魔法使いは、嘘をつかない
必ず帰る。
そう言ったあの人の声を、私はもう思い出せない。
私には魔法使いの夫がいる。とても優秀だったのに人嫌いで、まだ二十歳にも届かぬ内から隠遁生活を希望するくらい盛大な人嫌いだった。
しかし、優秀だったことと研究大好き人間だったこともあり、完全に世俗を離れることは出来なかった。俗な話ではあるが、研究にはお金がかかるのである。
それでも、目を瞠る成果を上げて王城という国一番のパトロンがつくや否や、無理矢理半隠遁生活をもぎ取ったので、努力の方向性を間違っているなぁと思ったものである。
彼は本当に時々の顔出し以外、人の立ち入らない森の奥から出てこなかった。そんな状態を、一定の成果を出し続けているからこそ許された。そんな彼の現状確認という名の生存確認を仰せつかったのが、その森の所有者である当家であった。
人の立ち入らない、もとい、立ち入るほど人のいない悲しいど田舎に住む、去年お婆さんが亡くなって以降、屋敷という名の小屋で、血筋を辿れば一応貴族だけどとりあえず雨は降るなよまだ屋根直してないから雨漏り大惨事なんだちょっと待て狐うちの鶏に何しようとしてるんだ襟巻きにするぞおい蛇その卵は私の貴重な食料なんだ皮剥ぐぞまずい窓が枠ごと外れたもう駄目だ暮らしをしていた私は、そんな遙か高みの事情を持つ大物が我が家の近所に越してきたことにも、その生存確認の大任を仰せつかったことにも目眩を起こしたものだ。
しかし、彼のお世話料として目玉飛び出る額の給料を頂くことになり、断るという選択肢は強制的に消え失せた。
それ以降、せっせと世話をしに行った。
訪ねると煩がられ、料理を作れば残され、掃除をすれば怒られた。しかし、訪ねないと服にカビを生やし、餓死しかけ、崩れた本に埋まって眠っているのでどうしようもない。研究に精を出すのは分かる。それが彼の仕事であり生き甲斐であり幸せだというのなら、没頭するのも分かる。
だが、生き甲斐で生命活動を維持できるなら、誰も苦労はしないのだ。
私の雇い主は彼ではない。だから、彼の制止を聞く必要はない。彼の制止を聞けば彼の生死に関わる。
それを合い言葉に、彼の世話もとい生存補助をし続けて一年と半年。
私は十六歳、彼は十七歳になっていた。
人の気配があったら眠れないとぶつくさ言っていた彼が、私が鍋の焦げを全力で擦っている横で熟睡し始めた頃。
「いちいちそっちに帰宅するのも手間だろう。ここに住め」
という彼の言葉で、何故か同居と相成り気が付けば夫婦となっていた。恋人期間は絶賛0日だったし更に言うなら0秒だった気がする。
何がどうなってこうなったのか今でもよく分からないが、とりあえず彼の薬草園の隣に野菜畑を作っておいてよかった。偏食な彼の意思を無視して畑を作った辺りから、色々諦めてくれたように思う。いやぁ、よかったよかった。顔合わせしてから三日目に野菜畑作り始めて本当によかった。
彼の薬草園が完成するより野菜畑の完成のほうが早かったことも彼の諦めに拍車をかけたように思う。
国でも最高位の魔法使いに私の鍬捌きが勝ったことは、歴史書に記してほしい。
ただ一つ言いたいのは。
「あなたっていつも突然!」
「僕の薬草園の隣に突如畑を出現させたお前にだけは言われたくない」
薄紫の髪に、緑に黄色と薄紅が合わさったという少々特殊な説明が必要な瞳をした彼は、外見説明以外でも少し癖のある人だった。
家の中は本と薬草と用途不明の魔法道具ばかり。買い物は彼の魔法で注文した物を森の外れで受け取る以外は基本的に自給自足。たまに街に連れていってもらう時と、最後の最後まで渋り尽くした彼をなんとか城からの呼び出しに送り出す以外は、ずっと二人で過ごす日々。
私達の日々は、一般常識として語られる普通とはかけ離れていたのかもしれない。
けれど私は幸せだった。
無表情だったあの人が控えめに笑ってくれる瞬間が、私のシチューを心待ちにして実験道具をさっさと寄せちょこんと椅子に座っている姿が、寒がりな私が両手を擦り合わせていると本を読みながら無言で広げた胸元に入れてくれる行為が、飛ばしてしまった洗濯物を全力で追いかけて捕まえた私を見て機嫌のいい猫みたいに細めた目が、私を呼ぶ春の日差しのような声が。
本当に、大好きだった。
しかし、そんな日々はすぐに崩れ去る。いや、元々仮初めの時間だったのだろう。
戦争が、始まったのだから。
長く一触即発の状態であった隣国との戦で、我が国はあっという間に劣勢へと陥った。そして無理矢理戦力強化を行った。
強引な徴用で掻き集められた兵士達の戦意は低く、働き手を失った国民達は飢えていく。職を失った人間は罪へと流れ、賊は蔓延り、悪行がのさばった。
それでも国は止まらない。終いには、徴用から逃げ出した兵士の家族を見せしめとして殺し始めた。敵国より、敵兵より、何より身近な鬼が私達の国だった。
地獄とは、そうと気付く前に形を整えてしまう。一握りの識者ではない、ごく普通の人間が気付いた頃には、最早手遅れなほどに蔓延している。
何より恐ろしいのは、鬼と化した国がその鬼畜を敵へ向けるのではなく、自国の民を逃さぬ方向へ向けることに他ならない。敵を呪うより余程強く、幸せを模索する民を憎んだのだ。
敵を殺す術より、裏切り者を出さぬよう縛り上げることに全てを懸ける愚かさを笑えるのは、無関係の人間だけだった。
積んでいた本を蹴倒し、備蓄していた食料が零れ落ちるのも構わず、彼が私の手を引く。さっきまでシチューを掻き混ぜていたお玉が床に転がった。彼が食べたいと言うから、今日の夕食用に作ったのに。ここ最近難しい顔をして部屋に籠もりっきりで私と食事も取らなかった彼が、今日は絶対一緒に食べると言ったから張り切って作ったのに。
「待って、いや、待って!」
必死に足を踏ん張って彼の歩みを止めようとするのに、びくともしない。
まるで私の制止なんて存在しないかのような足取りで彼は家の中を進んでいく。手加減なしに掴まれて引き摺られる手首が痛い。
それをいくら訴えても力が緩められることはなかった。私の制止が、痛みをとめてほしいが為に叫ばれているわけではないと、彼は知っているのだから。
私は、大切にされていると思っていた。人嫌いのこの人から、それでも好かれていると信じていた。共に過ごす日々の中でそう信じていたのだ。
彼の研究室に引きずり込まれる。彼の手を振りほどこうと必死に暴れ、所狭しと置かれた瓶や実験器具が砕け散っていく。
けれど彼は、それらに見向きもしない。
「嫌よ、嫌だってばっ、お願いやめて! ねえ!」
私には訳の分からない文字列が書かれた紙や本で埋め尽くされた壁に、ただ一つだけ異質なものがあった。
それは、絵だった。
雑多な野菜が植えられている畑と薬草園、その隣で干された洗濯物がはためく。物干しの前には、空になった籠を抱えた私が振り向き、満足げに笑っている。
彼が描いた、この部屋から見える景色。今は彼の魔法によって塞がれた窓から見えていた、何の変哲もない、いつもの日々だった。
その絵に、叩きつけられるように背をつける。私の両肩を押さえつける彼は、そこでようやく口を開いた。
「……すまない」
「やめて! 嫌だってば!」
「駄目だ!」
怒鳴りつける彼が恐ろしくはない。だって、私と同じくらい今にも泣き出しそうな顔をしているのだから。
私の肩を掴む手に力が籠もる。痛いくらいだけれど、ちっとも痛くない。
もっと握りしめて。もっと、痛みも温度も全て覚えていられるように。刻み込んでほしいのに、彼は私の肩に顔を埋め、柔らかな熱を移すだけしかしてくれない。
私は大切にされていると思っていた。
けれど。
「あなたを脅す道具に使われるくらいなら、ここで死ぬに決まってるでしょう!」
「お前を死なせるくらいなら、この馬鹿げた国の滅亡に付き合う方がましだっ!」
こんなにも愛してもらっていたなんて、知らなかったのだ。
凄まじい音が響き、家が揺れる。玄関が破られたのだ。彼の魔法を破れるほどの魔法使いを、集団で連れてきたのだろう。こんな僻地にそんな戦力を連れてくるのなら、もっと別のことに使えばいいのに。
胸の中に湧き上がった怒りと不満は、熱い滴となって瞳から溢れ出る。そうして残ったものは、ただ悲しみと愛しさだけだった。
ぐしゃぐしゃに泣き出した私に気付いた彼は顔を上げ、くしゃりと笑う。
「僕は、研究と秤にかけられるくらいお前を愛しているんだ。知らなかっただろ」
「なんで、いま、言うの、ばかぁ!」
「はは、酷い顔だな」
「だれの、だれの、せい、で」
しゃくり上げる私のぐしゃぐしゃな顔を、掌と袖で撫で回すように拭っていく彼の温度を、心が勝手に死に物狂いで覚えていく。
「あなたって、いつも、突然」
「僕の優先順位を突如根こそぎひっくり返したお前にだけは言われたくない」
見たこともないほど、いっそ無邪気と呼べるほどに楽しげな笑顔で、彼が私の顔を両手で挟む。その手を私も握りしめる。
「いや、嫌よ、行かないで」
降ってきた影と共に、額が合わさった。
「僕の良心、僕の光、僕の普遍」
「待って、アスティル!」
「ルビニア、必ず帰る」
愛してる。
深く重なった唇は、零れ落ちた滴が地面に届く間もなく消え失せた。
酷い音が響き渡る。けれどもう、私の全ては絵の中に収められていた。
「うるさい、騒ぐな。埃が立つだろう」
熱が全て取り払われたかのようなアスティルの声が、何重にも重なった幕の向こうから聞こえる。何事かをがなり立てる男達の声も、全てが遠い。
待って、その人を連れていかないで。
人を殺す道具なんて作らせないで。
人を殺す魔法なんて使わせないで。
やめて、お願い。
人間嫌いだけれど、人を救う物ばかり作ってきた人なんです。不治の病を治す薬を、数多の人の命を縮めてきた作業を軽減する魔具を、枯れた大地を蘇らせる魔法を。
変わり者と呼ばれながら、人の気持ちが分からない傲慢な人間と罵られながら、何を考えているか分からない恐ろしい魔法使いと脅えられながら、人の営みを守る研究にその生を捧げてきた人なんです。その知の結晶を、医の技術を、魔法の恩恵を、全て。
この時代、その人を必要としすぎるあなた達の為に使ってきた人じゃない!
優しい人なの。可愛い人なの。私の大切な人なの。私の愛した人なの。私を愛してくれた人なの。
だからお願い。理由なんて何でもいいから、その人に酷いことしないで。
「研究は回収させてもらうぞ。元を正せば国費だから当然の権利だ」
「金貨を置いておけば勝手に完成品への変異が起こると思っている辺り、相変わらずお前達の脳みそは無駄な重量だな。そんな無意味な物を支えるために進化した頭蓋骨と首が泣いているぞ」
「ちっ、相変わらず訳の分からん嫌味を言う奴だな。おい、女をどこへやった。報告書には結婚したとあるぞ。お前に付き合える女がいたとは信じ難いがな」
「見ての通り、とっくの昔に逃げられたさ」
「なるほど。それで、幸せだった頃の絵を見て自分を慰めてんのか。お前にも可愛げってやつがあったんだな。笑えるぜ」
肩を竦めたアスティルを、男達が嘲り笑う。
嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つき。
私はいる。ここにいる。ずっとあなたといる。
声を枯らして泣き叫ぶのに、誰も私に気付かない。力の限り見えない壁を叩きつけるのに、隔てられた世界には届かなかった。
上手な生き方なんて知らない。だけど、あなたを愛さない生き方も私は知らない。そんなものいらない。あなたと生きられない人生なんて、いらないのに。
僕もだよ。
小さく苦笑したアスティルに首を傾げた男達の声が、にわかに騒がしくなった。
「おいお前、何をした!?」
「僕の家を閉じているだけだ。さっさと家から出ないと、永久に閉じ込められるぞ」
「何を馬鹿な……おい魔法使い共、さっさと止めろ!」
「出来るものか。片手間に閉じただけの扉にすらあれだけ手こずった奴らが、この封印を解けるわけがない。この僕が何年懸けて完成させたと思っているんだ。お前達に囲われた時点で、この封印は必ず完成させると決めていた。僕の研究は、お前達には過ぎた物だ」
乱暴にアスティルを押さえつけ、男達が慌ただしく駆け出していく。
急激に世界が閉じ、私の意識にも帳が下りていくのが分かる。見えない隔たりを殴りつけたまま膝をつく。
この壁が憎くて憎くて堪らない。なのに今は、彼を感じられる最後の砦でもあって。縋りつくように額をつける。
どれだけ泣き叫んでも、魔法使いではない私には何も出来ない。声が枯れても涙は枯れなくて。身体中の血液全てが涙に変わってしまったのではないかなんて、彼に言えばそんな訳あるかと皮肉げに笑われてしまうことを本気で思う。
ねえ、お願いアスティル。笑っていて。幸せでいて。あなたが幸せなら、あなたの幸せになれるなら、私は死んだってよかったのに。そう思うほどに、私だってあなたを愛しているのに。
どうして、そんなたった一つが叶わないの。
心地よい陽だまりが私を包む。
彼が描いた優しい世界。彼が感じてくれていた幸せが、ここにあった。
だけど彼がいなければ、こんなもの、地獄とどう違うのだ。
私は彼の描いたかつての温もりに包まれ、強制的に意識が終了していくのを感じた。
彼によって封が施された空間には誰も訪れない。訪れられない。誰も彼の封印を破ることは叶わない。
時が止まった空間で、私は一人眠り続ける。彼が閉じた空間の中、彼の描いた世界でこんこんと眠り続けた。
夢の中で、彼の悲鳴を聞いた気がした。彼の軋みを感じた気がした。彼の慟哭に触れた気がした。
けれど、全てが遠い。どれほど足掻いても指先一つ動かせないのだ。眠りながら、泣き叫び、必死に彼へ手を伸ばすのに、伸ばしたいのに、何一つ叶わない。
アスティル。アスティル。アスティル。
あなたに会いたい。あなたに、触れたい。
隔てられた先にある彼の地獄を感じ続けたある日、何かが砕ける音と共に目を覚ました。
目を開けて最初に見たものは、あの日踏み荒らされたままの部屋だった。
今がいつなのか、時間の感覚はとっくの昔に消え失せた。眠りについていた間は勿論、目覚めたところで窓が塞がれた部屋の中は昼夜すら分からない。けれど、そんなことはどうでもいい。そう、どうでもいいのだ。
境界線に縋りついたまま眠りに落ちた私は、ゆっくりと身体を起こす。誰もいない。誰の声も聞こえない。私達の日々の残骸だけが、あの日のままここにある。
ぱたぱたと酷い量の涙が勝手に零れ落ちていく。それを止める意思も、止められる理由も、どこにも存在しない。彼の訪れがないのに私が目覚めてしまった理由を、分かりたくもないのに分かってしまったからだ。
以前、彼に聞いたことがある。魔法には二種類あるのだと。一つは、この家にかけられている封印のように、先に魔力を設置し下準備を行って発動出せるもの。もう一つは、その時点で魔法使いが発生させた魔力のみを原動力としたもの。私を絵の中に閉じ込めた、魔法のように。
術者である彼がいないのに、私が目覚めた理由なんて、一つしかない。
そうして私は、彼の死を知った。
泣いて、泣いて、泣いて。心が枯れてもまだ泣いて。けれど涙は涸れなくて。心だけが枯渇していく。心だけが摩耗し、感情が空回りする。
私が目覚めた以上、彼の術は切れているはずだった。けれど私は絵の中から出られない。それでもよかった。彼のいない世界に、彼を殺した世界に、私が帰る理由なんてなかったのだから。
彼が描いた穏やかな世界では、生命を維持するための活動は何一つ必要としなかった。食事も睡眠も、何も必要ない。
ただ静かな時間が流れる。否、時間は流れているわけではない。止まっている。
絵の中に経過する時間などありはしない。劣化とて、外側を変化させるのみで、絵の内容を変化させることは出来ない。それに、この家全ての時が止まっている以上全てが絵のようなものだ。割れた器具に付着している私には成分が分からぬ液体も、ずっと滴のままきらめいている。
止まらぬ涙を流し続ける以外、何もすることがない。物干しにかかっていた彼の外套を羽織ったまま、ぼんやり座り続ける。これは、外出を殊の外嫌う彼の外套が虫に食われぬよう、時々虫干ししていたものだ。それを彼が描いたのだろう。
ここには生命が何も存在しないから、私以外の何物も音を発しない。風も吹かず、ただ温もりだけが存在する空間は、私の心も止めていく。
正気を保つ方法を持たず、その必要性すら見つけられなかった私の中で、最初にぶつりと壊れたのは彼の声だった。それに気付いた瞬間、どこにそんな気力が残っていたのだと自分でも驚くほど泣き叫んだ。けれど、駄目だった。どれほど記憶を抉り出しても、彼の呼吸も抑揚も、その全てを覚えているのに、声だけがぶつりと切り取られた。
へたりと座り込み、彼の外套を抱きしめたままもうぴくりとも動けなくなった。
『必ず帰る』
そう言ったあなたの声を、私はもう思い出せない。
このまま死んでしまいたかった。けれど、それも出来ない。どうせ餓死は出来ないし、首を吊っても死ねるかどうか、それすらこの場所では定かではなかった。
何より。
帰ってくると、言ったのだ。
必ず帰ると彼が言ったから。
たとえ、もう彼がいなくても、二度と果たされない約束でも、彼がそう言ったのなら、私は待っていなくてはならない。
だって、彼は約束を破ったりはしなかった。絶対に、しなかったのだ。
だから私は待っていなくてはならない。私が待っている以上、彼は約束を破ったことにはならない。まだ帰ってきていないだけなのだ。
屁理屈だ。分かっている。死んだ彼が帰ってくるはずがない。分かっている。分かっている。分かっている。だけどもう他に、私が彼のために出来ることなどないのなら。
彼を嘘つきにしない。それだけが、私に残された存在理由だった。
それから、外の世界でどれほどの時間が流れたのか、私には分からない。
彼の外套に包まり、ぼんやり彼の部屋を眺めながらそこにいた。もう自分が生きているか死んでいるかも分からない。
何も、もう何も。
失われていく彼の記憶だけを擦り切れるまま思い出す。忘れていく度、私の何かも一緒に砕け散っていく様を、悲しみすら浮かべられなくなったまま見送る。
朝も夜も分からない。春も冬も分からない。何一つ変わらぬ場所で、何一つ得られぬ温かで柔らかな温度の中、絶望だけが渦巻いていて。壊れていく。ぼろぼろと、私の正気と記憶がばらばらと。
私の髪が狐色なことは視界に紛れ込む髪で思い出せたけれど、瞳の色は忘れてしまった。そういえば私はどんな顔だっただろう。名前、そう、私の名前。全部、全部、思い出せない。私はどんな顔をしていただろう。それに、あなた、ねえ、あなた。私のあなた。どうしよう。私もう、あなたの瞳が思い出せないの。唇の片方だけ僅かに歪める少し癖のある笑い方は覚えているのに、あなたが私に触れる時、爪が当たらないよう長い指を這わすように撫でる癖さえ覚えているのに、私、もう、あなたの名前が。
視覚も、聴覚も、私の全てが無意味な存在に成り下がって、私が私を認識しているものがあなたへの思慕でしか成り立たなくなったある時、音を聞いた。
音、そう、音だ。
私が抱いた彼の外套が擦れる音ではなく、私以外の何かがたてた音。
緩慢な動作で目蓋を開く。ああ、そうだ。目蓋を開くとはこういう動作を言うのだった。
眼前に広がる光景は、もう目蓋を閉じていても分かる。何一つ変わっていない景色をぼんやり見つめていたが、やはり、また、音がした。
廊下が軋む音。崩れた本を積み直す音。
人の、音がある。私達の家に、人の音が。
「あ」
声を、私の声を。掠れた声で、音を、違う、言葉を、そう、言葉を吐き出さなければ。
出ていって。私達の家から出ていって。
そう、いつぶりになるのか分からない自分の声を吐き出そうとした。しかし、私の言葉は静かに回った取っ手によって飲みこまれる。
そして現れたその姿に、今の今までしていたことすら忘れていた呼吸も、止まった。
声が。
『必ず帰る』
絵の具をぶちまけたように、春を迎えた野原のように、頭の中に色が湧き上がる。
声が、姿が、あの人の全てが。
扉を開けたのは、あの日から寸分違わぬ姿のあなただった。
あなたの研究室に、あなたが入ってくる。こんなにも当たり前で、こんなにもおかしなことはない。
薄紫色の髪が揺れ、緑に黄色と薄紅が合わさった瞳が、呆然とあなたを見つめる私を見ている。
あなた。私のあなた。
アス、ティル。
そう、アスティル。私のあなた。私のアスティル。そう、あなた、こんな顔をしていた。こんな声をしていた。
覚えている。ちゃんと、覚えている。私、ちゃんと分かった。よかった。私、忘れてなんていなかった。私、ちゃんとあなたを覚えていた。
その事実に、久しぶりに息苦しさに襲われる。息が、苦しい。喉が、胸が熱くて痛くて。
ああでも、どうしたの。あなた、右目、どうしてしまったの。美しく整った顔にかけられた黒い眼帯は、右目を完全に覆っていた。
砕け散った器具を避けることもなく踏みつけ、少し身体を傾けながらもまっすぐ進んできたアスティルは、ふっと小さな息を吐き出した。
「すまない、遅くなった」
声が、出ない。
「……正気は保っているか? すまない、僕が死んだ際に中途半端に術が切れたな。そして十年遅刻した。僕が死ぬまでにかかった時間も合わせれば十三年だ。お前には僕を詰る権利がある。煮るなり焼くなり好きにしろ。ただし、離縁は受け付けない。遅刻はしたが約束は守った不貞もしていない国からの首輪も外してきたからこれからはどこにだって自由に行けるお前が望む場所に連れて行けるしお前が望むなら城だって買う……だから、だな。離縁は、嫌だ……頼む」
声の代わりに、必死に手を伸ばす。境界に阻まれて届くはずもない手の行き先を、アスティルは正確に読み取ってくれた。
「ああ、これか? 殿部隊に入れられていたからな、流石に向こうの精鋭部隊から集中砲火を喰らえば砕け散る。首が飛んだ時はまずいと思ったが一応なんとかなった。しかし十三度目まではかろうじて部位を繋いで保ったが、十四度目で木っ端微塵にされてな。僕としての個を維持するだけで手一杯だったんだ。だがまさか、保全した魂から自力で移動出来るまでに身体を修復させるのに十年かかるとは思わなかった。ひとまず生命活動に必要な部位の修復を優先したからだろうが、それでもまだ必要最低限しか修復できていなくてな。しばらくお前の前で服は脱がないつもりだから安心しろ。流石に見せられたものじゃない。左手もまともに動かないしな」
「………………」
「右手は動かせる。魔法を使うのに支障はないし、荷も運べる。足も多少修復が間に合ってはいないが、お前の手を煩わせることはしないと誓う」
「…………っ、ぁ」
「り、離縁か!? 一応言うが、敗戦したこの国は様々な形態が変化している可能性が高い! だから離縁届の出し方も変化しているだろうし、何より僕の妻と知られるとまずいから身元をいじる必要性があるが、その為にはまず僕の説得から始め」
「ばかぁ!」
今の今まで、彼の言を拾えば十三年、心の拠所にしていた彼の外套を叩きつける。
全く動かしていなかった身体は、時は経っていないはずなのに心と同じように酷く軋み、碌な力は出せなかった。ぺそりと情けない音で落ちた外套の上に乗っかり、境界の壁を叩きつける。
「怪我したなら心配させてよ! 不便なら手伝わせてよ! 困ってるなら助けさせてよ! そうしていい権利を私にくれたんじゃないの!? その権利を、妻という立場で私にくれたんじゃないの!? あなたが指一つ動かせなくなったって一緒にいていい約束を、離されたりしない誓いを、私に許してくれたんじゃないの!? それなのに、あなたの身体が不便になったら私離縁されるの!? そんな曖昧な基準で私と結婚したというのなら、今すぐ離縁よ!」
長い間呼吸すら曖昧だった肺に多大な負荷がかかり、激しく噎せ込む。酷く慌て、見たこともないほどおろおろしているアスティルを睨みつける。ずっと温度を感じない何かだった滴が、今は火傷しそうなほど熱い。
「離縁は嫌だっ!」
「だったら、他に言うことは!」
「も、戻った!」
いつもだったらもう一声と叫んだだろうが、あいにく今の私達にとって『いつも』はとても遠くて。
遙か彼方に失われて、もう二度と戻らない『いつも』が、約束と共に戻ったというのなら。私が言うべき言葉は、言いたい言葉は、一つしかない。
「アスティル」
『いつも』と同じ顔を出来ていたのか分からない。けれど、私があなたへ向けたい感情など一つだけなのだ。あの頃と同じように笑えていないかもしれない。
でも、どうか。
「おかえりなさい、私のあなた」
そんなくだらない理由で離縁を案じるこの人に、「いつも」へ帰ってきてほしかった。
どっと重たい音が聞こえ、目の前からアスティルが消える。何が起こったか分からず一瞬呆然としてしまったが、すぐに境界に張り付いて下を覗き込む。
アスティルの旋毛が見える。どうやら膝をついたらしい。床には器具の破片などが散乱しているから危ないとはらはらする。
「アスティル、身体がつらいの? ねえ、お願い、もう少しだけ頑張って。私をここから出して。倒れるならそれからにして。そうしたら後は寝てしまって構わないから、ねえ」
寝室まで運ぶのは難しいかもしれないけれど、この部屋にだってソファーはある。
研究に没頭する姿を床に座ったまま眺めている私の為に、アスティルが構えてくれたものだ。二人掛けだから、彼は時々昼の仮眠に使っていた。だけど、私が寝室で寝ていたらどんなに疲れていても寝室に戻ってきてくれるところが、可愛くて大好きだった。
もし気分が悪くなっていたなら大声は負担になるだろうと、焦る気持ちを必死に押さえて声をかける。
「…………人を、殺した」
ぽつりと、言葉が聞こえた。
「勝ち目などない撤退ばかりの軍隊で、殿を押し付けられた。十三度生き延びた。だが、生き残る度、数え切れないほど殺した。生き残り、また次の戦場に出される度、味方も敵も、僕を化け物のように扱った。分かっているさ、いくら魔法があるとはいえ、首が飛んでも生きている人間に脅えないほうがおかしい。けれど……すまない。僕は何度も、もう死にたいと思った。お前が待っていると分かっていたのに、何度も!」
「アスティル」
「お前を閉じ込めたまま、お前を解放せず、僕の妻のまま連れていきたいと思った! 首が飛んでも生きているような化け物が! 大量の味方が死んでいく中、大量の敵兵を殺して、のうのうと! それでもお前の元に帰りたいとお前を人殺しの免罪符に使った! 僕が生き延びる罪過の理由にお前を使った! お前を、僕は、戦場でお前を……人殺しの理由に使ったんだ」
つい先程まで彼への思慕しか残っていなかった私という名の残骸は、彼が帰ってきた瞬間、あっという間にちゃんと繋ぎ合わさった私なのだと簡単に認識できる。
「……ねえ、お願いアスティル。私をここから出して? 私、あなたを抱きしめたいし、あなたに抱きしめられたいの」
それとね。
内緒話をするように、ひそりと声を狭める。ここには二人しかいないから内緒話なんてする必要はないし、ある意味全てが内緒話なのに、アスティルは俯いた顔を緩慢な動作で上げてくれた。
ねえ、私のあなた。
「私、自分の名前を忘れてしまったみたい。だからあなたに呼んでほしいなって思ってるんだけど、どうかしら?」
片目を閉じて促せば、彼は端正な顔をぐしゃりと歪めた。そんなに痛ましい顔なんてしないでほしい。だけど、彼の瞳に映った自分を見て納得した。私も、彼と同じ顔をしていた。
震える指が私へと伸ばされる。外へあまり出ないが故に真っ白だった肌は、引きつれ、傷跡に埋め尽くされていた。
彼の指が美しい光を纏う。そう、魔法とは古来より美しいものなのだと私は知っている。魔法とは自然と共にあるものだからと、昔、彼が教えてくれたから。
風が、吹いた。風が頬を撫で、懐かしい家の香りが鼻腔を擽る。
私という存在が時間の中に戻っていく。完全に外されていた時の流れに戻った途端、がくんと身体が落ちる。
身体って重いんだなぁと当たり前の感想が頭の中をぐるりと撫で上げ、次いで短い悲鳴を上げた。無意識に見慣れた枠を掴もうとした私の指が、冷たいものに絡め取られる。
ぎゅっと目を瞑った私は、予想していた痛みが来ないことで慌てて瞳を開く。もうずっと心ばかりが痛くて、身体の痛みなんて忘れていたから自分でもびっくりするほど、必要以上に脅えてしまって反応が遅れた。
「怪我はない!?」
「お前程度ならどうってことはない……それより、顔を、見せてくれ」
動きがぎこちないアスティルの指が、私の指から引き抜かれ、頬に触れる。
長い指が私の頬を撫でていく。爪が当たらないよう、指の腹だけが触れていく感触が、くすぐったくて懐かしくて、恋しくて愛おしくて。
アスティルが覆い被さるように抱きしめてくるのと、私が溺れるように彼を掻き抱くのは同時だった。
溺れる。時の流れから外れた私はずっと漂っていて、けれどそれを引き戻した彼の体温に溺れていく。この手を離せばもう二度と戻れないのだと、私の時は永久に止まるのだと、私の魂はもう知っていた。
そしてきっと、彼も同じだと知っている。それは、彼の全てが教えてくれた。
「…………ただいま、ルビニア。僕のあなた」
そう、私はルビニア。
あなたと同じく、残念ながら血の繋がった家族には恵まれなかったけれど、あなたと家族になれた幸運な女の名前。その名を私に返してくれた人へ、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「おかえりなさい、私のあなた」
どうか、泣かないで。
そう伝えようとした口を噤む。いいの。泣いていいの。戦争に傷つけられた人間に出来ることなんて、それくらいしかないのだから。
アスティルは声を上げて泣いた。
強い人だった。世界の理不尽を知る人だった。こんな鬼のような国で、魔法使いとして国に囲われ常人より多くの苦汁を舐めてきた人だった。
その人が、酷く泣いている。一体どれほどの地獄を経験すれば、人とはこれほどに傷つけるのか。
苦しいほど抱きしめられていたが、腕を解こうとはちっとも思えない。私も同じ程の力を篭められていたらいいのにと思ったくらいだ。
どれだけの時間そうしていただろう。私は未だ止まない温かな雨を、袖と掌、時に唇で拭いながら苦笑した。
時間の感覚は元より、朝と夜の概念すら怪しくなっている。これは日常生活を送る上でしばらく大変かもしれない。そんなことを考えていたら、笑ったことに気付いたアスティルが私と同じように私の顔面を拭っていた手を止めた。
「……引っ越す」
「へ?」
ぐいっと一際強く私の顔を拭い終えたアスティルは、いつの間にか涙も止めている。目尻の赤さだけはどうしようもないが、それは私も同じだし、今更そんなことを恥じ入る仲でもない。
少しよろめきながら立ち上がるアスティルを、慌てて支えながら立ち上がる。大丈夫だと言うけれど、心配なものは心配だ。
ただでさえこの部屋は物が多すぎる上に、今は割れた器具まであるのだ。
「しばらくここへは帰らないから、そのつもりで荷を用意しろ。今日出立するぞ」
「ちょ、ちょっと!」
鞄を探してうろつくアスティルの服を引っ張る。それだけでかくんっと膝が折れ、慌てて支えた。よし、この人全く大丈夫じゃないな。
「あなたっていつも突然だし、そういう人って分かってるけど、円滑な人間関係を築くために、何より私の精神安定のために説明って必要だと思うの!」
私の手から離れ、力の入らない身体を壁に凭れさせることで支えたアスティルに不満はあるが、この件については後で話し合おう。この分だと風呂の介助もさせる気はなさそうだから話し合いは必須である。しかし今はこっちの話が先だ。
「今のあなたの体調はとてもじゃないけれど引っ越しには向かないと思うわ」
「僕は死んだことになっているし、実際荒療治とはいえ無理矢理繋がなければ死んでいたわけだが、生きていると知られたらかなり面倒だ。この国の連中に……いや、もうモニアー国はないのか。どちらにせよ、モニアーであろうがシレイアであろうが、僕を知っている連中に見つかる前にさっさと離れるに越したことはない。出来れば国から出たいところだが、情勢が分からない以上無理な出国は避け、今はここを離れることを優先する」
ああ、そういえば、この国の名前はモニアーだったし、敵国はシレイアだったと思い出す。
元は同じ国だったのに随分昔に割れた国が、この時代で再び一緒になった。らしい。歴史が動いた瞬間を絵の中で過ごした人間など、そうはいないと思う。
そして、それらを忘れていた事実をどうでもいいと思ってしまう人間も。
元々、ど田舎暮らしの私も相当俗世に疎い生活をしていた自覚はある。けれど、一応故国と呼べる国が滅んだ事実に何の感情も浮かばないのは、十三年の歳月で壊れたのか、元々こうだったのか。さて、どちらだろう。
「僕がかけていった封印を解くことは出来なかったようだが、封印のそばに印があった。万が一僕が生きて帰還したら連絡がいくようになっていた。それは弄っておいたし、ここを出たら封印をかけ直すにしても、この十年で僕の知らない術式が開発されていたなら厄介だ。戦争が終結したなら、魔法の形態も変わってくるからな。だから、今日出立したい…………離縁は、しないからな」
「この期に及んでまだそんな心配してるの、空前絶後の愚か者って言うのよ、大馬鹿者! それと、そういう大事なことは先に、そして早く言って! あなたそういうこと話したがらないから私も今まであんまり聞かないようにしてたけど、これからはちゃんと話してね! ここを出るなら尚のこと、今まで以上に二人で力合わせて生きていくんだから! 言っておきますけど、たとえ道草食まないと生きていけなくなっても離縁はしないわよ! 大体、知ってると思うけど私貧乏は慣れているの! あなたより生活面の逆境には強いわよ! 雨漏りしない範囲の方が少なかった家に一人で住んでいた私を嘗めないでね! 任せて貧乏ようこそ節約!」
ぽかんとしているアスティルに当たらないよう気をつけて扉を開け、廊下に出る。
「私は荷物の用意してくるから、アスティルはその部屋の中で必要な準備をして! その部屋に関しては、私さっぱり分からないから! 服は持っていきたいのある? なければ私が適当に用意するから! あ、でも、あの襟がよれよれになっちゃった黒い長袖は駄目だからね! あれもういい加減雑巾行き! あと、体調が悪くなったらすぐに言って! 不調を黙ってたら、その場で素っ裸にして身体中確認するのであしからず!」
そのまま鞄をしまってある部屋向けて駆け出す。アスティルはこの部屋を探していたけれど、鞄を見たら王都に召喚されるみたいで嫌だからと言って、自分で視界に入らない場所に放り込んだのをすっかり忘れているようだ。
色々大変なことがあったからそれは仕方がない話だが、元から研究以外のこと、特に生活を整えることに関してすっぽり抜ける人だからいつも通りである。
鞄を置いてある部屋に飛び込もうとして、枠を手で掴んで急停止した。
勢いに逆らって廊下に首を出せば、まだぽかんとしたアスティルがこっちを見ている。薬草園の横に野菜畑を出現させた時と同じ顔をしていて、思わず笑ってしまう。
「それとこの家、あの日から時間が経っていないのよね?」
「あ、ああ」
「じゃあ、あの日食べ損ねたシチューが丸々残ってるから、一段落ついたら一緒に食べよ」
偏食で野菜一式をまるで食べなかった彼の現在の大好物、たっぷり野菜のことこと煮込みシチューがある台所を指させば、まるで幼い子どものようにくしゃりと笑った。
故国を欺き、敵国を欺き、時を欺き、生死を司る神すら欺いた私の魔法使いは帰ってきた。
だから。
私の魔法使いは、私に嘘をつかないのだ。