置き去りの月夜
彼女が家へ来てから約一週間。
ルナは初めて会った時こそ緊張していたものの、それが解けてから懐くのは非常に早く、子供らしく飛んだり跳ねたり忙しかった。運動不足の私にはとても応える。
人間の常識も知らないようなので、しっかり仕付けなくてはならないのも大変である。この数日で普段私がしている運動の数ヶ月分を先取りした気分だ。
ちなみにスポーツは全くしていないので、普段の運動と言ったら登下校や家事くらいなものだが。
洗い物や洗濯を一通り終え、髪の束を解いてリビングに入った。
テレビの前のソファの背から除く後ろ頭二つ。その座高が高い方に話しかける。
「おはよエル。朝になったら挨拶くらいしてよ」
「ああ。悪かったな」
口ではそう言っても、こちらに見向きもせず興味なさそうな目でテレビを眺めていた。こういう素っ気ないところは直した方がいいと思う。
その隣に大人しく座っている子が真似して塩対応を始めてしまったら困るじゃないか。
......いやお母さんか。なんでルナの親気取りなのよ私。
「...私がお母さんならエルはさしずめお父さん...」
「何変な妄想してんだよ...」
エルのツッコミに心からの同意を示した。
「この人は何してるの?」
ニュースに映っている白髪の女の子を指差して、ルナは首を傾げた。
「ああ...この人は確か、巷で有名なアイドルだったよね」
アイドルの説明をしながら、ステージの上で歌って踊るその子が自分と同じくらいの歳だなと思った。
「有名...それ以上かもな」
「どういうこと?」
「今爆発的人気を誇っているらしい。都内で知らない人はいないって噂だぞ」
妙にアイドル事情に詳しいことを尋ねかけ、なんでもわかることを思い出して開けた口を閉じた。
「すごい人ってこと?」
「ああ、そりゃな」
「へえ〜...」
ルナは関心するようにうなずき、ソファから身を乗り出して食い入るようにライブ映像を見続けた。
何をそんなに見ることがあるのだろうと、アイドルに全く興味のない私は、可愛らしい音楽を遠目に聞き流していた。
ルナがテレビに集中している間、私は彼女の体を見る。
オレンジ色のジャージに紺色の短パン。私が昔着ていたもののお下がりだけど、彼女の活発な印象に合う、ちょうどよい服だ。だがサイズはまだ大きいようで、ジャージの裾から指先だけが覗いている。
ちなみに、ちょっと加工して背中に穴を開け、羽が外に出るようにした。
見下ろすと、その細い手足や幼い顔には、もうあの生々しい怪我は残っていなかった。
エルが言うには、龍族は傷の治りが早く、どれほどの致命傷を負わされても一、二週間で完治してしまうらしい。
ただし、自然治癒するには、心臓がちゃんと動いていて安静にした状態でないとならないとか。流石に死者蘇生的なことはできないようだ。
龍族について、私はエルからもっと色々なことを聞いた。
大昔に魔導師と共に栄えていて、その数は当時の人間より多かったという。
よくアニメとか漫画で見る、巨大な蜥蜴のようなまさしく『ドラゴン』みたいな姿を持つ者は少なく、ルナのように人間に角や翼を生やしているのが一般的だったそう。
戦闘能力は非常に優れていたらしいが、人間と龍族が戦うことはあまりなかったそうだ。
それもそのはずで、龍族は人間と顔を合わせることがなかったらしい。猫族は人間と協力して魔術を発展させ、身近な存在となっていたのに対し、龍族はその存在を伝説か御伽噺と捉えられていたほどだったとか。
山の中でひっそりと暮らし、人間や他の動物の前にも滅多に姿を現さなかった。そのため、人間との揉め事はゼロに等しかった。
だが、長く続いた平穏はあっというまに壊された。
数百年前に起きた世界戦争に巻き込まれ、龍族が次々と命を落とした。
敵国のせいで死んだ同胞のために戦おうとする者もいたが、それを止める者や自国の攻撃で殺された仲間を想う者と衝突し、龍族間で内乱が勃発。その数を一気に減らしていった。
今ではわずかに取り残された者たちが、人目のつかない場所に小さな村を築いて何事もなく暮らしているらしい。今後の平和を必死に祈りながら。
数の減った龍族は、かつての賑やかさを取り戻そうとはしていないらしい。再び内乱が起こるのを恐れているからだそう。
ルナはそんな生き残りたちの迷い子だという。
早急に元いた場所に帰そうにも、エルにも過去は見えない。
それに、彼女は親の顔を知らないと言う。私たちはこのままじゃどうしようもない。
『種』を回収するのもそうだが、住処に帰すのにも、ルナの過去を知る必要がある。
(まあ、無理強いは...するべきじゃないよね...)
強引に聞き出すのは性に合わないというか苦手だから、自主的に話してくれるのが一番いいのだけど。
今日の午前は晴れるという予報を聞いて、今のうちにとベランダに洗濯物を干していた。
洗剤の匂いに加え、水の湿った匂いが洗濯物以外からした。午後から雨が降るというのは本当らしい。
「雲が集まってきてるな。強く降るかもしれない」
ふと振り返ると、大きな窓からエルが顔を覗かせていた。遠くのどんよりした空を眺めている。
「ね。最近雨ばかりだから、午前中だけでも干しておきたいんだけど...」
「雨の匂いが一層強くなったら取り込めばいい。それか、愛華が顔を洗っているのを見に行くか?」
微笑を浮かべながら窓に寄りかかる彼女を見て、意外だと目を丸くした。
「そういう不確定な説みたいなの、信じるんだ?」
「いいや、信じない。だがこれは科学的に立証がされているから信じる。それだけだ」
簡単に言うと、湿気でノミが発生することが多いから、頻繁に顔をかくのだそう。また変な雑学知識がついてしまった。
「それはそうと...あいつについてなんだが」
エルは改まって体を起こし、背後のドアを見た。わずかにテレビ越しに人が騒ぐような音が聞こえる。
あいつとはルナのことだろう。まだテレビを見ているのだろうか。
「ルナがどうかした?」
尋ねながらバスタオルを振って広げ、物干し竿に引っ掛けた。
「今日、あいつの話を聞くことにした」
「ふーん......え!?」
一瞬流しかけて驚いて聞き返すと、バスタオルを取り落としかけた。
「きょ、今日!?ちょっと早くないかな...!?」
「早くない、むしろ遅いだろ。一週間も待ったんだぞ」
腕組みをしてため息をつく。まるで当然かのような振る舞いに、私の動揺は加速した。
「そうは言っても...あの子には、ちゃんと話せるように覚悟する時間が要ると思うし...」
「前二人はそんな長い時間を要したか?」
「でもまだ子供なんだよ?」
「『種』は無作為に人を選ぶ。その相手に大人も子供もない。それに、私にとっちゃみんな子供さ」
私はなんとか聞く日を延長させてもらおうと色々言ってみたが、全て一刀両断させられ、何も言うことがなくなってしまった。
逆にエルは余裕そうな顔をしている。私に何を言われても返せるようだ。
「そもそも、何故お前はあいつを庇ったりする?とっとと終わらせた方がいい。あいつの地雷を知らずに踏みたいと思っているのか?」
ぐっと口を噤む。全くその通りだ。あの子のトラウマを知らぬうちに抉ってしまうのは嫌だ。
でも何故か、あの子は愛おしくて仕方がないと思ってしまっている。あの子には苦しそうな顔をさせたくない...そんな顔を見たくないと望んでいるのかもしれない。
「とにかく、今日確実にあいつから話を聞く。一緒に聞くかはお前の好きにすればいい」
それだけ伝えて、エルは背を向けた。一緒に聞かなくてもいい...それが最低限の打開策らしい。
「......」
涼しくなってきた風が、服たちを揺らす。はためくタオルを、ドアの閉まる音と共に押さえた。
エルは言葉の通り、ルナに尋ねた。私たちと会う以前に何があったのかを。
私は結局どっちとも取れず、少し遠巻きに見守るだけだった。
だがルナは意味をあまり理解できなかったようで、質問し返してはエルをうんざりさせていた。......ちょっとだけ安心した。
エルは理解力が低い人をとことん嫌い、私の勉強を教えるのも苦手なものだから、絶対に引き受けないし、私も頼まない。ちゃんと教えられるスキルが身に付けばこれ以上ない家庭教師になり得るのに...非常にもったいないと思う。
それはさておき、自分では手の打ち用がないと悟り、仕方なく私に説明を頼んできた。
だが私はその話をさせることに賛成でないので、やはり覚悟を決めるしかないようだ。
実は最近、気になっていることがある。
深夜になってもルナが眠らないのだ。
龍族にはそういう特性があるのかと聞いても、エルはそんなことはないはずだと答える。
しかもルナの寝ている部屋は一階なのに、わざわざ私の部屋に来て呆然と窓の外を見る。たまたま深夜に目が覚めてしまった時には悲鳴があがりかけてしまう。
それに理由はあるのだろうか。不意に興味が湧いて、だんだん歯止めが効かなくなっていく。知れるものなら知りたいと好奇心が言う。
「...聞くしか...ないかな」
人参を切っていた包丁を持つ手が止まった。耳にかけた髪が一束はらりと顔の前へ落ちる。
悲しそうな顔はさせたくない。けれど、吐き出して楽になれるのなら。一時の悲しみで、この先永遠に患う苦痛が和らぐのなら。
私は......どうしたい?
「優羽香...?おいしそ〜!何の匂い?」
ハッと驚いて振り返ると、鼻を動かしながらキッチンの前にルナが立っていた。
衝撃で手元が狂いそうになったが、ギリギリで止まった。もうちょっとで料理に指が入るところだった。
「びっ...くりした...えと、今日はカレーだよ、ルナ。もうちょっとでできるから、リビングで待ってて」
動揺して言葉が詰まってしまったが、ルナに微笑みかけた。
「かれー...?ねえねえ、ぼく何かすることない?」
二度目の衝撃。ピシッと雷が落ちたように体が固まる。
これは...お手伝いしたいという意図なのか...!?
「あー...そうね...えーっと...」
適当な言葉でその場を繋ぎつつ、必死にカレーの作り方を頭に思い浮かべる。何か...何かルナでも簡単に手伝えそうな過程は...!?
「ねえ優羽香?」
「あっ...じゃあルナ、カレーのルーを入れてもらおうかな?」
沸騰した鍋に近づくから少し危ないかもしれないが、これくらいなら簡単だろう。火傷しそうだったら止めればいいし。
「ふ〜ん...?何すればいいの?」
「お鍋にこのブロックを入れるんだよ。まだその準備ができてないから、もう少し待っててね」
ルーの箱を見せながら、一旦リビングに戻るように促した。もしかしたらお肉の油が跳ねちゃうかもしれないし...過保護かな、私。
だって初めて見た時、あんなに傷だらけだったんだもん。本人がどう思ってたかはわからないけど、やっと治ったんだからもう二度と傷付けたくない。
「優羽香は今何やってるの?」
「うわっちょ、危ない危ない!!」
ドンと背後から衝撃。前のめりになって物凄いスピードで壁が迫るが、これもギリギリで急停止。
肩から顔を覗かせるルナを見る。肩に手を置いて足を浮かせ、羽を軽く羽ばたかせている。
全く悪気のない純粋な目に怒りが抜けそうになるが、流石にちゃんと叱らなければ。
「あのねルナ。料理してる人に飛びついちゃダメなの。ここは怪我するものが多くて危ないんだよ?」
「怪我するもの?」
「そう。例えば...これとか」
ちゃんと危ないものを認識させようと、肩からルナを下ろして包丁を手に取って見せた。うっかりでも当たらぬよう、最大限の注意を払って。
「これは包丁って言って、この刃の部分に触ると危なくてね。もしさっきみたいに飛びついて来た時にこれを持ってたら、どこか怪我してたかもしれないんだよ?」
語気を強めつつ、ルナでもわかるような言葉を選んで説明する。
ちょっと怖がらせて学ばせよう、と少しだけ指で刃をなぞって見せる。自分も怪我しないようにではあるけど。
「わかった?これは危ないから、キッチンで料理してる時は飛びついたりは......ルナ?」
先ほどからずっと大人しいルナに疑問を感じ、包丁への集中を解いた。流石に怖がらせすぎてしまったかな...?
怖がらせすぎた、いやそれ以上だった。
顔は蒼白で全身が震え、包丁から一瞬も目を離そうとしない。その瞳も恐怖に濡れ、いつの間にか私から大きく後退していた。
「あ...ルナ?」
「や...やだ...ぼく......」
ルナは目尻に涙を浮かべ、入り口の方へ後ずさる。声も怯え切っていて、正しく言葉も紡げないほどだった。
何かまずいことを言っただろうか。まずい行動をしたのだろうか。
「あいつの地雷を知らずに踏みたいと思っているのか?」
記憶の中のエルが言う。そんなことしたくないと思った。でも思っただけじゃ、何にも変わらない。
元から不幸な体質だったけど、こんな残酷な不運なんて今後もあるだろうか?守りたかったのに、これじゃあまるで裏切りだ。
「だ...大丈夫だよルナ。切ったりしないから...ほら」
包丁をまな板の上に置き、掌を見せて安全をアピールする。
「ひぁ...っ!?やだ...や...!!?」
どうか怖がらないで。そんな顔をさせたかった訳じゃない。
どうか落ち着いて。私はあなたの支えになりたい。
「ご...ごめんなさい...っ!?」
私の想いは伝わることもなく、突然謝ったかと思うと、ルナはガクガク震える足に鞭打って台所を去って行ってしまった。
声も出せずに呆然と小さな身体を見送った。
取り残された私は、そんなルナの顔を思い浮かべて歯を食いしばった。実行に躊躇いはもうなかった。
◇◆◇
ざわめく木々を遠くに聞きながら、私は布団に包まった。
ここの窓は大きくて南向きだから、太陽や月がよく見える。日食や月食の日は、お母さんとよく写真を撮っていた。今も黄色い月が部屋を照らしているだろう。
時間は深夜2時を回った頃。こんな遅くまで起きることがないため、少々の罪悪感と疲労感を肩に乗せていた。
眠いのに寝れない。何故かずっと頭が起きようとしている。
...多分、あの一件のせいだろう。
早く寝たい。でもルナのことも気になる。ココア飲みたい。だけどルナが...
食欲が湧き出たあたりで、ガチャッと部屋の扉が開く音がした。
驚いて一瞬硬直するも、私は動かないように気をつけ、静かに息を殺して背後の気配をできる限り感じた。
足音がする。私のすぐ横まで来て止まった。多分あの子だ。
どうせだから、彼女の顔が見たい。いつものように笑ってれば安心できるけど...。
なら、振り返るのはいつにしよう。寝返りをうつように見せかけてこっそり見れば...今ならどうだ。
ゴソゴソと動いて体を180度回転させる。窓から差す月明かりがまぶた越しに私の目を刺激した。
できるだけ気づかれないよう、そっと目を開ける。
そこにいたのは案の定ルナだった。数日前と同じように、部屋の窓からぼうっと夜空を見上げている。
その目には月や星が映っているはずなのに、光がないように見えた。まるで、ただ夜空を見上げる心のない人形のようだった。
本当に何も考えていない空っぽな姿に恐怖を覚えた。昼時の明るく好奇心旺盛な子とは全くの別人のようにも思える。
「......は...」
不意に、ルナは口を開く。小さな口から漏れる言葉は、淡く小さく夜闇へ吸い込まれて、私の耳まではっきり届かなかった。
なんとか拾おうと目を瞑り、じっと耳を澄ませた。が、その瞬間。
「ハ...ル......」
ルナの言葉が震えて、初めて私はルナが泣いているのだと気がついた。
先の人形のような姿とは全く違う。でも日中のルナとも違う。
ぼろぼろと涙を零し、水滴や潤む瞳に街灯と月星を反射させて嗚咽を漏らしていた。
不覚にも、私はそれを美しいとさえ思ってしまった。哀しくて儚い、私の知らないルナがそこにいた。
気がつけば、私は上半身を起こして呆然とその顔を見つめていた。ルナは私に気づかず、顔を覆って崩れるように跪いた。
「ルナ...」
思わず声が漏れてしまった。ルナはハッと顔をあげ、私の方を驚いた目で見つめる。
「...えっと...大丈夫?」
大丈夫じゃない。見ればわかるだろと自分を叱る。
何を言えばいいのかわからない。どんな言葉なら、彼女を安心させられるのか。ああ、こんなにも自分に学がないのを恨んだことはない。
「ゆ...うか......!」
眉を下げてルナは私に縋るように飛びついた。先の押し殺したような泣き方ではなく、わっと声をあげて泣いた。
「ごめんなさい、ぼく...!ぼくのせいだ!ぼくが大人しくしてれば!ぼくが...ああああ!!!!」
叫ぶように吐くように、私の胸の中で謝り続けた。どれだけ宥めても、どれだけ頭を撫でても、雨は止まない。溜めてたものが滝のように流れ出ていった。
ツンと鼻の頭が痛んだ。事情もわからないのに、一緒に涙が溢れそうになる。
「......怖がらせてごめんね」
今更と思いながらも晩ご飯の時のことを謝った。
ルナは一層わんわんと泣いた。
今日の月は綺麗なのに、部屋はあまりにも暗くて寒かった。
ほんとはこの回でルナのお話に入ろうとしたのに、書きたいシーンが多すぎて入らなくなったのは内緒。