たったひとつの与えられるもの
桐山蘇鉄も生物であるからして、当然眠る。そのために何か準備するでもなく、どうしようもなく、眠るときは眠る。
しかし睡眠に恐怖さえ感じる桐山は、「眠っている」と気付いた瞬間に目を覚ますという、たちの悪い悪癖を抱えていた。当たり前だが日々の眠りは浅い。
このときも、そう。
……これは、夢……
桐山がそう感じた一瞬の後に、彼の意識は覚醒した。
明るい。昼間。白い天井。ここはどこ? 消毒薬の匂い。遠い喧騒。学校。保健室。授業は。体育。ランニングしていたはず。何時? 何時間眠って……?
麻倉。
……体育の授業中の最後の光景、麻倉与一の顔を思い出した瞬間に、ばらばらな感覚と想念と記憶が一応の整合性を獲得した。何が起きたのかもなんとなく理解した。
むくりと体を起こす。
ベッドの上、布団を捲ってみると、体操着を着たまま。
白いカーテンで仕切られていたが、そこが高校の保健室の中だということはわかった。
「……くそ……今、何時だ……?」
顔に手を当て、眼鏡がないことに気付く。ぼやけた視界で振り向くと、枕の横にそれは畳まれていた。
眼鏡を装着して、ようやく明瞭な視界を確保したときだった。
「……失礼しまーす……」
カーテンの向こうから、からからと静かに遠慮がちに、保健室の引き戸が開かれる音が聞こえた。
声は男。
「あれ? センセーいない」
保健室に入ってきた男の正体に気付いた桐山は、うげ、と渋面を作った。
「……そてっちゃーん……起きて……るね! ほっほー!」
ベッドを取り囲むカーテンを開けてひょっこりと顔を出してきたのは、麻倉与一だった。
目を覚ました桐山を見て、麻倉は満面の笑みを広げる。
「おはよ。具合はどうだい?」
「………………今、何時だ?」
「おひーるやーすみー」
よいしょ、と麻倉は丸椅子を引っ張ってベッドの横に腰を下ろした。
「そてっちゃんのお弁当持ってこようか?」
「……いや、今日は学食行くつもりだったから」
そうじゃないだろう、と桐山は自分を責める。
いうべき言葉は、そうじゃないだろう。
桐山の懊悩を知らない麻倉は「そっかそっか」などと相槌を打つ。
「売店閉まる前に何か買ってこようか」
「いいよ。今日はこのまま早退する。……それより、さ」
桐山は意を決して話題を変えた。知らず知らずに、膝の上の毛布を握り締めた。
「俺……体育の授業で、倒れた……んだよな?」
最後の記憶は、二時間目の体育の授業中、校舎の外周のランニング中で途切れていた。そのとき傍にいたのが、目の前にいる癖の強い栗色の髪の男だった。
麻倉は丸椅子をがこがこと鳴らして体を揺らし、天井を見上げた。
「んー……正確にいうと、倒れてない。よろけて車道に倒れそうだったところを俺が掴まえてー、何事かと思ったら、そてっちゃんが意識飛んでぐにゃぐにゃになっててー、俺が保健室までおんぶしてダッシュしてー……で、今、ここです」
麻倉はそういって、にんまりと微笑んだ。親友の回復を喜ぶように。
そう。今、ここ。
今しかない、ここしかないと桐山は心に決め、口を開いた。
「あ……ありがとう。助かった、よ……」
「いえいえー。どういたしまーしてー」
本当にどうということでもなさそうに、麻倉は桐山の礼を受け止めた。
いうべきことを伝え終えると、桐山は肩の荷が下りた。
ぼすんとベッドに倒れこむ。
「……ほんと、情けない……」
「まぁ反省すべきではあるよねー。体調が悪かったら無理しちゃダメ」
珍しく麻倉の物言いに棘があった。恐らく本当に心配してくれたのだろうと桐山は思う。きっと休み時間の度に様子を見に来てくれたのだろう。
それにひきかえ……と思考が自嘲の域に入ると、桐山は麻倉を見れなくなった。
ベッドの上からの窓の景色は、青空しかなかった。
「今朝は、悪かった。……ごめん」
思わず口をついて出てきた謝罪の言葉に、自分自身、桐山が驚いた。
少なくとも、問い返してきた麻倉よりも。
「ごめんって、何のこと?」
「いや、その……ほら、一時間目の英語で、お前を蹴飛ばしただろ? かなり乱暴に」
そっぽを向いたまま謝るのは誠意がない。しかし顔を見ながらでは喋れない。
無意識に桐山の視線が選んだのは天井だった。
視界の隅にいる麻倉が「ああ」と思い出したように頷く。
「そてっちゃんが謝ることないよ。体育のときにも話したけど、居眠りしてた俺が悪いんだし。あのあとたーちゃんにもめっちゃ怒られた」
たーちゃんとは、英語教師の田所太一のことである。
麻倉が「悪いのは自分だ」と思っているのは事実である。体育でのランニング中、意識が朦朧とする中で隣を走っていた麻倉は、桐山にそのことで謝っていた。
しかし桐山はその言葉に甘えることはできない。
「いや、あんな暴力は、どんな理由があっても正当化されちゃいけない。もしかしたらお前にケガさせていたかも……」
「そてっちゃんのひよわキックなんて暴力に入らないよ。うちの母ちゃんのチキンウィングフェイスロックに比べれば、まだまだぜんぜん」
よくわからないが凶悪そうな技の名前に、桐山はくすりと笑った。
「まぁでも、せっかく謝ってくれたし、俺は許すよ。だからこれでおしまい。おあいこってことで」
「うん。……ありがとう」
麻倉と喋っていると素直な自分でいられることに、桐山はようやく気付いた。
普段の……麻倉がいうところの〈優しい系クール眼鏡のキャラ〉も、クラスメートに対してそう演じていたに過ぎない。麻倉と喋っているときの態度のほうが〈素〉に近い。
隣にいる、いつもむにゃむにゃしている男は、素の自分をさらけ出せる人間だった。
「麻倉、お前……」
いい奴だったんだな、と口が滑りかけて、桐山は慌てて口をつぐんだ。
「なぁに?」
「……俺のひよわキックで起こされたくなかったら、もう居眠りするな」
「はーい。善処しまーす」
「まったく……」
思い返せば、麻倉与一という男をちゃんと見ていなかったなと桐山は思った。
授業態度にこそ難はあるが、性格は明るく朗らかで人当たりが良く、周囲の活力の呼び水となる男だった。当然友人も多い。
それに比べて自分は……とまたしても自嘲してしまう。
「……羨ましかったんだな……」
「なにが?」
麻倉が興味深げに尋ねてくるが……とても、いえない。
友人も多く日々を精力的に生きる男に、自分はただ腹を立てていたわけではなかった。みっともなく嫉妬していたのだ。
こればかりはとてもとても……白状できない。
「お前の居眠り癖だよ」
「んー? そてっちゃん、眠れてないの?」
そういって麻倉が身を乗り出してきた。
桐山は「本当に自慢じゃないけど」と頭をかいた。
「去年から、まともに眠れてないな。朝までぐっすり眠った覚えがない。寝ても二時間くらいで目が覚める」
「……それ、結構深刻な不眠症だと思うけど」
「かもな」
「かもなって……病院は?」
「行かない。別にどうしても眠りたいわけじゃないし」
「どうして? さっき羨ましいってゆったじゃん」
「『眠るのが好きでいいな』って意味だよ。寝るの嫌いなの、俺」
嘘はついていないが本当のこともいっていない。
桐山のそんな欺瞞は、すぐに看破された。
「それはおかしいよ。そてっちゃん。生き物として不自然だ」
「そういう奴もいるって。俺がそうだ」
「じゃあそてっちゃんの生活がダメなんだ」
ずばりと指摘され、桐山はぐうの音も出ない。
「いや……俺も医者じゃないからわかんないよ? でもせめて、毎日六時間くらいは眠ったほうが絶対に今よりかは健康的だって。嫌いとかなんとか屁理屈こねないで今からでも寝なさいよホラホラ」
正論を述べる麻倉はいそいそとベッドの上の桐山に布団を被せようとする。
拒絶こそしなかったが、桐山は本心そのままに「やめろって」といった。
「俺がどうこうじゃない。何も考えずに寝れたらいいなとは思うけど、それができたら苦労はしてない」
「むぅー……じゃあ、寝たくないってわけじゃないんだね?」
さっきから自分の睡眠の習慣について、どうしてそこまでこだわるのかと、桐山は疑問に思うと同時に、鬱陶しく感じはじめていた。
「そうだよ。でもお前には関係ない」
「あるよ」
その麻倉の即答が引力を生み、桐山の視線が吸い寄せられた。
麻倉は自信に満ちた笑みを浮かべ、こういった。
「できる。俺にはできる。……ほかの何ができなくったって、たったひとつ、これだけは自信がある」
ここからあとに続く麻倉の〈申し出〉に、桐山が応じてしまうのは、一日にふたつも負い目を作ってしまったから、というのが理由のひとつ。
「俺は、そてっちゃんを眠らせることができる」
もうひとつの理由が……好奇心に負けたから。
「今度、そてっちゃんちにお泊まりさせてよ」