小碓武VS伊吹尚弥⑴ 交渉決裂
「気が合うなぁ……弱い者苛めって言うのは俺も同感だ」
伊吹はようやく麗衣の体から足を下ろした。
「もう名前を確認するまでもねぇな。小碓。一つ提案があるんだけど聞いちゃくんねーか?」
「提案?」
この期に及んで何を言い出すのか?
手下どもをやられてビビったのか?
いや、かつて暫定とはいえ世界王者のボクサーを倒したコイツが俺にビビるとは思えない。
俺が本意を掴みかねていると、伊吹はソファーの隣に置いてあったトランクを持ち出し、それを開くと、どうやって手に入れたのか? 多くの札束が中に入っていた。
「三千万ある。勿論偽札なんかじゃねぇ、全部モノホンの諭吉だぜ?」
「お前の家が金持ちだとでも自慢したいのか?」
「家は関係ねぇよ。コイツは俺が稼いだ金だぜ。こんなもん、俺の願いが叶えばはした金だ。そんな事よりか、コイツをお前にくれてやるよ」
思わぬ提案に俺は喜びよりも警戒心が芽生えた。
「タダでくれるって訳じゃないんだろ? 何が目的なんだ?」
「何、単純なこった。お前、俺と組めよ」
何を言っているんだコイツは?
以前香織をレイプした事や勝子を撃ったことを忘れたのか?
「ふざけるな! 香織と勝子に何をしたのか忘れたのか!」
「成程、仲間の手前、金を受け取りずらいか。ならばコイツは慰謝料だと思って納めてくれても良い。周佐達の価値を考えれば釣りが来るぐらいだろ?」
「勝子の価値がたったのこれだけだと? アイツは間違いなくオリンピックでメダルを獲れる逸材だった。それをたかだか三千万だと! 香織だってそうだ! 人の価値なんて金に換算できるものじゃないだろ!」
「残念だが、この三千万の価値もない人間なんてそこいらにゴロゴロいるぜ。まぁ、さっきも言ったがこれは俺の願いが叶えばはした金だからな。俺に黙って着いて来さえすりゃあ、追加で金を払ってもいい」
「胡散臭いね。如何して俺をそこまでして買うんだ?」
「テメーが兄貴のお気に入りだからだよ」
「……兄貴だと?」
思わぬ返答に正直困惑した。
伊吹に兄がいる事など知らなかったが、俺には伊吹性の知り合いも友達も思い当たらなかった。
「誰かと勘違いしているんじゃないのか?」
「いや、小碓武。間違いなくテメーは兄貴のお気に入りだ。何故なら麗で活躍しているお前の事を俺に教えたのはアイツだからな」
そんな事を言われても目の前の小男以外に伊吹と言う人物に思い当たる節が無い。
俺の困惑を嗅ぎ取った伊吹は薄気味悪い笑顔を浮かべながら話を続けた。
「まぁ、テメーもアイツの掌に踊らされている内は誰の事か分かりやしねーだろうな。で、アイツは麗、ひいてはテメーも潰すように俺を刺し向けた。俺はアイツの手に乗った様に見せかけた……」
コイツが何を言っているのか分からないが、知らない内に俺が何者かの意図によって操られていたと言いたいのだろうか?
「だから、俺達は麗の連中を襲った。周佐を撃つと言う明確な形で兄貴に俺が本気である様に見せかけた。そして、最終的にはお前と俺が潰し合う。アイツはそんな未来図を描いていた訳だが……」
「要するに何が言いたいんだ?」
「まだ分からねーか? このまま俺達がやり合うのは簡単だ。だが、それは兄貴の掌の上の出来事にしかならねぇ……だから、俺とお前が組んで、兄貴を潰すんだよ。それが俺の目的だ。金を受け取れ。小碓。そして俺と組め」
「断る! そんな汚れた金で勝子の治療費にしてやったらアイツに俺が殺されるだけだしな」
俺が勢いよくトランクを蹴り飛ばし、地面に札束がバタバタと落ちると、伊吹の目が細くなり声のトーンが下がった。
「小碓……テメー餓えたことは有るか?」
「は? 何を言って……」
「強く育てる為とやらで、言葉も分からねー一文無し状態で一人でタイに置き去りにされた時、文字通り泥水を啜って残飯を漁って、わずかな金を得るために賭け試合に出て居たぜ……。あの時は金がどれだけ欲しかった事か……テメーみたいな女の為に格闘技を始めた様なお坊ちゃんには分からねぇだろうよ」
何者かに俺が格闘技を始めた経緯まで知らされているのか? 何故かその事を知っていた。
俺が麗衣を守りたい一心で格闘技を始めた事を知っているのは勝子や姫野先輩、環先輩と亮磨先輩、あとは既に日本に居ないブラッドさんぐらいしか知らないはずで、彼らの口から誰かに漏らしたとも思えない。
兄貴とやらはこちらに尻尾も掴ませずに俺の事を全て把握しているかのように思えて気持ち悪い。
「それでもテメーの事は買っているんだぜ? もう一度考え直せ。俺と組め」
伊吹の言う通り、伊吹と組んで正体不明の敵に立ち向かった方が良いのかも知れない。
コイツの話が本当だとすれば、伊吹を仕向けた伊吹の兄が真の敵という事だが、話に何の信憑性も無い。
その事を差し置いて、勝子の今後の治療代を考えれば、ここで伊吹の提案に乗るのも一つの手かも知れない。
だが、俺の決意は病院に来る前から決まっており、どんな事実があろうと揺るぎようが無い。
「俺が誰かに踊らされてるって言うなら、俺がお前と、ソイツも纏めてぶちのめしてやるまでだ!」
「交渉決裂って訳か……良いぜ。お前がどれだけ馬鹿な選択をしたのか、身を以て分からせてやるぜ!」
その伊吹の言葉を皮切りに、喧嘩が始まった。
だらりとガードを下げたまま、伊吹は距離を詰めて来た。
離れた間合いからあっと言う間に距離を詰められ、パンチの間合いに入ると攻撃をする事も無く、俺を挑発するように舌を出した。
「舐めるな!」
俺が薙ぎ払う様に左フックを放つと、頭だけ軽くUの字に動かすウィービングで躱すと、瞬く間にパンチの届かない距離まで離れていた。
普通ボクサーの間合いは他の立ち技格闘技よりも近いのだが、引くにしても接近するにしても俺が今までスパーや試合を経験したどのキックボクサーよりも距離が長い。
だが、勝子とスパーをした時に似た様な感覚で翻弄された記憶はあり、その時と原理は同じだろう。
恐らく接近したのは、後ろ足を前足に寄せてから前足を出すメキシンカンのステップであり、引く時は逆に前足から引き、その後に後ろ足を引く事で普通のステップよりも距離を稼いでいるのだ。
このバックステップで逃げられると、こちらの制空権で攻撃をするのは難しい。
だが、長身の相手対策で格闘技を始めた頃から磨き続けている得意なパンチがある。
俺は再び距離を詰めて来た伊吹に左ジャブを放つと、伊吹は再びバックステップで距離を取ろうとした。
逃がしやしねぇ!
俺は後ろ足であるの右足を前に出すようにして踏み込むと同時に、空手の追い突きの要領で距離の伸びる右ストレートを放った。
あの環先輩にすらクリーンヒットさせた、初見で躱された事の無い俺の最も得意とするパンチだが―
「ふっ!」
世界暫定王者をKOしたという伊吹にとっては如何という事の無いパンチだったのか?
ヘッドスリップしてパンチをあっさりと躱すと返しの左フックを放って来た。
左フックはこめかみに命中し、目から火花が出る様な衝撃だった。
未だかつて喰らった経験の無いパンチ力でこめかみの骨がヒビ入ったのではないかと疑う程の痛さだった。
だが、倒れたのは俺じゃない。
「な……に?」
尻餅を着いた伊吹は信じられない様な表情で俺を見上げていた。




