桐山蘇鉄の夜
「ただいま」
といったところで返事がないことは、桐山蘇鉄自身がわかっている。
共働きの両親が帰宅部の自分よりも先に帰ってくることなど、まずありえない。
雁喰塚高校から自転車で十五分ほどの距離にある自宅に帰ってきた桐山は、手洗いとうがいを済ませると、まずは外に干してあった衣類を取り込んだ。そうして今度は風呂場に赴き、洗濯機から浴槽に伸びていたホースを引っ張り上げて残り湯を捨てる。濡れた手を拭いて次に向かうは台所。冷蔵庫を開けて中身を確認する。
「……牛乳と……納豆と……卵は、まだいいか」
独り言を呟きつつ、調達しなければならない食材と今晩の献立を考える。
「ご飯焚いて、キャベツでスープを作って……いや、大根使って豚汁……面倒だな……トマトと鯖の缶詰を買って……肉屋さんに寄って……」
結論を見出した桐山は、メモに買うべき物をまとめて、制服のまま家を出た。
三十分後、両手にエコバッグを抱えて戻ってきた桐山は、もう一度「ただいま」という。
もはやただの習慣……条件反射のようなものになっている桐山は、「おかえり」という返事を聞いたことがほとんどない。
スーパーで買ってきた物を収めるべきところにしまってから、桐山は米を研ぎはじめる。八合分の米は三人家族で消費するにはもちろん多すぎるが、冷凍保存する前提で毎回多めに焚いている。
炊飯器に火を入れると、今度は風呂場に向かい、手早く浴槽とタイルを掃除する。
居間に戻り、時計を見る。
「……まだ早いな」
桐山は今朝干した衣類から、自分の物とタオルだけを取って畳み、箪笥にしまう。
そしてエプロンを着て台所へ。シンクに積まれた朝食で使った皿を洗う。
汚れた皿がなくなって、しかし休むことなく調理を開始。
キャベツやらタマネギやら、冷蔵庫の余った野菜を大雑把に次々に切り分けて、トマトの缶詰と供に鍋に入れる。目分量で水を入れたあとは、コンソメのキューブをふたつ入れて火にかける。
続いて小さな鍋に鯖の水煮の缶詰を開け、木綿豆腐と調味料を入れて煮る。
ときどき小鍋を気にしつつ、まな板の上でちくわを切る。
「おっと」
忘れていた。
桐山は冷蔵庫からウィンナーを取り出して輪切り。スープに投入。
ほどよく火が通って鯖の缶詰の煮物が完成。すぐにその小鍋をどかして小さいフライパンを置く。
茶碗の中で、薄力粉と青海苔を水で混ぜる。そうして溶いた小麦粉に、あらかじめ薄力粉をまぶしておいた切ったちくわをくぐらせる。
フライパンに多めの油を敷き、衣を纏ったちくわを焼いていく。じゅわわ、と高音の油が泡立つ。
桐山蘇鉄はちくわの磯辺揚げが好きだった。のり弁当では白身魚のフライの引き立て役にしかなっていないことに憤るほどに。しかし手間がかかるのは嫌いなので、このようにして〈ちくわの磯辺揚げもどき〉を大量に作る。水と薄力粉は量ってすらいない。
切ったちくわを全て揚げると、スープの仕上げに取り掛かる。味見をしつつ塩と胡椒を加えるだけだが、初めて作ったときに塩を入れすぎて「喉が渇く汁物なんて!」と後悔した経験があるため、桐山は真剣に味を確認する。
鯖の煮物を盛り付け、スープを器に満たし、クッキングシートを敷いた皿の上にちくわを積み上げる。ちょうど白米も炊き上がった。
ここで満を持して登場するのが、近所の肉屋で買ったメンチカツ。本日のメインディッシュである。
から揚げにせよトンカツにせよ、プロの作る揚げたてを食べてしまうと、自分で作ろうという気は起こらなくなる。そのほうが安くて美味くて手軽なのだから。
大きめの皿にメンチカツを三枚並べ、くし切りにしたレモンも三つ副えて……ようやく、今晩の夕食が完成した。
「………………」
しかし……手を抜きながらであっても、桐山蘇鉄が手ずから準備した夕飯を食べてくれる人間は、彼以外には未だ誰も帰っていなかった。
時刻は午後七時。
「……いただきます」
エプロンを脱いだ桐山は、静かに手を合わせ、メンチカツにケチャップを少しかけた。
ざくっと、揚げたての衣にかじりつく。
やっぱりここのメンチカツは美味しいね。
誰かにそう伝えたかった。
母親が帰ってきたのは桐山が食事を終えて一時間後、父親が帰ってきたのはさらに一時間後だった。
看護師をしている母親は帰り際に急な入院患者を受け持つことになって遅くなっていた。父親の帰宅が遅いのはいつものこと。学生は授業が終われば帰れるが、県立高校の教師はそうもいかないようだった。
食べごろを逃して冷めていく料理。それを見るのはもちろん、それがわかっていて作ることも、桐山には当然心苦しいものがあった。
それでも桐山が料理を作るのは、両親が仕事で疲れて帰ってくるのに、「何もない」のでは気の毒だという心がけからだった。両親が夕食を必要としない晩は、彼は料理などしない。コンビニで済ませる。
もちろんこんな日ばかりではない。三人揃って夕食を摂る日も普通にある。しかし〈そんな日〉は、「母親の手料理を食べたい」と桐山が思うほどの頻度である。
桐山は父親のあとに風呂に入り、それから自室の机に向かい、課題の消化と翌日の予習に取り組む。塾に通ったほうがいいのだろうかと彼は悩んでいる。できれば避けたい。なぜならそうなったとき、家族がばらばらの時間に別々の食事を摂る姿しか想像できないからだ。
十分と思える予習を終えたあと、寝巻き姿の桐山はベッドの上でだらだらとスマートフォンをいじっていた。
「………………」
手の中で、日付が変わった。
「…………はぁ」
桐山はベッドから起き上がり、両親におやすみと告げた。
そうして、暗い部屋の自分の寝床にもぐりこんだ。
……眠る。
眠っている。
息子は眠っている。
ほかはともかく両親には、たとえそれが見せかけであっても、そう思わせなければならない。
ベッドの桐山は、暗闇の中、どの高さにあるのかわからない天井を見つめていた。
ただ見つめていた。
……桐山蘇鉄には癖がある。
もはや慢性的な病と呼ぶべきほどの習性……桐山蘇鉄は、目を閉じない。
まばたきや反射を別にすれば、桐山蘇鉄が自分の意思で目を閉じることは絶対にない。
眠らなければならない。それはわかっている。健やかな生活を送るためには必要だ。
しかし桐山には、瞼を閉じることができない。
それは防衛である。瞼の裏側から襲い掛かってくる忌まわしい過去から逃れるために必要な手段である。
桐山蘇鉄はどうしようもなく……眠れない。眠ることが、恐ろしい。
桐山は頭のそばに置いていた、充電中のスマートフォンに手を伸ばし……結局、一睡もできないまま、朝を迎えた。