
伊吹はそう挑発を仕掛けて来たが、恐らくこれも誘いだ。
喧嘩は見ていなくても、麗衣が倒されてしまっている事から察すると、ボクサー殺しのローキックやミドルキックも恐らく通用しないという事だろう。
まぁ、世界暫定王者を倒した伊吹相手にパンチだけで挑むのは無謀なのは分り切っているが、蹴りを使うのはそれ以上に嫌な予感がする。
「ハッ! とっておきは最後まで秘密にしておくもんだぜ」
「ボクサー対策のセオリーに捕らわれずに良い判断だな。その勘もテメーをここまで強くしたんだろうな」
そう言うと、伊吹は不意に足を止め、だらりと腕を下げると顎を前にやった。
「褒美だ。テメーに良いものを見せてやるよ。まぁ、テメーが見えればの話だが」
伊吹が舌を出し、ノーガードで俺を挑発してきた。
「舐めんなコラアッ!」
何かを狙っているのは分かり切っていたが、ならばこちらもフェイントから入ればいい。
俺は先膝を柔らかく使って重心を下げ、程と同じ様に左ボディストレートから入ると、伊吹はバックステップしながらパンチを躱した。
先程のパターンだとツーの右ストレートが躱されたが、ヘッドスリップで躱す間も与えず顔面へ左ジャブを放った。
だが、伊吹はヘッドスリップではなく上体を引いて、鮮やかなスウェーバックで躱した瞬間、俺の左ジャブを戻すよりも早く鉄アレイでぶん殴られたかの様な衝撃で俺の顎が跳ね上がり、首を大きく反らした。
「えっ?」
見上げた天井はやたらと近くに見えてぐるぐると廻り、平衡感覚を失った俺は受け身も取れずに地面に突っ伏した。
「ハハッ! テメーも幻影之右とか呼ばれているらしいけどなぁ、俺の幻は見えたか?」
俺はぐちゃぐちゃに脳みそを揺らされながら、伊吹の異名が「ファントム」である所以を辛うじて理解した。
かつてモハメド・アリがWBC世界ヘビー級タイトルマッチの防衛戦で、ソニー・リストンを1RでKOした幻の拳。
『ファントム・パンチ』




