はじめて
「ぐあー……全身ばっきばきだよ」
そろそろと夏の気配を漂わせる昼下がり。
桐山は麻倉と一緒に、自宅までの路地を歩いていた。
それぞれに買い物袋を手に提げて。
「明日は確実に筋肉痛だ」
「そてっちゃん、ひよわ」
けらけらと笑う麻倉は、実際、何の疲労も見せていない。普段から鍛えているであろうことは、シャワーを浴びたあとに見せつけられた太い腕や厚い胸板、チョコレートのように割れた腹筋が如実に物語っていた。桐山と同じメニューでトレーニングを行っていたが、麻倉はまだ余力があるのか、2リットルのペットボトルも入った買い物袋で上腕筋を鍛えていた。
確かに比べれば自分はひよわだろう。桐山は反論する気にもなれない。
狭い路地を風が吹きぬけ、桐山の細い前髪が巻き上げられる。
全身に疲労はたまっていたが、桐山には心地良い気分だった。
「……これも、前準備なのか? 俺を眠らせるための」
「あー。そうなったらいいかもね」
どうやら違うらしい。
「そてっちゃんと筋トレしたかっただけ」
「そーか」
「買い物も済んだし、もっかいする?」
「……くたばる俺の代わりに、お前が夕飯作ってくれるならな」
「じゃあやめとこう。そてっちゃんの料理、楽しみだし」
麻倉は鼻歌を口ずさみながら、桐山は今晩の料理の手順を考えながら、家路を歩いた。
まだ外も明るい午後六時に、早めの夕食となった。
「うまー」
麻倉はハムスターのように頬を膨らませて、もりもりと桐山の手料理を食べていた。
「どれもうまいよ、そてっちゃん。これ、このトマト、何て料理?」
「カプレーゼだよ。ってかお前、ご飯は?」
「あー、俺、晩ご飯は糖質摂らないようにしてるの。太っちゃうから」
「はぁ? お前、昼間……さんざん食べてたから、多めに炊いたんだぞ? ちょっとでいいから食えって、ほら」
桐山が茶碗に白米をよそってやると、しかし麻倉は嫌な顔をせずにそれを受け取った。
「この、カプレーゼ、だっけ? どうやって作るの? トマトとチーズと?」
「トマトとモッツァレラチーズにオリーブオイルかけてバジル散らすだけだよ。うちの場合はな」
「うちじゃこんなおしゃれな料理出てこないよー。めちゃうま。こっちは缶詰料理?」
「そうだな、鯖の缶詰をキャベツとセロリで……」
「豚のしょうが焼きも美味しい。太っちゃうってわかっててもご飯が進むよ」
「……悪いな、手抜き料理で」
桐山が箸を止めて苦笑すると、麻倉は首を傾げた。
「何が? ぜんぶ美味しいよ?」
「いや……『料理する』っていっても、材料に火を通して混ぜるだけのソース使ったり、缶詰で手間省いたりで、もてなすって感じじゃないからさ」
「そのほうがすごいじゃん」
「え?」
「ほとんど毎日料理作ってるんでしょ? 手間を省けるなら、そのほうがすごいよ。俺が台所に立ったら、一品作るだけで精一杯だもん」
もぐもぐと食べながら喋る麻倉は、空になった茶碗を桐山に差し出した。
「ご飯おかわり」
「……あいよ。お前んちの晩ご飯ってどんな感じなの?」
「あぁー、俺んち兄弟多いから、昔は戦争みたいだったねぇ。母ちゃんの料理も、『とりあえず肉を食わせとけ』って感じで。あとは冷蔵庫にある物をテキトーに炒めてテキトーに味付けして……」
「勘で料理できるなら、それも凄いよ。負ける。……ほら」
桐山は白米を盛った茶碗を麻倉に渡す。
「料理は勝ち負けじゃないでしょ」
「かもな。……何人兄弟?」
「四人。兄ちゃんと俺と、あと弟ふたりで……」
食後、ふたりは台所に並んで洗い物をする。
「高校卒業したら、親父さんの会社継ぐの?」
「いや、それは兄ちゃんがやってくれるよ。俺は好きにする」
「ふーん? じゃあ将来は?」
「体操のおにいさん」
桐山は鍋を洗う手を止めて、テレビの中で子供に囲まれている麻倉の姿を想像した。
あはは、と濡れた食器をラックに置きつつ、麻倉は笑う。
「冗談だよ」
「似合うけどな」
「まぁでも、ちっちゃい子は好きだし、保育士さんとか憧れるなぁ」
「子供にもてそうだもんな、お前」
「そてっちゃんは?」
「俺か? 進学はするけど……」
「料理研究家は?」
「学歴の使い道」
「いいじゃん、たぶん向いてるよ。レシピ本出しなよ。そんでお昼のテレビ番組に『ドSイケメン料理研究家・桐山蘇鉄』なーんて紹介で出ちゃったりしてさぁ。手際の悪いアシスタントを蹴飛ばしたりしてさぁ」
「大問題だ。そんな主婦の味方は俺も嫌だ」
そんな話をしながら、ふたりは片づけをした。
友人に励まされながら運動をしたのも。
友人と相談しながら夕飯の買い物をしたのも。
友人に手料理を食べてもらったのも。それを褒めてもらえたのも。
お互いの将来の話をしたのも……
桐山蘇鉄にとっては初めてのことで……このときの記憶が、いつまでも温かく彼の胸に残り続けることを、少年はまだ、知らない。